その扉の向こうへ

澤田慎梧

その扉の向こうへ

 重い防音扉の向こうから姿を現した光景は、記憶の中のそれよりも小さかった。

 数十人も入れば、いっぱいになってしまうフロア。

 店長が一人で切り盛りしていた、こじんまりとしたバーカウンター。

 狭すぎて、メンバーが身を寄せ合うようにして演奏したステージ。


 今でも目を閉じれば、色鮮やかな照明の輝きと共に、ここに立った日のことを思い出せる。


「おや、来てくれたのかい。智也」

「……店長。ご無沙汰っす。美沙奈は?」

「娘はまだだよ。ジジイだけさ」


 一体どこに隠れていたのか、店長が不意に姿を現し、俺に声をかけてきた。

 昔は黒々していた髪も髭も、今やすっかり白くなってしまっている。まだ六十代のはずだが、見た目は完璧に老人だ。

 きっと、大変な苦労を重ねたのだろう。


「本当に、やめちまうんですね」

「ああ。俺も、もオンボロだからな。潮時ってやつさ」


 店長と共に、改めて室内を見回す。

 フロアに敷き詰められたチェック模様のタイルには、落としきれない汚れと隠せない傷が所狭しと刻まれている。

 ステージの上にあったスピーカーや照明などの機材は既に取り払われ、ただのお立ち台になっている。

 バーカウンターの後ろの棚に置かれた、店長おすすめの酒の瓶たちだけが、時代に取り残されたようにその姿をさらしていた。


 駅からほど近い雑居ビルの地下一階という好立地で営業してきた、ライブハウス「ライブ・ガガ」。その終わりの姿がこれだった。

 俺の――俺たちの青春を詰め込んだビックリ箱が、消えるのだ。


「智也が初めてウチに来てくれたのは、まだほんのガキの頃だったよな?」

「ああ。まだ高校生でさ。ギターで天下を獲ってやるんだってイキってるガキだったよ」

「ははっ。ガキはそのくらいでいいのさ――やるかい?」


 店長が棚からバーボンを持ち出して俺に尋ねる。静かにうなずくと、驚いたことにグラスになみなみと注いだものを差し出された。

 昼間からベロンベロンになれ、ということらしい。


「悪いな。水道も止めちまったし冷蔵庫も処分したんで、氷の一つもないんだわ」


 言いながら、グラス一杯のバーボンをグイっと呷る店長。

 一瞬、「年を考えろ」なんて言葉が出そうになったが、バーボンと一緒に喉へ流し込んだ。

 ――胃が焼けるように熱くなる。


「店長さあ……」

「なんでぇ?」

「いや、なんでもない」


 ゲップと一緒に、余計なものが口から出そうになって、慌てて思いとどまる。

 「経営、厳しかったのか?」なんて、野暮なことは聞けない。そもそも、今聞いたってどうしようもないことだ。


 ――プロのギタリストにこそなれなかったものの、俺は大学を出た後、ショービズの世界へと飛び込んだ。

 様々なライブイベントの運営や設営を担う会社に就職したのだ。

 自分が夢を叶えるのではなく、誰かの夢を形にすることを選んだ訳だ。


 そこからがむしゃらに働いて、失敗も沢山して、経験をいっぱい積んで。四十代になった頃、ようやく独立して「さあこれからだ」という時に、新型コロナがやってきた。


 感染対策が厳しかった頃には、沢山の同業者が仕事が無くなり廃業していった。

 感染対策が緩くなった後にも、スタッフやアーティストが新型コロナに感染してライブやイベントが中止になることが多くなり、やはり多くの仲間たちがいなくなった。

 それでもなんとか踏ん張って、歯を噛みしめて、俺の会社は生き残っていた。本当に、ギリギリのラインで。


 ――小規模なライブハウスなどは、もっと悲惨だったと聞いている。

 何せ、そもそも会場が狭いし換気が悪い。マスクなどの感染対策をしていても、クラスターが発生する可能性は高いし、最近では「お願い」をしてもマスクをしてくれない客が増えて来たらしく、ライブハウスでの興行を敬遠するバンドも少なくないらしい。


 「ライブ・ガガ」のような古くて小さな箱は、モロに影響を受けているはずなのだ。

 店長の苦労は、聞かなくても分かる気がした。


「会社の方はどうなんでぇ、智也」

「お陰様で。一時期は危なかったけど、最近では落ち着いたよ――ま、相変わらずリスクはあるけどな」


 ほんの少しだけ嘘を吐く。本当は、来月の支払いもようやく出来るような状況なのだ。スタッフや興行アーティストが新型コロナやらなんやらに罹りでもしたら、そこで終わる。

 けれども、そんな辛気臭い話は店長にはしたくなかった。


「やれやれ、どこも厳しいなぁ。世知辛いぜ」


 言いながら、いよいよ瓶ごとバーボンを呷り始める店長。

 流石に今度こそ「年を考えろ」と言いたくなったが、酔いのせいか口が上手く開かない。

 ――まあ、いいか。


「なあ、智也よぉ」

「ん?」

「お前は、諦めるな。絶対に立ち止まるんじゃねえぞ」

「……店長」


 店長は全てを悟ったような目で俺を見ていた。

 昔の仲間の誰かから、俺の苦境を聞いたのか。それとも、俺の嘘が下手くそ過ぎただけなのか。


「店長、俺は――」


 店長の方へ一歩踏み出そうとして、よろける。

 バーボンが早くも回ったのだろうか? 世界が回り始め、景色がふやけていく。


「智也……こんなこと言ったら重いかもしれねぇけどさ。俺ぁ、お前らのことを、息子みたいに思ってたんだぜ――」


 店長の姿が歪み、その声がどんどんと遠くなっていく。

 おかしい。ただ酒に酔っただけじゃ、こうはならない。

 バーボンに、何かおかしなものでも入っていたのか?


 ――思考がまとまらぬまま、俺の意識は急速に闇へと墜ちていった。


   ***


「――さん! 智也さん! ちょっと、どうしたんですか?」

「……えっ?」

「『えっ』じゃないですよ。ドアノブ掴んだまま固まっちゃって。寝てたんですか?」


 視界が開けると、そこは「ライブ・ガガ」の入り口ドアの前だった。

 俺の後ろには、今の店長である美佐江――前の店長の娘が不審そうな顔をして立っている。


「美佐江……か。そうだよな、おかしいもんな」

「おかしいのは智也さんですよ。一体どうしたんですか」

「いや、な。なんか、このドアを開けたら、店長……親父さんがひょっこり顔を出すんじゃないかって、さ」

「あ~。まあ、ありそうですよね。あの人なら」


 美佐江が困ったような、でも少し嬉しそうな苦笑いを浮かべる。

 俺より一回り近く年下の彼女も、もう三十代だ。でも、その印象は小さな体で父親の仕事を手伝っていたあの頃と、全く変わらない。


「お父さん、この箱が好きだったから――普通に化けて出てきそうだもん」


 ――店長が亡くなったのは、ちょうど新型コロナの感染対策が緩められた頃だった。

 世間が「コロナが明けた」だなんて意味不明なバカ騒ぎを始めた裏で、重症化してあっさり亡くなってしまった。病気知らずで、医者からも太鼓判を押されるような健康体だったのに。


「店長は……もういないんだよな」

「うん。ごめんね。最後のお別れは、家族しか出来なくて」

「謝るのはこっちの方だよ。葬式にも行けなくてさ」

「智也さんの会社だって大変だったんでしょ? お父さんだって許してくれるよ」


 店長の訃報が届いた時も、俺の会社は潰れるかどうかの瀬戸際に立っていた。状況は今よりも逼迫していて、社長の俺が現場を離れる訳にも行かず、店長の葬式には顔も出せなかったのだ。

 ――だから、だろうか。店長が死んだなんて、まだ信じられないのだ。


「あれさ、なんだっけ。箱の中の猫は、観測するまで生きてるか死んでるか分からねぇってやつ」

「シュレディンガーの猫?」

「そう、それ。……なんだかさ、このドアを開けなければ、『ライブ・ガガ』はまだ現役バリバリで、中では若いバンド小僧がイキってて、店長がバーカウンターからそれをニコニコ眺めてるんじゃねぇかって、さ」


 ドアノブを掴む手が、かすかに震える。

 そう、これが俺の本音だ。俺はまだ、店長の死を受け止め切れないのだ。青春の場所が、思い出の箱がもう空っぽになっているのを、この目で見たくないのだ。


「……じゃあ、中、見ないで帰る?」

「――いや」


 先程見た、白昼夢を思い出す。

 きっとあれも、店長の死を受け止め切れない俺の勝手な願望だろう。

 けれども、たった一つ、信じられることがあった。


『お前は、諦めるな。絶対に立ち止まるんじゃねえぞ』


 きっと店長が生きていれば、俺の苦境を知っていれば、同じ言葉をかけてくれるはずだ。

 だから――。


「ちゃんとお別れして、前に進まないとな」


 手の震えを抑え込む。

 ドアノブをしっかりと握りしめ、俺はその箱の扉を開けた――。 



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