花嫁の角隠し

 夕闇に包まれて四辺あたりは薄暗くなり、人通りもまばらになったころ、田宮家たみやけ菊世きくよが産気づいたと知らせを受けた若旦那は、金具の把手とつて付き薬箱を結之丞へ持たせ、急ぎ足で屋敷まで駆けつけた。


千幸かずゆき殿、どうぞこちらへ」


「お邪魔します」


 玄関の間で正字郎せいじろうと挨拶を交わし、夫婦の寝室がある奥座敷へ向かうと、男子禁制とまではいかないが、衛生面の配慮から、産婆と女の使用人が菊世のお産に参加していた。産医ではない若旦那は、医療的な処置が必要なときに控え、唐紙障子からかみしょうじの前に待機する。結之丞は、千幸のとなりに正坐しておちつくと、薬箱を畳のうえに置いた。産婆の役割は、妊婦の指導から始まり、お産の取りあげや新生児の世話など、さまざまな仕事をこなすが、この時代の乳児死亡率はまだ高く、産婆の養成もじゅうぶんとは云えなかった。貧しい家では、納屋でひとり寂しく陣痛に耐えながら出産に臨む産婦も多い。


 苦しげな息づかいや衣擦れの音が、障子の奥から聞こえる。断続的に悲しげな叫び声もあがり、結之丞は、成りゆきが危ないのではと気を揉んだ。いっぽう千幸は、背筋をのばして坐り、まぶたを閉じている。不必要に動じない凛とした姿勢を見た少年は、冷静を取り戻した。足がしびれるのをがまんして腰をひねっていると、正字郎の目に留まり、厠の場所を教えてくれた。結之丞は用足しを口実にして立ちあがり、若旦那にひと声かけて退出した。


 武家屋敷の便所は、居室と仕切られているが、家屋に一体化された配置につき、廊下の突き当たりにある。長い広縁を素足で歩いて向かうと、桝格子の付いた小窓のある厠に到着した。木綿の着物を身につける結之丞は、細長い帯を腰に巻き、余りを片なわ結びにしている。尿意をもよおしたわけではないが、汲み取り式の穴をまたいでかがみ、念のため小便をすませた。手洗い場の水を使っているとき、白無垢しろむくを羽織った人影が、床の間へ入っていく姿が視界を横切った。


 暗がりに消えた花嫁を追って障子の隙間すきまをのぞき込む結之丞は、火のともされた仏壇の蠟燭が気になった。


「おかしいな。さっき通ったときは、火なんかいてなかったのに……」


 用を足しているあいだに、誰かが床の間へやってきて、燭台しょくだいの蠟燭に火を点けた可能性もあるが、広縁の空気はひんやりとして、しん、と静まり返っている。だが、床の間と隣接するふすまの向こう側から、突如として、使用人と思われる女たちの話し声が聞こえてきた。



 ──菊世さんがとついできたのは、一年前の春のこと。白無垢の花嫁姿で、お義母かあさまが仕立てた角隠しの頭飾りは、とても印象に残っているわ。でも、女は嫉妬に狂うと、鬼になるといいますでしょう。菊世さんときたら、お義母さまの心中を察したかのように、それはもう従順で、旦那さまのお世話をしていましたし、此度こたびの妊娠は順当というもの。……ですが、駿河するがの出張からお帰りになったお義父とうさまに呼ばれ、人気ひとけのない蔵のほうへ歩いていく菊世さんを見たあと、しばらく寝込んでいましたよね。──これ、そのような昔話を蒸し返すのは、不謹慎ではないか。たとえ父親がどちらであろうと、菊世さんが命を削って誕生するお子は、田宮家の血を引くことに変わりないのですよ。浅ましい過去を、いたずらに吹聴なさらぬように。いいですね。



 なにやら、あやしい気配が濃厚だ。息をひそめていた結之丞は、困惑ぎみにその場を離れた。



〘つづく〙

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