カフェ・クラムジイ3~詰め込まれたままの夢~
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詰め込まれたままの夢
「おかえり。契約取ったんだって? おめでとうさん」
冬樹が会社に戻ると、上司の西田がヘラヘラと笑いながら出迎えてくれた。
「曽我部君がやっと契約を獲得したんだって。ここに来て一ヶ月以上経ってやっとだよ。とりあえずはおめでとうと言っておこうか。な、長谷部君」
「そうですね。おめでとうございます、曽我部さん。ついにやりましたね」
西田は、すでに営業から戻り椅子に座っていた長谷部の背中を叩いて笑った。長谷部は冬樹より二十歳ちかく年下ではあるが、ラグビーで鍛えたがっしりした肉体を武器に、自信満々の話し方と人一倍の行動力で営業成績を上げ、社内ではホープとして将来を嘱望される存在だった。
「長谷部君は今日も二件契約を獲得したんだ。まさかこの一件で大喜びはしていないだろうな?」
「い、いえ……正直言うと、そんなに嬉しくないんですよね」
「ほう。見かけによらず野心家だな。まあ、その位の気概でいかないとな。ガハハハ」
冬樹が嬉しくないのは、契約が一件しか獲れなかったからではない。
契約相手である堀金英二の何気ない言葉が胸に刺さったまま、自分の心に整理がついていないからである。残務の最中も、自分のコレクションをこれ見よがしに見せて、無邪気に語る英二の顔が、忘れたくても何度も脳裏に甦ってきた。
仕事を終えて自宅に帰った冬樹は、スーツを脱ぎ捨てると、冷蔵庫からワインを取り出し、グラスがいっぱいになるまで注ぎ込んだ。
薄暗い照明の下、冬樹は歯ぎしりしながら手にしたグラスを見つめていた。
「くそっ……あのじいさん、何を偉そうに!」
冬樹はグラスのワインを一気に喉へ流し込んだ。
頭をよぎる英二の言葉を必死に書き消そうとするかのように。
「グホッ、グホッツ」
無理に一気に飲み干したせいか、冬樹はむせりながら激しい咳をした。
「くそっ、飲んでもダメか。あのじいさんのムカつく顔が目の前に出てきちまう……」
冬樹は口の周りを拭き取ると、ふらふらと立ち上がった。冬樹は、部屋の片隅に置かれた大量の箱の前に立っていた。ガムテープをはがし、中を覗くと、そこには閉店した「カフェ・クラムジイ」の備品がぎっしりと詰められていた。
閉店以来一度も開封されず、手も付けないまま放置されていた箱は、薄く埃を被っていた。毎日仕事に追われていたこともあるが、箱を開けると、店の経営に頭を抱えていた日々を思い出してしまいそうで、開ける気にならなかったということもあった。
「こいつらを処分すれば、全て忘れられるのかな」
冬樹は箱の中の備品を一つ一つ分別し、今度の休みの日に市のごみ処理場に持ち込むことにした。備品をくるんでいた新聞紙をそっと取り外し、手に取って眺めた。豆を挽く時に使っていたコーヒーミル、ハンドドリップ用のドリッパーとコーヒーサーバー、専用の細口ポット……いずれも冬樹が専門店で自分の目で確かめ、選んだものばかりだ。
もう一つの箱には、コーヒー豆の入った袋の数々が保管されていた。
袋を取り出すと、背後には全て英語で書かれたラベルが貼ってあった。冬樹はスーパーなどで手に入る豆に飽き足らず、専門店を通して海外から豆を直接取り寄せていた。時には海外に渡り、灼熱の中大きなリュックを背負って現地の農園で買い付けたこともあった。店では客に出す前に何度も挽いては試飲を繰り返したことを思い出した。やっと納得する味に出会えた時、叫び声を上げて喜んだ記憶があった。
箱の中を探れば探るほど、店に籠って必死に美味しいコーヒーを追求していた日々の思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。店に来てくれた人達に、自分が美味しいと感じたコーヒーを飲んでもらいたい。そして「美味しい」と思う気持ちを共有したい……それだけのために、情熱も金も注ぎ込み、国内外問わずかき集めてきた品々である。
しかし、いくら思い出の品々とはいえ、店じまいした今となってはもう二度と手にすることは無い。
冬樹は取り出した品々を分別し、一つずつ市の指定ゴミ袋に詰め込もうとした。しかし、袋に入れようとする手は突如途中から動かなくなった。
「ちくしょう……何やってるんだよ? どうして捨てられないんだよ?」
冬樹は手の震えが止まらなかった。目の前にある道具たちを処分すれば、きっと過去への思い出はきれいさっぱり忘れられるはずなのに。
「店を止めたんだから、もうこいつらは用済みだろ? 早く捨てちまえよ!」と叫ぶ自分と、「心から美味しいと思えるコーヒーを沢山の人達と共有したい一心で、自分の足で必死にかき集めたんだろ? それをたやすく捨てちまってもいいのか?」と諭す自分が何度もせめぎ合っていた。
「僕は……一体、どうしたらいいんだ?」
冬樹は手にしていたゴミ袋を床に落とすと、頭を抱えてうなだれた。
捨てるのか、残すのか……一晩寝ずに考えたが、結論は出ず、箱は捨てられることなく部屋の片隅に残されていた。
冬樹の頭の中はスッキリ整理するどころか、逆に苦悩が蓄積される結果になってしまった。
翌日、冬樹は眠たい目をこすりながら、立川駅周辺のマンションやアパートを廻って中古物件の営業をしていた。しかし、話が終わる前に家の外へと追い出されたり、無理難題を言われて追い詰められたりして、とても売り込みどころではなかった。
気が付けば日が暮れ始めており、冬樹はがっくりと肩を落として会社に戻ろうと駅へと続く通りを歩いていたその時、通り沿いの喫茶店からダッフルコート姿の若い女性が冬樹の目の前に出てきた。
手帳らしきものを手にしながら、くっきりとした目鼻立ちの顔で周囲をキョロキョロと見渡し、ショートブーツで靴音をたてながらちょこまかと動きまわる愛くるしい姿に、冬樹は既視感があった。
「まさか、緋色……さん?」
冬樹は後ろから横顔や後ろ姿をじっと見つめた。そして、その姿は閉店間際に冬樹の店にやってきた緋色に違いないと確信した。
冬樹は緋色のことが気になっていたが、自分は仕事をしている最中であることを思い出し、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って緋色から離れて行った。
しかし、冬樹の背後からは緋色のものと思われる靴音がずっと響いていた。あっちに行ってはこっちに来て、さらにまた違う方向へと歩きだすといった具合に、靴音のなる方向は一定していなかった。
彼女は一体どこに行くつもりなんだろうか? 通りをまっすぐ行けば立川駅のペデストリアンデッキに出るはずなのに、どうしてふらふらとさまよい歩いているんだろうか。
冬樹は我慢できず、後ろを振り向くと、緋色は古めかしい外装の喫茶店の目の前に立ち止まり、外からじっと店の中を覗き込んでいた。
見た感じ、喫茶店はかなりの老舗で、緋色のような若い女性が入り込めるような雰囲気はしなかった。やがて緋色はドアを開け、中に入っていった。冬樹は店から少し離れた所から緋色の様子を伺うことにした。
しばらくの間店に出入する人も無く、冬樹は眠い目をこすりながらスマートフォンをいじって待ち続けていた。すると、十数分後に突如店のドアが開き、緋色が店に向かって軽く頭を下げて表通りに出てきた。
店を出た緋色は、どこか浮かない顔をしながら大きなため息をついていた。元々緋色のような若い子に合わなそうな店に見えたが、一体何があったのだろうか?
その時、緋色の目線は突如冬樹の方を向いた。冬樹は少し離れた所から緋色のことを見つめていたつもりだったが、店に一人で入っていく緋色のことが心配で、知らず知らずのうちに目につきやすい所まで近づいてしまったのだ。
「こんにちは」
緋色は笑顔で声を掛けると、冬樹は冷や汗をかきながら「こんにちは」と言った。
「お元気ですか? お店閉めてからどうしてるんだろうって、心配してたんですよ」
「何とか元気にやってますよ。緋色さんは?さっき、そこの喫茶店から出て来たようですが、相変わらカフェ巡りしているんですか?」
「はい。でも……なかなか美味しいと思えるお店に出逢えなくて」
そう言うと、緋色は長い髪の毛かき分けながら、ちょっと切なそうな表情を浮かべた。
「マスターはどうしてるんですか? どこかのカフェでお仕事されているんですか?」
「いや、もうカフェの仕事はしていないんですよ」
冬樹はネクタイを指でつまみ、緋色の目の前に見せびらかした。すると緋色は、「あ」と声をあげ、片手を口に当てて驚いた様子を見せた。
「今は慣れないながらも、営業の仕事をしてるんです。毎日怒られてばかりで辛いけどね」
「そうですか……大変そうですね」
緋色はちょっと残念そうな表情を浮かべると、「がんばってくださいね」と言い、手を振って冬樹の元から徐々に離れて行った。そして数歩ほど歩くと、突如足を止め、冬樹の方を見て口を開いた。
「これからはもうコーヒーを淹れることはないんですね?」
「え?」
「だって……すごく美味しかったから」
そう言うと、緋色は顔を赤らめ、よろめくような姿勢でそのまま遠くへ走り去っていった。
冬樹は緋色の背中を見つめながら、拳を強く握りしめていた。
悔しいけれど、緋色のために今の自分が出来ることは、何もない。
とても胸が苦しいけれど、これが運命だと割り切って、冬樹は再び会社に向かって歩き出そうとした。
緋色と話している間、スマートフォンには着信履歴が残っていた。留守番電話に接続すると、一件のメッセージが届いていた。
「もしもし、堀金英二です。引っ越しの日取りが決まったから、手伝いに来てくれませんかね? なんせ壺やウイスキーのコレクションが詰まった箱がいっぱいあるもんでね。下手な引っ越し業者じゃ壊されそうで信用できないから、僕のコレクションに理解を示してくれたあなたにも来てもらいたいんだよ。後で僕の所に連絡くださいね」
どうやら英二が、先日契約した中古住宅に引っ越す日を決めたようだ。あれだけたくさんのコレクションがあるなら、箱も相当な数があるだろう。
「箱?……」
その時、冬樹の手が突然止まった。冬樹の家には、捨てようか迷っていた道具や豆が沢山残っていた。たとえ店でなくても、箱の中のものを使って、コーヒーを淹れることができるんじゃないだろうか……?
冬樹は大きく頷くと、駅に向かう通りを全速力で駆け出した。
やがて前方には、駅のペデストリアンデッキに向かう階段をとぼとぼと歩く緋色の背中が見えてきた。
冬樹は両手を振って、ありったけの力を絞って声を張り上げた。
「待ってくれ、緋色さん!」
(了)
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