第2話 提案

「え? いいんですか?」

 あまりにあっさりと了承を得られて娘さんは驚きの声をあげます。

 そして、その表情は次第に喜びに代わりました。

「それでいかほどでしょう?」

「そうね20ポンドかしら」


 金額を聞いた娘さんの顔は悲しそうなものへと変化します。

「20ポンド……、そんなに……」

「そうね。インドの水牛の革をイタリアの職人が染めたものよ。それぐらいの価値はあるわね」


 ジュエリーボックスの蓋を開いて説明するマダム・エクランに娘さんは懇願しました。

「後で必ず残りの金額をお支払いします。ですから、手付3ポンドで譲っていただけないでしょうか?」

 自分で言っておきながら無理なお願いと分かっていますが、娘さんにはどうしてもすぐに手に入れなければならない事情があります。


 マダム・エクランはじっと娘さんの目を見つめました。

 黒真珠のような瞳が娘さんを値踏みします。

 この瞳を見ていると気圧されそうになりますが、娘さんは気丈にもその視線に耐えました。


 その時、黒猫がタンとカウンターの上に飛び乗ります。

「にゃあ」

 真っ赤な舌を見せて鳴きました。

 マダム・エクランは猫に手を伸ばしてそっと撫でます。

「そうね、ノッツェ。この娘さんには資格があるわ」

「な~お」


 マダム・エクランの顔に温和な笑みが戻りました。

「いいわ。まだ、今はその条件でいいとは言えないけれど、少し、お話をしましょう。お名前は?」

「マリーです。セント・ポール小路とメイガスン・ストリートの角にある宵の明星というパブで働いています」


「そう。マリーさん。こう言ったらなんだけど、とても20ポンドもするリングボックスを必要としているとは思えないわ。事情を話してくれるかしら?」

「どうしても話さなくてはいけませんか?」

「話せないというのなら無理に聞き出したりはしないわ。でも、そうなると、マリーさんを信用していいか判断がつかないわね」


 マリーは口を開きかけて閉じます。

 その様子を見ていたマダム・エクランは頬に指を当てました。

「そうねえ……。それじゃあ、こうしましょう。これからマリーさんと一緒にお家までお邪魔させてもらうわ。そこで何か買い取ってもいい箱があれば、その代金を引いてあげましょう。これでどう?」


「ありがたい申し出ですが、私の家にそんな立派なものは……」

 マダム・エクランは頬に当てていた指をマリーの唇に移します。

 そして、妖艶な笑みを浮かべました。

「それはマリーさんが判断することじゃないわ。先ほど言ったように私のお店は箱を扱っているの。他人にはつまらないものでも私には欲しがるかもしれないわよ。それほど時間がかかるわけじゃないし、試してみても損はないと思うのだけれど」


 マリーは目の前のジュエリーボックスを見つめます。

 脳裏にある箱と瓜二つのものをどうしても手に入れなくてはならないことと、初めて会った女性を家に上げることを天びんにかけました。

 逡巡している暇はありません。


 マリーはマダム・エクランに頭を下げました。

「それではお願いします」

「そう。それじゃあ、出かけましょう」

 マダム・エクランがそう言うと同時にそれまでカウンターの上で寛いでいた黒猫ノッツェがぱっと立ち上がります。


 トンと床に下りるとそのまま専用の小さなドアを通って外に出かけてしまいました。

 マリーが驚きの声を出します。

「あ。猫が……」


 マダム・エクランは慌てません。

「大丈夫。心配ないわ」

 カウンターの下からショールを取り出すとマダム・エクランはふわりと肩にまといました。

 続いて布製のハンドバッグを取り出すとその中にリングボックスをしまいます。


「さあ、出かけましょう」

 マダム・エクランはマリーの先に立って歩き出しました。

 扉を引いてマリーを通してくれます。

 通りに出て振り返ったマリーはマダム・エクランが戸締りをしないことに驚きました。


「え? 鍵をかけなくていいんですか?」

「大丈夫よ。招かれざる客は入れないから」

 試しにマリーが扉を押してみますがびくともしません。

 ほらね、という顔をするとマダム・エクランは車道に近づきます。


 ガラガラという車輪が石畳を踏む音と共に1台の1頭立て馬車ハンサムが横付けしました。

 客室の後ろに座る御者は長身の青年で、マリーには帽子の下できらりと金色の目が光ったように見えます。


 マダム・エクランはステップに足をかけてさっとハンサムに乗り込みました。

「マリーさん。さあ、乗って」

 普段、馬車に乗ることのないマリーは気おくれしますが、マダム・エクランがさっと手を伸ばします。


「大した距離じゃないかもしれないけど、こちらの方が早いわ」

 恐縮しながらマリーがマダム・エクランの横に腰掛けると、ハンサムはすぐに走り出しました。

 2人の乗ったハンサムは通りを走り、交差点を曲がってメイガスン・ストリートに入ります。

 

 あれ? 御者に行き先を告げていたかしら?

 マリーは疑問に思いましたが、早くもハンサムは宵の明星亭の前に停車をしました。

 馬車から降りるとマダム・エクランは御者に声をかけます。

「すぐに戻るわ」

 マリーは閉まったままのパブの入口を通り過ぎ、2階へと続く裏口に案内するのでした。

 




 

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