第5話 不思議な箱

 マリーはぎゅっと目をつぶりそうになるのをぐっとこらえます。

 トーマスはにこにこしながらジュエリーボックスから指輪を取り出しました。

 ジュエリーボックスを書き物机に置くと、マリーの手を取ります。

 そして、ダイヤモンドの指輪をマリーの指に嵌めました。


「どうだい? 良く似合っているだろう?」

 トーマスは満足げな声を出します。

 マリーは何も言えずに目をパチパチするだけでした。

 その様子を見てトーマスは朗らかに笑います。

「ははは。そんなにびっくりすることはないだろう?」


 マリーは幻を見ている気分でした。

 昨夜、マダム・エクランが帰った後に、ジュエリーボックスを引き出しにしまったときには間違いなく中身は空だったのを確認しています。

 それなのに、盗まれた指輪が燦然とマリーの指で輝いているのでした。


 目を見開いて指輪を眺めている姿をトーマスはうっとりしているのだと思います。

 マリーの指に自分の指をからめました。

 そっと手を持ちあげるとマリーの手の甲に口づけをします。

「愛しているよ。マリー」


 その言葉にはっとするとマリーも言葉を返しました。

「ええ。私もよ。トーマス」

「そうだ。この状況を知って君を一人で残していくなんてできないよ。少なくとも今夜はホテルに泊まった方がいい。当座の身の回りのものを準備するんだ」


 固まったように身動きをしないマリーを見て、トーマスは慌てて付け加えます。

「もちろん。僕とは別の部屋を手配するから。君の慎み深さを蔑ろにしたりはしないよ」

 ようやく指輪がなぜかこの場にあることを現実のものとして受け入れられたマリーは、身支度を始めました。


 身の回りのものとジュエリーボックスを手にすると、マリーはトーマスに支度ができたと告げます。

 戸締りをして家を後にし、マリーは再び馬車に乗り込みました。

 窓から外を眺めていましたが、見覚えのある通りに通りかかります。


「あ」

 マリーは小さな声をあげました。

 昨日、マダム・エクランのお店があった場所には殺風景な煉瓦の壁があるだけです。

 見間違いかと思いましたが、3軒隣には美味しそうな香りをさせていたパン屋があるので間違いありません。


「どうしたんだい?」

 トーマスは身を乗り出して窓の外を確認します。

「随分と繁盛しているベーカリーだね。今度誰かに買ってこさせよう」

 マリーは夢でも見ているのかしらと不思議な気分でした。


 その後も不思議なことは続きます。

 警察に行っても盗難の届けは出ていないと言いますし、指輪を質入れされた金貸しもマリーのことを知らないと言うのでした。

 そして、マダム・エクランのお店は影も形もありません。


 トーマスの手配で入院しなおしたお陰でマリーの父も病気から回復し、パブの営業再開の手伝いや結婚の準備にマリーは忙しくなります。

 暇を見つけては、マダム・エクランのお店を探そうとしましたが、どうしても見つけることができませんでした。


 そして、いよいよ結婚をして家を離れることとなり、書き物机の引き出しを整理します。

 レターボックスに収められていない手紙の束の中から、1枚の書付が出てきました。


 そこにはこんなことが書いてあります。

『レターボックスの代金として、箱の中身をお届けしました』

 その末尾には飾り文字で一文字Eと書き添えてありました。

 マリーはその書付を束に戻します。

 そして、トーマスから貰った指輪と同等、いやそれ以上にマリーはリングボックスを大事にしました。


 ***


 窓際に立ったマダム・エクランは優雅な手つきでソーサーからカップを取り上げると、ひとくち口に含みます。

 窓の外を見下ろすとサーペンタインの周囲をそぞろ歩く人々が見えました。

 振り返って少し離れた小さなテーブルに腰掛ける青年に話しかけます。


「ノッツェ。あなたは飲まないの?」

 青年は肩をすくめました。

「マダムもご存じでしょう? 私は猫舌なもので。もう少し冷めたら頂きます。それにしても、あの娘さんには少しサービスをしすぎたのでは?」


「そうかしら? でも、もともとは指輪を盗んだ犯人が道端に投げ捨てた箱をあなたが拾ってきたものでしょう? 仕入れには1ペニーもかかっていないわ」

「それはそうですけどね。中身は結構な金額がすると思いますが」

「私は指を2・3回振ってあるべきものをあるべきところに戻しただけ。それに代わりにとっても素敵なレターボックスを譲ってもらったわ」


「そういえば、その箱、何か力が働いているのは分かりますけど、どんな効果があるんです?」

「持ち主にしか中の手紙が見えないレターボックスよ。人の思いが強く宿っていたからちょっとだけ魔法をかけてみたわ。魔法の品にするには素材が大切でしょ? それで、当節、手癖の悪いメイドが主の昔の軽率な手紙を売り払うことがあるわね。その手紙をネタに強請をする男がいたはずよ。そういうのに困っているご婦人にとっては喉から手が出るほど欲しいと思わない?」

 マダム・エクランは笑みを浮かべるとカップを傾けるのでした。


-おしまい-

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マダム・エクランの不思議な箱の店 新巻へもん @shakesama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ