アイスワインを君に

@ramia294

 目眩く夜は?

 細長い手提げ袋には、細長い箱が入っている。

 ピンク色のその箱を大事そうに、電車の先頭車両の片隅にその男はいた。


 その男は、会社から帰る途中だった。

 いつもは、同じ時間に退社して、同じ時間の電車の同じ三両目の二番目の左側のドアの前で立つことを頑なに変えなかった。

 しかし、その日は、特別であった。


 半年前、何の取り柄もなく、目立つ事もない、ごく普通の人生を送っていたその男。

 その年入社し、瞬く間に社内の独身男のアイドル的存在になった三田みた綾音あやねから、その男が突然、告白されたのだ。


 好意を持たれる理由に、思い当たらないその男は、当初ドッキリか?とまで考えた。


 しかし、休みの日のたび、二人の時を積み重ねて、恋を大切に育んできたその真面目しか取り柄のない男の心の中は、綾音の事でいっぱいになった。

 いや、溢れそうにまで、なっていた。


 そして、

 2月14日。


 その男は生まれて初めてのバレンタインデーのチョコを貰った。

 

 あまりの嬉しさとそれに伴う興奮で、チョコを食べる前に鼻血を出してしまった。

 もちろん、ホワイトデーのお返しに、何をプレゼントするかをさんざん迷っていた。

 ネットでも調べが、その真面目男の心を震わせる物が無かった。


 なにぶん人生初の事だ。

 何も思いつかないのも仕方ない。


 悩んだ末、真面目だけが取り柄のその男は、彩音に何か欲しいものが無いか訊ねてみた。

 彩音が、恥ずかしそうに、二人で食事をと答える。

 そんなことで良いのかと安堵した。

 しかし、


 『あなたの部屋で食事を作らせて欲しい』


 と、彩音が付け加えたときには、心臓が本当に止まるかと思った。

 デートは何度もしていたが、彼女が部屋に来たことは無かった。


 彼女のエプロン姿が目に浮かんだ。

 あの細くて白い指が刻む野菜。

 主菜は、肉だろうか?

 魚だろうか?

 彼女の作る料理を味わう事が出来る。

 その男は、その時の自分自身がどんなにか幸せだろう?

 本当に心臓がとまるのではないか?

 考えると、仕事が手につかなかった。

 そして、


『翌日は二人そろって休みを取りましょう』


 と、言われた時には腰が抜けてしまった。

 つまり、彼女は泊っていく気なのだ。


 いや、まさか?

 でも、それは?

 しかし、翌日は?

 いやいや、そんな夢みたいなことが?


 色々と考えるその男は、しかし、悲しい事に知識があまりに少なかった。

 人との付き合いに不器用な彼。

 人生の唯一道案内で師は、小説であった。

 でも、彼の知る小説には……、


 アルコールを飲み

 食事をして

 その後に目眩く夜を。

 

 その男の持つ小説には、それ以上の表現はされていなかった。

 

 ん?

 目眩く夜?


 何のことだろう?


 その男の持つ小説の全ては健全であった。


 その夜、二人に訪れる事を理解出来ない。

 憐れな、憐れなその男。


 しかし、その男にはホワイトデーのお返しを思いついた。

 ワインだ。


 彼女の手料理を食べながら飲むワイン。


 その時の彼には、とても良い思いつきに考えられた。


 彩音は、その男の部屋の住所は知っていたので、少し帰る時間が遅れるかもしれないからと、震える手で合鍵を渡した。

 赤く頬を染めた彼女は、嬉しそうに鍵を受け取り、


「買い物をしてから行くね。料理しながら待ってます」


 と、その男に言った。


 その男は、百貨店で、アイスワインを長考の末、買ったので、いつもより1時間遅い電車に乗った。

 それは、夕刻のラッシュで、乗客の数は多かった。

 いつもと違い先頭車両に乗ったのは、その男の降りる駅の改札に少しでも近かったからだ。

 綾音に、早くアイスワインを渡したい。

 彼女の喜ぶ顔を早く見たい。

 それだけの理由だった。


 その路線には、長いトンネルがあった。

 それは、作られてから、それなりに時間を経ていた。


 その男の乗る電車がトンネルに差し掛かったその時、その地震が起こった。

 後に、○○断層地震と名が付くほど大きな地震の揺れは、トンネルを崩し、大量の土砂が電車を飲み込んだ。


 その男は、身体でそのピンク色の箱を庇い、アイスワインを守った。


 揺れが収まり、その男は立ち上がった。


 あれほどいた乗客が誰一人として見当たらないが、気にしていられない。

 その男には、帰らないといけない理由があった。

 帰って、彩音にこのアイスワインを渡し、彼女の手作り料理を食べ、目眩く夜を過ごすのだ。


 今は謎でも、目眩く夜の正体を知るのだ。


 四方を土で閉じ込められたその男は、アイスワインを懐深く固定して、手で土を掘った。

 気の遠くなる作業だと思ったが、案外簡単に外へ出れた。

 時間がかかったが、外へ出ることが出来たその男は、彼女の待つ部屋へ急いだ。


「遅くなって、ゴメン」


 その男が入った部屋にはテレビの灯りが。

 彩音は泣き崩れていた。


 その男は、彩音に声をかけようとした。

 が、それより前に、テレビのニュースが目に入って来た。


 もちろん、そのニュースは、あの地震の事だった。


 映像から酷い地震の被害が分かる。

 あのトンネルの被害も相当で、かなりの人員が救出に動いていた。


 電車の先頭車両は、ほぼ掘り出されていたが、無惨な状態だった。

 先頭車両の乗客は、全員助からなかったとアナウンサーが言う。

 自分以外は、全員駄目だったのかと、その男は思った。

 人が倒れている映像が映し出される。

 その中には、見覚えのある服を着た者もいた。


 破れた紙袋の中からピンク色の箱を身体で庇った動かないその男の姿は、どう見ても自分自身だ。


 そういえば、トンネルを出てから、自分は、どうやってここに帰ったのだろう?


 何より重機だらけのあのトンネル。

 自分は、手で掘って出てきた。

 そんな事が、可能なのだろうか。


 その男は、自分が死んでいる事を認めるしかなかった。

 どうやら、幽霊になったらしい。


 幽霊になったその男が残している未練は、


 綾音にアイスワインを渡す事が出来なかった事。

 彼女の手料理が食べれなかった事。


 そして、何よりも。


 目眩く夜の正体が、永遠の謎になった事だ。


            終わり

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイスワインを君に @ramia294

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ