箱入り娘の世界

サトウ・レン

箱に入った娘だけが知っている。

 私、意外と箱入り娘だったんだよ、

 と彼女が言ったのは、彼女のご両親に挨拶に行く数日前のことだ。だから、ちょっとだけ緊張しててね、と続けて。


 僕たちはいま富山県のT市という場所に来ている。ここには彼女の実家がある。彼女の名前は亜希。名古屋にある食品会社に一緒に勤めていて、恋仲になり、先日、僕のプロポーズが成功して、結婚を予定している。彼女のご両親と顔を合わせるのは、今回が初めてで、緊張している僕に、さらに緊張感を持たせるように、

「うちのお父さん、結構、怖いから気を付けてね」と亜希がほほ笑む。


「怖がらせるようなこと言うなよ」

「嘘だよ、嘘。物静かなひとだけど、『娘を貰っていくお前を一発殴らせろ!』なんて言うタイプの父親でもないから、安心して」

「でも、箱入り娘だったんだろ。大事にしている娘が奪われていく、って思ったら、どんなに優しいひとでも」

「まぁ覚悟はしててね、ってことで。……うん、客観的に見ても、箱入り娘で間違いない、かな。高校卒業までは、かなり厳しい門限もあったし、大学は県外に行きたい、って言ったら、すごく反対もされた。なんとか納得してもらえて、こっちに来たんだ。私がここで説得できなかったら、あなたは私と結ばれなかったんだから、感謝してよね」


「強気だね」と僕は思わず笑ってしまった。「まぁそういうところが好きなんだけど」

「そうやってはっきり気持ちを伝えてくれるところ、私も好きだよ。……でも、あなたも一人っ子なんだから、大事に育てられたんじゃないの」


 僕たちはバスの一番後ろの席に、横並びに座って、こんな会話をしていた。

 車窓越しには陽光に照らされた田畑の鮮やかな緑が広がっている。僕の生まれた場所もそんなに都会ではないが、ここはどこか時代に取り残されたような雰囲気が残っているな、と思った。もちろん口に出せば、失礼な、と亜希に怒られるのは分かっているので、黙っていた。


 公民館の前で、バスは停まる。ここから歩いて三分ほどのところに、彼女の実家はあるそうだ。


 彼女の家へと向かう途中、降るように垂れた、桜が咲いていた。どこかそのたたずまいは、頼りなさげで、僕の不安をかき立てた。


 嫌な予感がする。だけどその正体までは分からない。僕の表情から何かを察したのか、彼女が、「どうしたの」と首を傾げる。


「いや、なんでもないよ。あっ、もちろん緊張はしてるけど、ね」

 ふいに脳裡によぎった言葉を、僕は必死に振り払う。『本当に僕たちは結婚していいのだろうか。結婚するには、僕はまだ彼女を知らなすぎる』


 彼女と出会ったのは、二年前だ。中途入社で、亜希が僕のいる会社に入ってきた。最初の頃はあまり関わりがなく、話す機会もすくなかった。クールな見た目で、近寄りがたい雰囲気もあったので、僕から積極的に声を掛けにいくこともなく、お互いの時間は過ぎていき、急速に距離が近付いていったのは、つい三ヶ月ほど前のことだ。


 同僚に、佐藤という名の男がいる。僕とは同期入社で、読書だけが趣味の、のんびりとしたマイペースな男で、一部、彼を嫌う社員もいたが、僕とは妙に気が合って、たまにふたりで飲みに行くこともあった。そいつが急に、「お前、彼女のこと好きだろ」と言ったのだ。この時点で僕は亜希に好意を持っていたことは間違いない。というより、会ったばかりの時から、親近感のようなものは抱いていたのだ。何故、親近感を抱いたのか、までは分からなかったのだが。


 だけど顔には出さないようにしていたから、佐藤が気付いていたことに驚いてしまった。その佐藤が別の同僚の女の子と亜希のふたりを誘って、四人で飲みに行ったのがきっかけだ。僕はその夜、亜希を彼女のマンションまで送って帰り、その時に連絡先を交換し、「これからもふたりで、たまに」と伝えた僕に、彼女が嬉しそうに笑ったのだ。


 神秘的だよね、どこか。彼女、って。いや謎めいている、のほうが正しいのかな。

 会社の誰かが、彼女について、そんなことを言っていたのを思い出す。実際、僕は亜希と何回かデートを重ねたのち、付き合い、そしてプロポーズをしたわけだが、いまだに謎めいた部分は多い。それはおそらく彼女が、自身の過去をほとんど語らないからだ。だから彼女が、「箱入り娘だ」と自分について語るのも、意外ではあるのだ。ただ、それくらいには心を許してくれているのだと思うと、嬉しくもあった。恋人になろうが、妻になろうが、無理して相手の過去を聞こうとは考えてはいないが、相手のことを知りたい、と思ってしまうのは自然な感情だ。


 彼女の実家は二階建ての一軒家で、周りの家と比べても敷地は広い。豪邸と言っても、差し支えないだろう。いまは両親ふたりで暮らしているそうだ。彼女がいた頃でも、三人暮らし。持て余しそうだな、というのが、僕の第一印象だ。


「ただいま」

 と彼女が玄関のドアを開ける。とたとた、とこちらに向かってきたのは、彼女のお母さんだった。穏やかな雰囲気の女性で、ほっとした。リビングに行くと、彼女のお父さんがいた。身体は大きく、ラガーマンのような雰囲気がある。こちらに向けるまなざしには、どこか険がある。


 これ大丈夫かな……と思ったのが、三時間前のことだ。いまでは酒に酔った彼女のお父さんは、「俺は娘も、もちろん大切だが、息子も欲しかったんだよ」と僕の肩を組み、嬉しそうだった。ふたりとも想像以上に優しいひとで、特に彼女のお父さんは酒に酔うと上機嫌になる性格なのか、挨拶の場は明るく終わりそうな雰囲気だった。あの嫌な予感は、ただの杞憂だったのだろう。


「きょうは、ぜひ、泊まっていってくれ」

 と彼女のお父さんに言われ、元々は日帰りの予定だったのだが、一泊することになった。


「あぁなったら、お父さん、止められないから」

 亜希が、ごめん、と謝る仕草をした。


「全然、嫌じゃないよ」

「それで部屋なんだけど、私が前に使ってたほうで寝てもらおうかな」


 前に使ってた……?

 ふと違和感を覚えたが、特に彼女に聞くことはしなかった。亜希に部屋を案内される。入ると、学習机に、それほど大きくない本棚、いくつかのぬいぐるみがあり、アニメキャラクターのカレンダーが貼ってある。本棚に差さっている本はほとんどが児童文学やジュニア向けの文庫だ。亜希が子どもの頃、使ってた部屋だから、『前に使ってた』ということだろうか。


 しかし悩んでいても答えが出るわけでもない。緊張による疲れもあるので、まだ時間的には早いが寝てしまおう、と思った。だけど慣れない環境のせいか、全然、眠れない。仕方ないので、本棚にある本を一冊手に取る。ミヒャエル・エンデの『モモ』だ。読むのは学生時代以来だ。なんとなく読んでいるうちに、睡魔も襲ってきてくれるだろう。


 そう思って読みはじめた時、

 突然、

 カタ、カタカタ、カタ、カタカタ、

 と何かが揺れ動くような音が聞こえた。音は本棚の横に置かれたちいさなキャビネットの中から聞こえてくる。


 カタ、カタカタ、カタ、カタカタ、

 カタ、カタカタ、カタ、カタカタ、

 カタ、カタカタ、カタ、カタカタ、


 おそるおそる開けてみると、桐の箱が揺れ動いていた。何故だかその揺れ動く様子を見て、悲しげに見えた。箱が悲しんでいる、というのが変な表現だとは分かっているが、そう思ってしまったのだから仕方ない。


「そこに誰かいるの?」

 と箱の中から声がした。


「えっ」

「男のひとの声。あなたは誰ですか?」

「箱がしゃべっている……」

「驚きますよね。私はある時からずっと、この桐の箱の中に閉じ込められているんです」

「箱の中に? きみは」

「私は亜希」

「亜希……いや、だって、亜希は」

「あなたは、『亜希』を知っているのですね」


 箱に伝える。僕が亜希と交際していて、これから夫になる予定であることを。


「結婚……夫……。そうですか、もうそんなに経ってしまったんですね。私も箱の中で、それだけ年を取ってしまった、ということでしょうか。その『亜希』は姉妹の話をしてくれましたか?」

「姉妹……? いや、だって、亜希は一人っ子だ、って」

「そうですよね。『亜希』はきっと、そんなことを言わないでしょう。『亜希』には妹がいました。亜美という名前の。幼くして死んだ、とても美しい少女でした。外向きには朗らかで、誰からも愛されていました。とても残念ながら」


「亜希……亜美……」

「すこしだけ私の話に付き合ってもらえませんか?」

 そう言うと箱は、僕の返事も待たずに語りはじめた。




 何度も言いますが、私の名前は亜希です。これに間違いはありません。

 そしてあなたが結婚しようとしているのは、亜希。実はこれにも間違いはありません。ただ混乱を防ぐために、のみ込みにくいとは思いますが、あなたが結婚しようとしている相手を、今だけは、亜美、と呼ばせてください。

 しゃべりかた、すこしたどたどしい、ですよね。分かっています。ずっと誰ともしゃべらなかったから、たぶん話し方を忘れてしまったんです。


 この家には、かつて姉妹がいました。姉が亜希で、妹が亜美です。美人姉妹なんて周りから呼ばれることもありましたが、圧倒的に美しかったのは亜美のほうで、私はお情けで美人の部類に入れてもらえてる、という感じがしました。実際にはそうではないのかもしれませんが、私はとにかく自分に自信がなくて。

 お母さんも、お父さんも、亜美のことが大好きでした。たぶん私のことはあまり愛していなかった、と思います。とても残念ながら。親からの愛をそこまで過剰に望んでいたわけではありませんが、愛されていない、と知るのは、やっぱりつらいものです。


 お母さんに、一度、『私のこと、亜美と同じぐらい愛してる?』と聞いてみたことがあります。意地の悪い質問だとは分かっていても、聞かずにはいられなかったのです。私は自分が思うよりも嫉妬深くて、悔しかったのです。


 もちろんよ、と答えてくれたお母さんの目は泳いでいました。

 私は妹のことも愛していました。だって亜美は、私のたったひとりの妹だから。だけど私は愛しているのと同じくらい、憎んでもいました。だって亜美は、私のたったひとりの、私よりも愛された妹だったから。


 家族で川辺に遊びに行った時があったんです。

 私は小学校の高学年で、亜美はまだ小学校の中学年でした。ちょうど両親が目を離していた時に、亜美が何を思ったのか、川の中へと入っていってしまって、私が、「危ない」と声を掛けると同時くらいに、転ぶように倒れて、溺れてしまったのです。急に意識を失ったみたいに。私は助けに行くことも、助けを呼ぶこともできませんでした。私も突然のことにパニックを起こして。……いえ、本当はできたのに、しなかっただけなのかもしれません。あぁ、このままいなくなってしまえばいいのに、あの時、そんなことを考える自分が、自分の中にいたんです。


 そして亜美は死にました。


 葬式の時、ひとりの女性と会いました。それは叔母さんでした。叔母、と言っても、私はそれまで、ほとんど会ったことがありませんでした。お母さんの妹にあたるひとなのですが、なんでも怪しげな新宗教に片足を突っ込んでしまって以降、お母さんは意識的に距離を取っていたらしいのです。

 お母さんやお父さんが近くにいない時、叔母さんが私のところに来ました。しー、っと人差し指を口もとに当てて、私に箱を手渡してきました。桐の箱です。そう、いまあなたが見ている箱です。


「お母さんには言っちゃだめよ。……魂、ってあるのよ。亜美ちゃんの魂を、この箱に入れてきたから。亜美ちゃんの肉体は死んだけど、魂のまま、生かしてあげて。可哀想だから。でもこの箱を開けては駄目よ。魂が、誰かの肉体に巣食ってしまうから」


 私はこの箱を大切に保管していました。

 妹の亜美がまだ生きていると信じたかったからではなく、罪悪感からです。私のせいで亜美は死んでしまった。その罪悪感を消したい。そんな思いで、箱を大切にしていたのです。


 私が高校生になったくらいの時です。なんでそのタイミングだったのかは分かりません。声がしました。


「お姉ちゃん、助けて。助けて。お願い、この箱をはやく開けて」

 亜美の声で、そんなことを言うんです。

「お願い、つらい、苦しいよ」

「お姉ちゃんのせいだ。なんであの時、助けてくれなかったの」


 そうやって何度も言うんです。私はわけも分からず泣いていて、気付けばその箱を開けていて、私が箱になっていました。そして降ってくるように、亜美の声が聞こえてきました。


「お姉ちゃん、この体、もらってくね。私のほうが絶対、良い人生、送れるし。うーん、この肉体、私に比べたら、そんなに、だけど。仕方ないか」


 私は肉体を奪われ、亜美は、『亜希』になりました。そんな『亜希』とあなたは出会ったのです。あれは人間であって、人間ではないのです。そんな人間と付き合って、結婚して、あなたもどうなってしまうか分かりません。危険です。本当です。嘘ではありません。


 ようやく、私の声に気付いてくれる人間を見つけました。


 両親は気付いてくれませんでしたから。私の声に。いや、気付いていたのかもしれません。気付いたうえで、ふたりは、亜美である『亜希』を選んだのかもしれません。本心はふたりにしか分からないことですが。


 お願いです。肉体を本来の形に戻して、悪しき魂をここに封じ込めてください。

 お願いです。あなたしか頼れないんです。

 お願いです。お願いで――




 箱の言葉に耳をそばだてることに集中しすぎて、背後の気配に無頓着になっていたようだ。キャビネットの閉まる音が聞こえて、びっくりして振り返ると、そこには、『亜希』が立っていた。亜希なのか亜美なのか、僕にはもうどちらが真実か分からないので、『亜希』と呼ぶしかない。『亜希』が現れてから、箱の声はまったく聞こえなくなってしまった。


「駄目だよ」と『亜希』がちいさくため息をついた。「あんまり変な声を真に受け過ぎたら」

「亜希……」

「うん、私は亜希。正真正銘の亜希。大丈夫。その箱こそが悪しき魂だから。それ、変な宗教にはまってる叔母さんから貰ったんだけど、私の姉だ、って勘違いしてるの。私、一人っ子なのに。なんでだろう。変だよね。なんか怖いから、捨てずに置いてるの。だって捨てたら、呪われそうだから」

「……そう、なんだ」

「疑ってる?」


『亜希』の瞳に、冷たい色が宿っていた。


「……ううん。何も疑ってないよ」


 翌朝、僕は『亜希』とバスに乗って、市内の駅へと向かっている。昨日と同じバスの一番後ろの席に座り、僕がぼんやりと車窓越しの景色を眺めていると、『亜希』が僕の手を握ってきた。彼女はほほ笑んでいる。優しげに。


「私たち、これからうまくやっていける、と思うんだ」

「そう、かな」

「うん。だってそう思える選択を、あなたがしてくれたから。実は、私、ね」

「何?」


「初めて会った時から、あなたのこと、気になってたんだ。私たちは絶対に相性が良い、って。こう、親近感がわく、っていうか」

「僕も同じことを思ったよ。その理由も、ようやく分かったんだ。それを知れたから、僕は安心して、きみと結婚できる」


 僕は『亜希』の耳に口を近付け、言葉を伝える。

「僕たちは誰よりもお似合いだと思うよ」


 だって僕の肉体も、兄から奪ったものだから。

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