『聖域』【連載中】

第6話 旅館

　黒井は、ついに宿に到着した。片田の宿は、知らない人が見たなら、民泊だと思うかもしれない。和風な外観の二階建てで、やや横に長いか。

　玄関の戸は、木製の格子で、ガラスを挟み込むようにしている。呼び鈴がないため、こぶしで叩くと、扉に遊びがあるためか全体が揺れ、想像以上の騒音となった。その上、冷静になって横に引くと、鍵は開いていた。

　玄関を除くと、廊下は縦に真っすぐ伸びている。廊下の幅は、人が二人並べる程度で、玄関から出てすぐ、左の階段とさらに奥への廊下へ二分割される。右手の突き当りは、左右に扉がある。左の扉は階段側面に埋まるお手洗い、右の扉は居間だった。

　そして、居間からこの宿の女将が飛び出してきた。五十中頃くらい。

「あっ、おはようございます」

　彼は、おはようと発したのは、一年ぶりだ。一年前までは、妹が毎朝、仕事へ行く彼を見送っていた。妹の死、あれから親しい関係は誰とも築けていない。家族間の不和から、実家に帰省することもない。ひたすらに孤独な一年間だった。

「どうぞ、おあがりください」

　靴を脱いで、そろえておく。全部で三つ。一つは赤井、二つ目は女物で店主のものだろう、三つ目はブーツ。もう一人客がいるのか、それとも、彼女の夫か。

　ベージュのブーツ。靴底の滑り止めの形状からして、実用性を重視したものだ。そのごつごつとした無骨さとは裏腹に、一回り小さく、持ち主は女性だと推測できる。よくよく見ると、言い訳のように、可愛らしい雪ウサギのワッペンが縫い付けられている。

　黒井は、階段の手前にある、向かって左の部屋に案内された。襖の向こうには、土壁に囲われた、六畳の和室が広がっている。天井は板張りで、照明は和紙製の囲いが嵌められている。左、玄関の方角にガラス窓があって、庭が望める。駐車場の砂利が続いている庭には、松の木がポツンと植えられていた。

「天蓋付きのベッドみたいですね」

　部屋の中央には、背の低い机があり、手前の食事は蝿帳を被っていた。

「これは、蝿帳というんです。ハエのトバリで蝿帳。ふふふ」

　口に手を当てて笑う。その様子は上品だが、無邪気でもある。

「これ、おばあちゃんの家にあったんすよ。洗濯ネットだと思ってました」

「そうでございますか。では、朝食を運んできますね」

　女将は、和室の戸を閉めた。

　まあ、とにかく座ろう。その前に、先客に断りを入れた方がいいだろうか。彼の席が入って手前の左なら、その点対象に、髪の長い女が座っていて、黙々とご飯を口に運んでいる。

「失礼、ここ座るね」

　座布団に胡坐をかく。対岸の彼女は、味噌汁から顔を上げて、軽く会釈をすると、迅速に食事に戻った。それで彼はなんとなく気まずい。別に、会話はノルマではないが、ずっと無言で朝食を食べるのは我慢できない。

「その手袋、脱がないのかい」

　黒井はもう一度、話しかけてみた。なにか話題がないかと探して、最初に目に留まったのが、手袋だった。即席で思いついたにしては、まともな疑問で、自分でも関心してしまう。ぶかぶだから、さぞかし食べにくいだろう。

「器が熱いからな」

　と、彼女は呟いた。彼は彼女の言葉の調子から、それが冗談か判断がつきかねた。もし真実ならば、合理的で人目を気にしない性格の持ち主ということになる。

「本当に。本当にそれが理由で、わざわざ手袋をしてるってのか」

　彼はいぶかしむような眼で、彼女を一瞥してから、ご飯に手を付けた。まだ温かく、粒がしっかりとした白米。甘さが一つ一つはっきりしている。いつも食べているお米が、古米に思えるほどだ。

「じゃあ、それ以外に室内で、手袋をつける理由はあるか」

　傾けたお椀の端から、流し目が神経質そうに彼をとらえた。流し目というより、食器に口を付けているため、顔を動かすことが出来ないのだろう。その瞳は黒く、水クラゲが海に浮かんでいるようだ。

「さあ」

「それは残念だな。発想に貧困を抱えているらしい。無神経なやつめ」

　そこまで言われる筋合いはない、と彼は思った。しかし、彼女の言葉の通りだった。ようやっと、ひねり出した一つの仮説は、

「わかった。指紋が付着しないようにしてるんだろ」

　彼も味噌汁をすする。味噌は、豆の風味がまだ残っている。彼は、この手の味噌に苦手意識があったのだが、この一品で払拭された。どんな苦手料理でも、極上のものを知ると、それ以外もおいしく頂ける。

「犯罪を犯すならば、悪くないな」

　彼女は、冗談だろう、と言いたげな投げやりさだったが、この村にいるかもしれない犯罪者を追っている彼としては、聞き捨てならない発言だ。人を殺すようなな人間は、子供を誘拐するかもしれない。

「どうして、この村に来た。まさか、人を殺しに来たんじゃないだろうな」

　思いつめた剣幕なので、むしろ彼が犯罪者の様子だった。

「どういう情緒だ」

　語り掛けるときに、いちいち覗き込むように目を見つめるのが、この女の癖らしく、その所作が、学者質の神経質さをうかがわせる。そのしぐさによって、彼は幾分か冷静さを取り戻した。