毒グモのすりかわり

馬村 ありん

第1話

 駅の地下街を歩いていたら、曲がり角でほかの人と出会い頭に衝突した。ぶつかった拍子に、あろうことか大切な小箱を取り落としてしまった。


 まずい! 大切なものなのに!


 荷物の散乱する床に這いつくばって探した。見つけた。そのうれしさたるや小躍りしたくなるほどだ。僕はスーツの内ポケットにそれを納めた。


「痛ってーな。どうしてくれんだよコレ」


 怒気をはらんだ声が、背後から聞こえた。見れば、頭に剃り込みを入れたサングラス姿の男が頭を抱えていた。明らかにその筋の男だ。


「あの、すいません。悪気はなかったんです」

 両手を差し出し男を立たせようとするが、男はその手を払いのけ、自らの力で立った。


「あーあ、骨とかイッちゃってんじゃねえかな。兄ちゃんさ、これ病院代高くついちゃうよ」


『兄ちゃん』とはいうが、見たところ男と僕とそんなに年齢の違いがあるようではない。どちらも二十代中ごろだ。


 ツイてないとは思うが、今このタイミングで面倒ごとに巻き込まれるわけにはいかない。


「ちょっと待ってください」

 僕は財布からあるだけのお金を取り出す。万札が二枚と千円札が七枚。その間、男はかがみ込んで荷物を拾っていた。「あったあった、これをなくすと面倒なんだよな」などとつぶやいている。


「あのう、こちら病院代です。大変ご迷惑をおかけしまして。少しではありますが」

「おっ。兄ちゃん、いいこころがけじゃん。もらっておくわ」

 男は一枚一枚確かめると、ジャケットのポケットにねじ込んだ。俺の肩をぽんと叩くと、雑踏に消えていった。


 はあ。なんとも不愉快な目にあってしまった。でも嘆いてはいられない。僕は箱を持って例の場所にいかなくちゃいけないんだ。



 ※※※



 ワインを一杯飲み切ってしまった。おかわりを頼むのを躊躇する。


「……遅いわよ。何してるのかしら」


 携帯には彼からは何の反応も返ってこない。わたしはどうやら終わった女ということなのだ。帰ろう。ここにいても仕方がない。


 目の前に人の気配。彼なわけがない。きっとウエイターが空気も読まずにおかわりを尋ねに来たのだ。


「ワインならいらないわ」

「僕には必要かな。ウエイターさん、ロマネコンティはあるかい?」


「――うそ、あなたどうしてここに?」

「だって約束じゃないか。今日ここで再会するってさ。待たせてごめん。ちょっとハプニングがあってたんだ」


 彼はジャケットの上着を脱ぎ、私の向かいの席に腰かけた。ウエイターが来て、空のグラスにワインを注いだ。甘酸っぱいぶどうの香りが広がった。


「今日はなんとしてでも渡したいものがあったんだよ」


 彼はジャケットの内ポケットを探った。なかから小箱が現れた。手のひらサイズで、ベロア地が施されており、洗練された美が感じられた。


 小箱は私の手のひらに載せられた。


「受け取って欲しい。これが君への僕の気持ちだ」

「あなた……」

「さあ、開けてみて」

 私は箱の上蓋に手を添えた。


 ※※※


「さて、例のものは持ってきてくれたかな」

 執務机に座ると、男は僕に視線を向けた。

 僕はスーツの内ポケットから小箱を取り出した。手のひらサイズで、ベロア地があしらわれた豪華な小箱だ。

「ここにあります」


 ここはM薬局の地下の秘密の部屋だ。裏口を訪れ、「今日は暑いな」――「今は春ですよ」といった暗号での会話が符合すると、ドアが開けられた。普段は見えないように細工された地下への秘密の扉だ。階段を降りると、そこは地下の部屋。檻のなかの実験動物があげる悲鳴を聞きながら廊下を進み、奥の部屋へと進んだ。


「上出来だ」

 男は小箱を手に取るとうっとりした様子で言った。

「時に君、この中身が何か知っているかね?」

「いえ、知らされていません。運び屋風情に教える必要はないと」


「特別に教えてやろう。この箱の中身はね、アマゾンの熱帯雨林に生息する新種の毒蜘蛛なんだよ。体内の毒はたった一マイクロリットルで人間を殺せる。客たってのご所望でね。こうして運んできてもらったというわけさ」

「私が運んできたのはそんな危ないシロモノだったのですか。さすがは『闇の薬局』。扱うものもとんでもないですね」


「ははは、開ける時は慎重をきさなければならないのが悩ましいところだがね」

「ところでお客さんとはやっぱり暗殺家業の方で?」


 男はそれには答えず、眉を険しくさせた。

「……この箱、おかしい」

「えっ?」


***


 なんだか箱をあけるのがもったいなくてためらってしまう。上等な布地には不思議なことに無数の微細な穴が空いていた。よくわからないけど、高級品ってこんな感じなんだろうな。

 上蓋に手をかけたその瞬間、 

 

「失礼ですが」とウエイターが口をはさんだ。「床にお札が落ちておるのですが、こちらお客様のものでしょうか」


「ちっ。空気読めよこの野郎。今プロポーズしてんだよ。どうしてくれんだよこの空気よぉ!」

「アッ。すいません」

「お金? どうしたのよ、むき身のままで。まさかあんた」


「あー、これね。ちょっと臨時収入をせしめたってわけよ。相手がザコのリーマン風でよ。チョロかったぜ」

「もう、バカね」


 呆れつつも私は胸のキュンキュンが止められない。悪い男ってどうしてこんなに魅力的なのかしら。


「気を取り直して。さあ、開けてみて」

「わかったわ。さて、いったい入っているのかしらね?」

 私はわくわくしながら言った。


***



「この箱、空気穴がないぞ」

「空気穴ですか?」

「なかの蜘蛛が死なないように無数の微細な穴が空いているはずなんだ!」


 男は小箱を開けた。突然の行動に僕は身構えたが、なかには蜘蛛などは入っておらず、別のものが鎮座していた。きらきら輝く別のものが――。


「君! これはどういうことかね!」

「いや、分かりません。なんでこんなものが入っているのか?」


 いや、ひとつだけ心当たりがあった。

 さっき人とぶつかった。駅の地下街の曲がり角でだ。そのときに別の箱と入れ違ったんだ。

 なんとか取り返さないといけない。僕は引き返した。

 ……ああ、あちらの箱が開けられていないといいのだが。




終わり

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