輪廻のおわりに、君と生きていく
深月ハルカ
第1話 世界のおわりに、君と生きていく
豪
初めて出会ったのは小学校四年の時だ。塾から家までの帰り道にある公園で、彼はブランコに座って自分を待っていた。
気のせいではなかった。彼はブランコを漕ぐわけでもなくただ空を見上げていて、公園脇の道路を通り過ぎようとしたら、こちらへ顔を向けて微笑んできた。
小学生にしては少し鋭い眼差し。細身ですらりとした体格をしており、まるで武闘家のようにしなやかな動作でブランコから立ち上がり、近づいてきた。
《名前を聞いてもいいですか》
不審者だと思われないようになのか、笑みを刷き、彼は自分の名を先に名乗った。その時、
夏至が近くて、夕暮れはいつまでも引き延ばされ、空には夕陽の残光が居座っている。
どうして、彼は自分を待っていたのだろう。
世界が琥珀色に包まれたあの瞬間が、記憶に焼き付いて離れない。
それから、彼は二つ隣の市から同じ塾に通い、同じ私立中学に入った。中高一貫の男子校で、それから彼はずっと自分の隣にいる。
「貴巳、そろそろ理科室に移動しないと」
「あ、うん」
五時間目は実験があるので、理科室に行かなければいけなかった。昼休みは終わりかけで、級友たちもばらばらと移動をはじめている。貴巳もタブレットを手に席を立ちかけ、漂を見る。
物静かな男だ。
すっとした切れ長の目は伏せ目がちで、やや長めの黒髪は無造作でも収まりがよい。
制服がだぶつきそうなほど細いのに、上背もあって脆弱には見えない。自分もそう社交的なほうではないけれど、漂が自分以外の誰かと仲良くしているところを見たことはなかった。
廊下に出る寸前で、席に残っているクラスメイトが声をかけてくる。
「あ、貴巳、レポート写さしてくんない?」
「いいよ」
お調子者のクラスメイトは両手を合わせて拝むようにおどけ、助かると笑った。すると少し離れた席にいる他のグループも乗っかってくる。
「貴巳、俺もいい?」
「あ、オレもオレも!」
「いいよ」
貴巳はすっとタブレットからレポートを送信した。今日の実験に関する推論だ。実験はこの課題をもとに行う。推論ごとに手順が変るから、当然結果も異なってくる。課題をやってこなかった級友たちは大急ぎでテキストをコピーペーストした。検索すれば簡単に出るものだが、筋道立てて文章にするのが面倒なのだろう。丸写しだから、実験結果も全員同じになるはずだ。
適当な礼の言葉を背中に、タブレットに向き合っている彼らをおいて廊下に出ると、隣で漂が低く言った。
「お人よしも大概にしたほうがいい」
彼らは“友だち”ではないと漂は常々警告してくる。ただ調子よく課題を丸写しさせてもらったりするのに便利だから、利用価値のある人間として近づいてくるだけだというのだ。
貴巳はそれに毎回笑みで諭す。そんなことはわかっている。
「別に、彼らの言いなりになっているわけじゃないよ」
まだ不満そうな顔をする漂に、貴巳は軽く笑った。彼は、何故か自分をとても大切に考えてくれるのだ。
「僕は課せられたレポートを仕上げて、調べたり書いたりしたことは身になっている。出来上がったレポートを誰が写そうが、自分の学力には影響がない。むしろ、調べもせずにコピーするだけの彼らは、効率よく成績を維持できるように見えるけれど、楽をした分、内容は身に付かないよ」
「……」
結果的に中味がスカスカな頭が出来上がるだけだ。手を抜いた分は、確実に本人に影響する。
「長期的に見たら、彼らにレポートを見せないほうが、親切かもしれないよ? 僕は目先の和を重んじて彼らを甘やかし、駄目にしている」
「それは彼らの自己責任だ」
憮然とした顔で、まるで主君に付き従う側近のように折り目正しく、漂は半歩下がって歩いていた。
「そう、突き放さないでやりなよ。彼らも、同じクラスの仲間なんだから」
「……」
彼は、本当に自分以外には冷たい。かといって独占欲があるわけでもなく、むしろ積極的に漂以外の友人を作らせようとする。さりげなくこちらの周囲に気を配り、危険から遠ざけ、それで満足そうに目を伏せているのだ。
何周目の人生なのかと思うほど、悟り切った顔をして。
「漂はさ……」
「……?」
「いや……なんでもない」
漂は心配そうに足を止める。
「何か、不安なことでもあるのか?」
家庭環境、漂のいない習い事での人間関係……彼は探るというほどのしつこさもなくそのあたりを聞いてくる。まるで、“幸せか”と確認されているようで、不思議に思うと同時に、余計本当のことは言えなくなった。
漂は、自分に幸せでいてほしいのだ。言葉にしない想いを感じ取れるから、いつの間にか漂の前でそう装うようになった。
何故、彼がそんなにこちらを気にしてくれるのかわからない。喉元まで出かける問いは、いつも最後まで言葉にならない。
――どうして、そんなに心配してくれるんだ?
友人というにはあまりにも保護者的な眼差し。押し付けるでもなく、でも願いのようなその眼に、どうしても応えたいと思ってしまう。
漂の望むように、幸せな人生だと伝えたい。それで漂が満たされるのなら、あの、誰にも見せない伏せた微笑みを見られるのなら、偽りの幸福を演じておきたい。
「行こう、もうすぐ予鈴が鳴る」
「ああ……」
どうして彼の望みを叶えてやりたいのだろう。
どうして、彼の微笑みを見たいのだろう。
――漂………。
+++
豪
ルビーの柄飾りを、サファイアの両目を、身体を覆った金箔を一枚ずつ人々に分け与え、王子は粗末な鉛の塊になる。そして、ただ彼に仕えただけの
――アミル様……。
自分の主君も、この絵本の王子と同じだ。漂は教室の一番後ろの席から、三列先にいる貴巳の背中を見る。
「……」
背筋が伸びているというほど直立ではないのに、どこか凛とした気配がする後ろ姿。アミル皇子も、荒々しい弟皇子たちに比べたら穏やかな容姿をしていたのに、何者にも侵しがたい気品を漂わせていた。
帝の第一皇子として生まれ、正妃に立った母とともに、幸福な子ども時代を過ごした人だ。自分が護衛兼そば仕えとして配属されたのは五つになるかならないかの頃だった。
《ムスタフというのだね。母様と同じ国の匂いがするよ》
やわらかな頬が躊躇いなく寄せられ、ふわりと香る
《これからずっと一緒だね》
《……はい》
本当はあの時、微笑む皇子に心の中で反発していた。
後宮の奥深くで大事に育てられた皇子……彼に、奴隷として連れてこられた自分の人生がどんなものだったかなど、想像もつかないだろう。食住に困らない職にありつけたのは、この皇子の母方の祖国の子どもだったからという、僅かな幸運のおかげに過ぎない。
同じ国の血を引き、同じ年に生まれ、なのに、片方は絹の産着にくるまれて育ち、自分は藁さえない土の上で暮らした。
運命を分け隔てるのは、どこに生まれ落ちたかだ。貧民の子は一生貧民だし、奴婢はそもそも子を得ることすらできない。
《部屋はこっちだよ。行こう!》
手を引かれて豪華な宮殿の中を走る。
彼の裏のないやわらかい心が嫌だ。恵まれた者だけが持つ歪みのない優しさが、棘のように刺さってくる。
でも、自分に選択肢はない。自分はこの皇子の子守りのために雇われたのだし、ここを追い出されたら、また奴隷証文をカタに食うや食わずやの環境で生きることになる。
だから、嫌悪感を心の奥に仕舞った。
皇子は本当に心根の優しい子どもで、乳母も正妃も親切だった。何くれとなく気を配られ、皇子の側近として身なりを整えられ、剣術の相手をし、進講を受ける皇子の後ろで学問に触れる機会をもらう。奴婢の身分としては上等な扱いだったと思う。
同じ年の子どもとして、皇子は心からの信頼を寄せてきた。けれど自分は、最初に抱いた密かな憎しみを消すことはできなかった。
どれだけ手を伸ばされても、どれだけ友という立ち位置を望まれても、拒まない代わりに心を許すこともない。
所詮は主従……そう思って、いつの間にか十年の月日が流れていた。
そんな時、正妃の母国が滅んだ。
同盟は潰え、力の均衡を崩した周辺諸国は決起し、帝は親征を繰り返して留守がちになった。
帝には、六人の妃と九人の愛妾がいる。嫡男が九人、公主が四人。二歳違いの第二皇子の母は貴妃の位を賜った有力氏族の娘で、何よりも漢族だった。
後ろ盾となる国を失って正妃の立場は弱くなっている。大臣の娘でもある貴妃は、父の威を借りて権勢をふるい始め、帝の庇護のない正妃の宮は、みるみる寂れていった。
金品を剥ぎ取るようなことがあったわけではない。ただ、慈悲深い正妃の情に付け込んで、貧民への供給米や国中の炊き出しにかかる費用を供出させられたのだ。
妃も皇子も拒まなかった。夫である帝が戦で不在の今、民草を救うのは正妃の役目だと言い、たかってくる高官や貴族たちの言うままに財を放出する。自分はそれを傍から眺めながらなんと莫迦な母子なのだろうと内心で呆れていた。
慈善は政府がやるべき事業だ。私財を投げ出すものではない。このままではほどなく身ぐるみ剝がされて、宮人を雇う金すら残らないだろう。
己の財も守れない愚か者……そう思っていたのに、ある時、正妃が何故拠出を拒まないのかを知ってしまった。
宮の維持費のために支出を抑えてくれと懇願する宦官に向かって、皇子は寂し気に微笑んで諭す。
「この宮の財力を削いでおかないと、大臣たちに目を付けられてしまうからね」
第二皇子と第四皇子の外戚が、宮廷を二分している。アミルは立太子しておらず、既に後継者候補として外されつつあった。
「誰も、私を担ぎ上げようとは思わないだろうけれど、財を持ち、影響力があると思われれば排斥する動きも出るだろう」
世継ぎを望んでいるわけはないのだと皇子は言う。
「母上がここで穏やかに暮らせれば、それで充分だ」
正妃の子で第一皇子という立場は、たとえ後ろ盾を失っても他の皇子から見れば邪魔な存在だ。けれど、アミルに万一のことがあったら、正妃もまたこの宮を追われてしまう。帰れる故国はもうない。正妃がここで終生暮らすためには、“皇子の生母”という立場が必要だ。
「目立たず、生かしておいてもよいというくらいに見逃してもらえるのが、理想的なのだけどね」
「……」
いつの間にか、皇子はこちらを見ていた。澄んだ瞳で、苦笑気味に小首を傾けている。
「軟弱な男だと笑うかい?」
答えられるわけがない。黙って首を横に振ると、皇子は少し自虐的な眼をした。
「保身ばかり考えて反撃もしない、弱腰の皇子だよ」
「……」
わからなくはない。ここで生き延びようと思ったら、取れる策は二つしかないのだ。徹底的に反撃して己が覇権を握るか、ひたすら身を潜めて、攻撃の対象にならないようにするか。
帝のいない宮廷と後宮。留守を預かる貴族たちは一触即発の派閥争いを起こし、それぞれの娘たちは後宮でその争いに乗じ、“我が子を次の帝に”と暗躍している。
「母上を危険に曝したくない」
すでに妃が二人、公主一人、皇子二人が不審死を遂げている。毒見役の宮女は、今月だけで五人死んだ。
皇子はそっと蝋燭の灯りに目をやった。
「ただ、静かに生きることも、許されないかもしれないけれど……」
それでも、日々の糧にさえ事欠くほどの貧しい宮だったら、誰からも忘れられ、生き延びることができるかもしれない。そう呟いてから、少し嬉しそうに言った。
「財を削ぐなら、民に渡したいと思っていたんだ……今年は特に不作だから」
飢えて真っ先にやられるのは、働き手にならない小さな子どもだと言い、正妃が同意した。
「この宮の財ですべての子どもの命が贖えるわけではないけれど、それでも、やらないよりはやったほうがよい……」
どことも言えない視線の先は、ふたりの祖国に向けられていたような気がしている。
戦で滅んだ、遠い国。
自分の記憶にはない。けれど、嫁いできた正妃にとっては家族の暮らす国だった。
もう、永遠に帰ることができない。
正妃が香に混ぜられた毒で眠るように死んだのは、それから半月後の事だった。
+++
「漂……、漂?」
「あ、ああ」
はっとして顔を上げると、もう放課後だった。
窓の外からは運動部の掛け声がこだましている。風をはらんで膨らむ白いカーテンの向こうから、青空が見えた。
「珍しいね……悩みごと?」
「あ……いや……」
帰ろう、と促されて帰路に着く。
学校は都心にあって、電車を二回ほど乗り継いで帰る。帰り道で話すことは他愛無い事ばかりだ。
授業の内容。クラスの出来事、流行りの動画、受験の話……。部活があれば別々に帰るので、一緒に電車に乗るのは週に一度くらいだった。
別に、ずっと一緒にいたいわけではない。ただ、“雨洞貴巳”が幸せかどうかが確認できれば、それでいいのだ。
「夏休みは、田舎に帰るんじゃないのか」
「夏期講習があるしね」
「でも、家族は帰るんだろう?」
「義理で顔を出しに行くだけだよ。受験生に親がひと夏付き合う必要はないし、むしろ一人で気ままにできるから楽だ」
「……」
「漂こそ、どうなんだ?」
尋ね返されて、思わず額に皺が寄ってしまう。
「うちは、お互いにあまり干渉しない主義だからな」
「……ふうん」
親はいたって普通の人間だ。だから、なるべく関わらないようにしている。落ち着き過ぎていて気味の悪い子どもだと思われているけれど、それも仕方がない。こちらもうんざりするほど人生を繰り返しているのだ。いちいち斬新な驚きを見せる赤ん坊のふりは、やる気も起きなかった。
<いいかい、術っていうのは万能じゃないんだ>
しわがれた老婆の声が甦る。
《魂を追って見つけるには、途方もない時間がかかる》
砂漠で一粒の砂を見つけるようなものだ……と言われた。それでも皇子の魂を見つけたかった。
《仮にみつかったって、相手はお前のことなんか憶えてはいないだろうさ。そのわりに、お前さんが払う代償は大きい》
それでもやるつもりかと、何度も説得してくる。けれど、気持ちが覆ることはなかった。
アミルの魂を探す。先に死んだ彼の魂を追う。
《お前は輪廻の輪から外れるんだ》
生まれ変わっても記憶が消えないということは、つまり「お前以外」には成れないということなんだよ、と老婆が教えてくれた。
《どんなにつらくても、まっさらな生まれ変わりはできなくなる》
それでもよかった。
記憶がなければ、皇子の魂を追っていけない。だから、自分は従者ムスタフの記憶を持ったまま生まれ変わり続けた。
ヒトに生まれるとは限らない。牛馬だった時もあるし、わけのわからない視界のままだった時もある、多分、昆虫か何かだと思う。
数えきれないほど生と死を繰り返した。自分が何者だったかも忘れてしまいそうで、だからこそ必死に記憶にしがみついた。
アミルを忘れたくない。自分が、何を探して生まれ変わり続けているのかを忘れたくなかった。
もう、ただの執着なのかもしれないとわかっている。
人として生まれるたびに、社会は様相を変えた。千年後に、夜に眩しいほどの灯りが灯り、牛馬の代わりにとんでもないスピードで車が走る世界になるなんて、誰が想像しただろう。けれど、何度も生まれ変わり、その変化に驚きながらも、一方で何も変わらないと思っている。
ネットで即時に相手と連絡が取れても、心はすれ違うし、どんな技術を駆使しても、ヒトから悩みが消えるわけではない。
誰かに恋をし、孤独にため息をつき、家族と笑いあったり、肉親だからこそ憎しみあったり……。領土と富を争うことも、病や老いで亡くなることも、根本的には避けられないし変わらないのだ。飢える人が減ったけれど、飢える人がいなくなるわけではない。医療は発達したけれど、病を根絶したわけではない。
形を変えても、生きる喜びや苦しみの本質はそのままだ。だから数百年も前に書かれた物語にさえ、人々は未だに共感して涙しながら読みふけったりする。
数えきれないほど生まれて、生きて、死んだ。そしてどの世界にもアミル皇子はいなくて、自分の無謀で愚かな選択は、仏の説く
――わからないものだな。
もう諦め、ただ惰性で生きることを繰り返していた時、たまたまその魂を感じたのだ。
擦り切れた記憶の中で、魂に爪を立てるようにして刻み込んでいた最後の記憶。魂の“匂い”ともいえるようなそれを貴巳に感じ、たった一度だけ模試会場で見つけた彼の姿を探して駆け回った。
「……」
間違いなく、彼だった。
命の灯が消える前の、最後に味わった魂の感触を思い返し、貴巳の前に立った。
貴巳は憶えていない。勿論それは当たり前で、自分もそんなことは望んでいない。
ただ、彼の魂が幸せであるかどうかを、この目で確かめたかっただけだ。
――平和な国で、命の保証がされた国で……。
衣食住に困らず、教育を受け、家族を持ち……充分だと思う。不遇のまま逝った主君の幸福な転生を見届けて、自分は満足したはずだった。
けれど、どうしてか傍を離れることができなかった。
無理やり越境して同じ塾に通い、同じ学校を目指し、まるでストーカーみたいに傍にいる。
――おかしいと、気付いているだろうに。
時々、貴巳はそれを尋ねたそうにしている。当然だと思う。けれどこんな妄想じみた話をするわけにはいかないし、自分も話したくはない。
もう、離れたほうがいい。理性ではそうわかっている。肉親でもなく、この先も友人以上の関係にはならない。
――話せるはずがない……。
主君を捨てた従者……逆恨みをして、その死に目にすら間に合わなかった……そんな過去を思い出してほしくもないし、もし記憶を取り戻したら、自分のほうがいたたまれなくてここに居られない。
――俺は……。
あの頃、宮は徐々に財力を削がれ、宮に仕える人間は櫛の歯が欠けるように減っていった。花瓶や書物から装束に至るまで、妃嬪や留守を預かる武将たちは巧妙に取り上げていき、そしてついに彼らは王妃の命も奪った。
皇子が生きていたのは、母親をこの宮で暮らさせるためだ。だから、妃が亡くなったあと、自分も周囲も皇子が後を追ってしまうのではないかと案じていた。きっと、他の皇子たちもそれを狙って王妃を殺したのだと思う。
けれど、皇子は踏み止まっていた。それを面白く思わなかった第二皇子が、笑みを浮かべて近づいてきた。
《剣の指南を受けたいんだ。ムスタフは、どんな剣豪よりも腕が立つと聞いているから》
貸してくれという。剣の稽古など口実だとわかっているのに、皇子はあっさりとそれを受け入れた。
《ムスタフ、教えてあげておくれ》
微笑んだ皇子の顔を憶えている。寂れていく宮で何度も見た、どこか諦めたような、儚い微笑みだった。
従者として、護衛として、暗殺の危険がある場所で丸腰の皇子を置いていくなど、あってはならないことだ。たとえ主君がそう命じても、なんとしても拒むべきだった。
けれど自分はその時、承諾してしまったのだ。
《かしこまりました》
第二皇子が、吐き気を催すほど下卑た笑みを見せていた。誰が見ても陥れられ、従者まで取り上げられたのだとわかる。第二皇子の従者でさえ嘲笑を隠さなかった。けれど、アミルは引き留めなかった。
――………。
あの瞬間、自分の心を占めたのは怒りだけだった。第二皇子の後ろをついて行きながら、必死に自分に言い聞かせていた。
アミルは、保身に走ったのだ。母とその後ろ盾となる国を失い、命惜しさに従者すら差し出す……情けない、卑怯な男だったのだ……そう思い込もうとした。
悔しくて、悲しくて唇を噛み締めていた。何がそんなに苦しかったのか、あの時はわからなかった。ただ、皇子を貶めることでしか、自分を保てなかった。
――少し考えればわかることだった……。
自分の主君は、そんな人物ではない。命など、もとより惜しむような人ではなかった。
正妃亡き後、生き残っていたのはただ、行くあてのない自分たち従者のためだ……。
「……」
第二皇子はひと通り稽古が終わったあと厚遇を餌に、「自分に仕えないか」と持ち掛けてきた。
きっと、アミルはそうなると読んでいたのだと思う。
――俺の行く末を案じて……。
その誘いで、自分はようやく目が醒めた。主君の真意に気付き、青ざめ、駆け足で宮に戻った。
けれど、間に合わなかった。
ひと気のない静かな宮で、皇子は眠るように死んでいた。
ひとりきりで………天蓋すらない寝台で………。
《アミル様……》
石畳に薄曇りの空が反射し、咲き終わりの梅に、小鳥が留まって枝が揺れる。
《………アミル様………っ………》
亡骸に取りすがり、崩れるように泣いた。喪ってはじめて、自分は何に絶望したのかを理解したのだ。
自分だけは、絶対に捨てられないと思っていた。
きらびやかな財宝を手放しても、美しい衣を手放しても、下男や下女たちを手放しても、自分だけは傍に置いておくはずだと信じていたのだ。だから、手放された瞬間に裏切られたような衝撃を受けた。
――全て、私のためだったのに……。
力のない皇子では、誰のことも護りきれない……アミルはきっとそう判断したのだろう。だから、一番権勢を誇っていた第二皇子に手渡したのだ。
剣の腕を買われたのなら、大事にしてもらえるはず…そう思ったからあっさり頷いたのに違いない。そして護るべきものを全て手放して、彼は自分の命まで捨ててしまった。
そういう人だとわかっていたのに、自分は信じきれなかった。心の中で、いつでも壁を作っていた気持ちでいたのに、そんなものはとうの昔に崩れて消えていたのに、心を預けていたことに気付いていなかった。
《ずっと一緒だね……》
アミルの言葉が、いつでも心に錘となって安寧をもたらしていた。自分がどんなに不愛想にしていても、彼は自分を心から信じて、命を預けてくれていた。その全幅の信頼を、自分もまた疑いなく信じていたのだ。
《ずっと一緒だね……》
《ずっと一緒だね……》
《ずっと一緒だね……》
ふんわりとした花の香りとやわらかな笑み。眩しくて、幸せの匂いがして、羨ましくて妬ましくて、どうしても愛さずにはいられなかったもの……。
――私は………。
憎むほど焦がれた。与えられれば与えられるほど素直になれなかった。でも、飢えて伸ばした心の手を、アミルはずっと離さないでいてくれた。
――アミル様………。
もう、あの手がない世界で、ひとりでなんか生きていけない。
慟哭で、喉が裂けそうなほど叫び続けた。悔やんでも悔やんでも、悔やみきれないほどの後悔で叫ばずにはいられなかった。
どれほどそうしていたか解らない。ただ夜がきて、手元も見えないほどになった頃、皇子の身体が硬直し始めたのに気づいて戦慄した。
皇子の魂はもうこの肉体を離れてしまった。戻るべき器はほどなく腐っていくだろう。
死は、幼い頃に数えきれないほど見た。長らくこの宮で安穏と暮らし、その記憶は過去のものになりつつあったけれど、あの絶対的な終わりを、覆せる気がしない。
《……》
気が付いたら宮を抜け出し、夢中で洛外まで走っていた。
都の外れには、異国から逃げてきた流民の吹き溜まりがある。そこには、記憶にあるだけの祖国から来た呪術師たちが暮らしていると知っていた。ムスタフはあばら家の戸を叩き、馬に乗せて宮へと引っ張ってきた。
誰もいない宮は、皇子の死すら他宮へ報せることができない。老女を連れて戻ってきても、皇子は眠ったような姿のままだった。
開いた扉から、月明かりが石床を照らす。装飾のほとんどを失った部屋で、異国の呪術師は何度も念を押した。
《“魂が死ねない”っていうのは、お前が思っているより辛いことだよ》
人は死んで生まれ変わる。前の人生がどうだったかは忘れてしまう。忘れることによって魂は軽くなるから、また生きていける。けれど消さずに記憶を積み上げていったら、いつかその重みで魂は軋みを上げるだろう。
《お前さんはムスタフのまま、ただ新たな器に生まれ落ちていくだけなんだ。輪廻の輪から外れるっていうのは、そういうことなんだよ》
《それでも、かまいません》
老女は大きなため息をついた。
《きっと、後悔するだろうと思うけどね》
老女の指摘は正しかった。けれど、あの時に戻れたとしても、他の選択肢を選ぶことはなかっただろう。不遇のまま独りで逝った主君を探して、冥界にも行けず彷徨い続けたに違いない。
それならば、今と同じではないか……。
「……」
重なっていく記憶は残酷だ。何度死んでも、死ぬ瞬間の怖ろしさは消えてくれないし、人生重ねるほど、無常観が身に染みた。人でないものに生まれ変わることも珍しくない。
何度繰り返しても根本的には変わらない自分に
それはちょうど、指や足にタコができるのに似ている。同じ場所が擦れると、その皮膚は厚くなる。傷ができないように、痛みを感じないように、厚い皮膚が感覚を遮ってくれるのだ。
痛みにも哀しみにも鈍くなるけれど、喜びもまた分厚い皮の向こうでぼんやりとしか見えない。
時々、自分は何をしているのだろうと自問し、下りたくても下りられない時間の流れに逆らう気力も亡くした。それでもどこかでアミルを探し続けたのは、それが一つの“終わり”をくれるのかもしれないと思っていたからだ。
彼を見つけたら、彼が幸せに生まれ変わっているのを見届けたら、自分の贖罪の時間は終わりにできるかもしれない……。
だから、あの魂の匂いを見つけた時は、長い間被っていた殻を破ったような気持ちだった。
まだ子どもの身体で自転車を漕ぎ、二つ先の街まで行った。何に期待しているのか、何故こんなに鼓動が速まるのかもわからず、逃げ出したいような、駆け出したいような気持で貴巳を見た。
《雨洞貴巳っていいます》
少し不思議そうに、けれど誰のことも拒むことのない瞳で彼が名乗る。意気込んで先に名乗っていた自分は、その時ようやく己の気持ちに気付いた。
――わかってほしかったのか……。
記憶がないことなど百も承知だったはずなのに、貴巳と向き合って、彼が何も気づかず、ただの他人として挨拶をしてくれたことに、心のどこかが落胆していた。
――わかるわけがないのに。
姿形も、名前も、時間も場所も、何もかもが違うのに、どうやって気付けというのだろう。極度に昂った感情の行き場がないまま、自分で自分にそう言い聞かせていたけれど、無意識にかけていた期待は、どうにも消せなかった。
馬鹿な夢想だと思う。
感動的な再会などあるはずがない。自分が勝手に、呆れるほど長い間囚われていただけだ。第一、本当に貴巳に前世の記憶があったら、申し訳なさ過ぎてなんと申し開きをしていいかわからないではないか……。
興奮と落胆を必死に隠しながら、それから同じ塾へと通い、同じ学校へと進んだ。
探し続けた主君なのだと、もう一度逢いたかったのだと伝えたい。けれど自分がしでかした、最後の裏切りだけは思い出してほしくない……矛盾した都合のいい願いばかり抱えて、貴巳が本当に幸せに暮らしているのかを確かめるという名目で傍にいた。
余計なことだ。彼がどう暮らそうと自分には関係ない。自分が幸せにしてやれるわけでもなく、謝ってもどうにもならない過去を抱えて、あわよくば赦しだけをもらい、自分の呵責を消したいだなんて。
――自分勝手だ……。
楽になるのは自分だけで、聞かされる貴巳は何のことだかさっぱりわからない。頭のおかしい奴だと避けられるならまだいいが、うっかり本当に記憶が甦ったりしたら、誰も看取らずに独りで逝ったあの最後まで思い出してしまう。
もう一年、あと一年だけ……心の中の踏ん切りがつかないまま、十年目が来る。
高校三年。さすがに、大学は別々にしなければならないだろう。ここから先、彼の人生に触れる機会はなくなる。
「漂?」
長い沈黙に、貴巳が怪訝そうな顔で覗き込んでくる。そしてふわりと笑った。
「すごい眉間になってるよ。マンガみたいだ」
白い指が面白そうに額に伸びてくる。やわらかくて、少し暖かい貴巳の感触……。
「悩みなら聞くよ?」
笑いに紛らわせながら、貴巳が真摯に案じてくれているのがわかる。そしてその眼差しを見た時、ようやく自分の心の中にある“想い”に気付く。
諦められないのだ。
友人として傍に……も、進学を機に離れる……も全部欺瞞だ。自分はひたすら、アミルの隣にいられる理由を探している。
――俺は………。
「僕、そんなに頼りないかな?」
口は堅いほうだよ、と貴巳は軽口をたたいて笑う。漂はそれを瞬きできずに見つめた。
――……。
望めば、ずっと「友人」でいさせてくれるだろう。大学が別れても、互いが家庭を持っても、きっとこの主君は自分の望むままに、隣にいることを許してくれるに違いない。
納得できないのは、自分だけなのだ。
「漂……?」
自分を知らない貴巳を見ているだけなのが辛い。彼が微笑んでいるのを見られるのが幸せなのに、彼が“ムスタフ”を思い出さないままなのが辛い。
わかっている。無茶な望みだ。けれど、離れる口実を探しながら、もう一度彼の従者に戻れる日を望んで、諦めきれない。
傍にいたいのに傍にいるのが辛い。
――駄目だ……。
かけてきた長い年月は、何も変えなかったし何も生まなかった。自分は千年以上も、ただ同じところで足踏みをしていただけだ。
彼の傍にいたい。彼の後ろで、幸せに微笑むアミルが、こちらを振り返る瞬間を待っていたい。
電車が電子音のメロディを響かせて駅に着く。下りる駅ではなかったけれど、漂はドアの外に出た。
「用事があるんだ」
これ以上、貴巳の前にいてはいけない。
「じゃあな」
「漂?」
雨洞貴巳は、アミルではない。彼には彼の人生があって、あの呪術師が言ったように、アミルの記憶を持つわけではないのだ。
背中で貴巳の声がする。けれど、振り返ったらきっと自分は取りすがってしまう。だから全力で走った。
長いホームコンコースに、まばらにいる乗客を掻き分け、最後尾へと向かう。傾きかけた太陽が黄色く膨張して、いくつも分岐したレールが黄金の光を反射していた。
飛び込んでしまうつもりだった。この駅はホームドアがない。十両編成の長い電車は、駅に滑り込んでくるとき充分に速度を保っている。“転落事故”は、よくあった。
――終わらせたい……。
記憶を持ったまま誰かの魂を探すのに、絶対にやってはいけないことがある。
自死だ。
自らの意思で命を絶った時、呪術師のかけた術はほぐれ、魂は粉々になって霧散してしまう。でも、もういい。もう二度とアミルの魂を追うこともないし、生まれ変わりたいとも思わない。
身体を投げ出し、ゆっくりと眼を瞑る。
――もう、充分だ………。
長い、長い年月が何のためにあったのか。
ずっと贖罪のためだと信じてきた。けれど、蓋を開けてみたら、そこにあったのはただの思慕だった。
――こんな、気持ちのためだったなんて……。
見たくなかった。決して手に入ることのない、こんな想いを知るくらいなら、気付かないままでいたかった。
――アミル様……。
+++
「漂!」
長身の漂が躊躇わずにホームの端から電車に向かう。貴巳は夢中でその背に手を伸ばした。
掴めたかどうかわからない。世界は夕暮れで黄金色に染まり、眩しくてよく見えなかった。
「やれやれ……ようやく起こされたわい」
――え?
世界が、妙に静かだった。周囲のざわめきも電車の音も、何もしない。まるで時が止まったかのように、何も動いていない。
――漂は?
はっとして姿を探すと、ホームのきわギリギリのところで漂がうつぶせたまま倒れていた。その横で、手のひらほどの老婆が腰を伸ばすように反り返って唸っている。
ざんばらの白髪を後ろで一つにまとめ、くすんだあずき色の長い衣を着て、手に白っぽい杖を握った姿だ。ホログラムのようなそれは、貴巳を見上げておや、というように片眉を上げた。
「ほお……この子は本当に見つけたのかい」
何を言っているのだろう。けれど老婆は驚いていない、自分も、小さな妖怪のような彼女を、不思議と受け入れて話していた。
「貴方は……?」
「この子に術をかけてやった者さ」
ずっと昔、漂が死ぬ時、記憶を持ったまま生まれ変われるようにしてやったのだという。老婆はうつ伏せのままの漂へ視線をやった。
「だが、あの術は過酷なんだ。だから、この子が根を上げたら発動するように、ちょっとした護符を付けてやったんだよ」
それが、老婆だという。彼女の魂は、眠ったまま護符として漂の転生にずっとついてきていたのだと言った。
「それは、おばあさんも大変だったでしょう。漂が辛くてギブアップするくらいなら、おばあさんはもっと辛いのでは?」
どうしてそこまでするのだろうと思ったら、手のひらサイズの老婆は皺だらけの顔で笑った。
「私はこの子と違って、ただ眠ってただけだからね。この子が何度転生しようが、何千年経とうが、ひと眠りはひと眠りさ、痛くもかゆくもない」
老婆は術を施す時、対価を求めなかったという。
「私の寿命は尽きかけてたし、この術を使った者がどうなるか、私も見てみたかった。いわば、これが対価なんだよ」
術は知っていたけれど、使った者の行く末は誰も知らない。
「もし、千にひとつ、万にひとつ、億劫にひとつでも、この子の望み通り逢いたい魂を見つけ出せるのなら、その奇跡を見てみたかったしね」
ちらりと片目で見られて、思わず聞き返す。
「それって、僕のことですか?」
「あんただって、薄々わかってたんだろ?」
――そうでもないけど。
何かある、とは思っていたけれど、漂が転生を繰り返しながら自分を探していたとか、内容的にはほぼファンタジーだ。ちょっと素直に頷きにくい。
けれど、心情的には納得していた。漂の眼差しにも行動にも、それだけの重さがあったからだ。むしろ、この説明で腑に落ちたくらいだ。
「まさか……本当に見つけるとはね」
正確な年数はわからない。けれど、彼女から国名を聞く限り、世界史の知識で千年は軽く超えている。
「……そんなに、長く………」
倒れたままの背中に触れる。漂は呼吸をしていなかった。外傷はないけれど、もう、魂が肉体を離れているという。
「私の護符も、そう長い時間は形を保てないんだよ。この子が納得したのなら、魂を送らせてもらう」
「それって。“死ぬ”ってことですか?」
「あんたの世界観でいうと、そうなるだろうね」
輪廻の輪に戻してやるということなのだそうだ。粉々になった魂は風に乗って霧散し、また拠り集まって新しい魂になるという。
「………そんな」
漂は、それでいいのだろうか。
どこか、捉えどころのない眼差しで見つめられることが多かった。
幸せか、と確かめて笑うくせに、別な言葉を待たれているような気がしていた。
――僕が、君を思い出すのを待ってたんじゃないのか?
見ず知らずの他人として接していながら、漂は自分が誰だかわかってほしかったのではないか。言葉に出さず、心の奥に仕舞おうとしながら、隠しきれなかった願望が、あの眼差しではないのだろうか。
「……」
老婆が、何か言いたげにこちらを見ている。貴巳も思わず老婆を見た。古代ペルシアの呪師だという彼女は、きっと若い頃は妖艶な女性だったのだろうと思う。不思議に魅惑的な笑みを見せて教えてくれる。
「この子にだけは、“奥の手”があるんだよ」
老婆は、漂がもっと早く根を上げるだろうと踏んで、回収策を仕掛けてあったのだと言った。
「この子の魂に、“針”を付けておいたのさ。私の術は釣り竿と同じ。この子は自由に海を泳いでいるつもりだろうけれど、釣り人が竿を引き上げれば、針の付いた魚は
辛くて止めたいと願ったら、術を引き上げて元の身体に返してやるつもりだったのだ。
「思ったより根性があったから、私も寿命が来ちまって、護符としてくっ付いていくしかできなくなったけどね」
「それでも、ずいぶん親切ですよ」
ふん、と面白そうに老婆は笑う。
「年寄りの物好きってやつさ。私も生きることに倦んでいたからね」
そこまで言って、ものは相談……という顔をする。
「引き戻してやることはできるんだよ。でも、この子はあんたの魂を強く憶えてるからね。これだけ近くにいたら、紐づいてきっと一緒に戻っちまう」
つまり、戻るなら道連れ……ということだ。
「でも、そうしたら僕も前世だか前々前世だかに戻るってことですよね。別人になるわけじゃないなら、いいですよ」
「……ずいぶん、あっさりしてるじゃないか」
「そうですかね」
驚く老女に苦笑で誤魔化す。けれど、即答できるほどこの世界に未練がない。
漂のために、幸福を装っていただけだ。我が家は機能不全家族で、とっくに壊れている。
絵に描いたような共働きパワーカップルのもとに生まれた一人っ子だ。家事は代行業者を入れることで回し、どちらも寝に帰ってくるだけで、連絡のほとんどはスマホだった。
衣食に困ったことはない。充分教育にお金をかけてもらっている。けれど、両親がそれぞれ割り切ったダブル不倫をしているのも知っているし、それを裏切りだと詰るほど親に愛情を持てないのも本当だ。
これといった不幸はない。世の中にはもっと悲惨な環境にいる子どももいる。むしろ、お金をかけてもらっている分、恵まれているほうだと思う。けれど、漂がいなかったら、自分を幸福だとは言わなかっただろう。
「悪いけど、迷ってる時間はないんだ」
老婆が念を押した。
「戻せることは戻せる。でも、今度はあんたが輪廻の輪を外れることになる」
このまま生まれ変わりではなく元の身体に戻るのなら、自分だけが「雨洞貴巳」としての記憶を持つことになるという。
「この子は、残念だけど自分で命を絶ってるからね、きっと記憶は戻らないよ、あんたのことも忘れてしまう」
術は万能じゃないんだ……と複雑そうな顔をした。貴巳はそれに微笑み返した。
「いいですよ」
漂は長い間、黙って自分の隣にいた。自分を覚えていない相手の隣で、期待を持ちながら生きるのは、切なかっただろうと思う。けれど自分は、もし記憶のない漂とゼロからのやり直しだとしても、今の記憶を求めるつもりはない。
――再会したところから、始めればいいんだよ。
出会ってからのこの十年を、要らないとは言わないけれど、自分は共有できなくても辛いとは思わない。何も知らない漂と、一緒に記憶を創っていく。それでいい。
――ただ、漂と一緒の人生を選びたいんだ。
だからきっと、自分は苦しまないだろう。
「お願いします」
時間が無いからね、と老婆は言い訳を何度もして、杖でとん、と漂の身体を叩いた。
自分の身体も急に重くなって、倒れたような気がする。けれどそこから先はわからない。
魂が身体から離れるなんて、初体験だ。そして、ひゅんと釣り針で引き上げられるような感覚がした。老婆の説明がイメージとして増幅されたのかもしれない。同時に、洪水のように記憶が染み出してきた。
+++
――ああ、本当だ………。
貴巳は、自分の身体に戻って、漂が誰だったかを思い出した。
――そうか……お前は、私を追ってあれほど長い時間を辿ったのだね。
見回した部屋は、周王朝あたりと思われる宮の一室だった。石床と木製の寝台、二人掛けの長椅子、燭台はあるけれど、蝋燭はひとつもなかった。扉を開けておかなければ、月明かりが入らなくて足元も見えない。
ムスタフを第二皇子に手渡した直後だ。テーブルには服毒用の小瓶が置いてある。
――そうだった。お前が行ったあと、すぐに毒を
ムスタフは聡いから、すぐに意図に気付いてしまうだろう。だから、戻ってきてしまう前にこの身を処さねばと思って、すぐに毒を飲んだのだ。
――それが、最もお前に負担をかけない方法だと思ったのだけれど……。
自分は生きている限り、他の皇子たちから命を狙われるだろう。他に護り手もいない宮で、ムスタフはずっと主のために神経をすり減らしていかなければならない。
自分と一緒に生きても、財も力もない主に仕える従者は苦労するだけだ。彼の人生を思っての判断だった。
でも、ムスタフは自分を追って、千を超える年月を彷徨った。それを想うと、毒瓶に手が伸ばせない。
――お前だけが、心の支えだった……。
母以外、誰も信用ならない世界で、ムスタフだけが心から安心して身を任せられる相手だった。
ムスタフが、自分を快く思っていなかったのは知っている。初めに出会った時、彼の瞳は諦念と憎しみを宿していた。
けれど、それは当たり前だと思っていた。親のない異国の民の子どもが、楽に暮らせてきたわけがない。
傍仕えは、年の近い子どもが選ばれる。小さなうちは遊び相手として、長じては傍で生涯を支えてくれるように、なるべく年齢を同じにするのだ。そして主を裏切らないように、親族などがいない孤児を選ぶことも少なくない。母である正妃は、どうせなら故国の血を引く子をと、ムスタフを選んだ。戦禍の犠牲になる子どものすべてを救うことはできないけれど、一人でも過酷な運命から救い出せればという気持ちだったらしい。
生まれが違っただけで、別世界のような恵まれた環境がある……きっと幼いムスタフにとっては、納得しがたいものだったと思う。
――でも、お前は僕を信じてくれていたね。
きっと、本人は気づいていないと思う。彼は憶えている限りずっと仏頂面で斜に構えていたけれど、でも一緒に昼寝をするときはいつも自分の指をぎゅっと握っていた。
かくれんぼをして箪笥から出られなくなってしまった時も、冒険しすぎて濠に落ちた時も、いつでもムスタフとふたりで、手を取り合って互いを庇いあい、窮地を切り抜けた。幼くて、他愛ない窮地ばかりだったけれど、どんな時も、ムスタフはにこりともしないくせに、決してこちらの手を離したりはしなかった。
彼だけは心から信じられた。彼だけは、自分の手で幸せにしてやりたかった。だから暇を出すのではなく、次の主へと手渡したのだ。
――でも、それはお前が望むものではなかったのだね。
将来を見込めない自分を、後を追ってまで選んでくれたことに、胸が痛くなるほど幸せを感じた。
――お前が望んだ“僕の幸せ”は、お前が与えてくれていたよ。
決心がつき、アミルとして小瓶を抽斗に仕舞う。
「戻ってきたね」
回廊を駆ける足音が聞こえて、アミルは入り口を振り向いて微笑んだ。
「アミル様!」
「ムスタフ……」
漂の面影を宿したムスタフを見つめ、死んだのではないかと血相を変えていた彼に近づく。
「殿下、俺はっ」
「一緒に、ここから逃げてくれるか?」
ムスタフは、え……という顔で放心している。
「私は位を返上する。と、いうより夜逃げだな」
身分も、名前すらもない。流浪の一市民として生きることになる。
「禄(ろく)を渡してやることもできないが、一緒に生きていかないか」
この時ほど、可愛いムスタフの顔を見たことがなかった。
――こんな顔が、できたんだな。
きりっとした端正な瞳が見開かれ、泣きそうに歪む。
「はい……っ」
泣いているのに、多分、今まで見た中で一番素直で幸せそうな顔だった。
自分も涙をこぼしながら微笑んでいた。
「行こう」
荷造りできるほどの持ち物もない。ふたりで城壁を乗り越え、哨戒の目をくぐり、走って逃げた。幸い、ずっと暗殺や夜襲を懸念していたから、巡回も兵の配置も頭に入っている。すり抜けるだけなら簡単だ。
「殿下、どちらへ向かわれるのですか」
「洛外の外れだよ。胡の難民が、けっこう集まっているだろう? あ、それともう“殿下”は無しだ。私はもう身分を捨てたのだからね」
「故国を、再興されるための逃亡ではないのですか?」
「誰がそんな大層な志を話した?」
力で奪われたものを、力で取り返すつもりはない。アミルは、走りながら軽快に話した。
「商売をしよう。槍や刀より、金品の方が最終的には強いんだよ」
そのほうがきっと、一国の王より影響力を持てる。
できると思う。何故なら、うろ覚えでも世界史や科学の知識があるのだ。老婆は記憶を保ったままの転生を憐れんだけれど、むしろ感謝したいくらいだった。商いをするには、学んできた知識がきっとアドバンテージをもたらしてくれる。
ムスタフは黙って付いてきてくれた。そして、徐々に夜が明け始めた。
黒々としていた土がくっきりと見え始め、世界が薄蒼くなったかと思ったら、洛外の地平線から目を眇めるほど眩しい朝陽が昇ってくる。ビルも民家もない真っ直ぐな地平線は、こんなにもドラマチックに朝陽に照らされるのだ。
歩をゆるめ、ふたりとも荘厳な朝焼けに目をやった。
ムスタフが、こちらを見てふいに呟く。
「なんだか……」
「どうした?」
「いえ……こんな景色の中で、貴方を見た記憶があるような気がして……」
そんなことはあるはずがないのに……というムスタフに、アミルは心の中で囁いた。
――それは、朝陽じゃなくて夕陽だよ。
暮れかけた公園の黄昏に、今の景色は似ている。
――あの時も、世界は琥珀色だった。
太陽が低くて、黄味を帯びた光が辺りを包む。沈む太陽も昇る太陽も同じなのに、どうしてか、今はあの公園のような切なさがない。
――お前と、生きていくって決めたからかな。
「さあ、もうすぐだ」
急ごう、と手を差し伸べる。ムスタフは戸惑った顔をしたけれど、強引に手を握って走り直した。
――ムスタフ……。
鼓動が騒がしいのは、走っているからだと思いたい。気持ちが弾むのは、朝陽に向かっているからだと思いたい。
握り返してきた手に、アミルは力を込めた。
終
輪廻のおわりに、君と生きていく 深月ハルカ @MITSUKIHARUKA
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