ネコと和解せよ(人とも)

多田いづみ

ネコと和解せよ(人とも)

 今にも雨の降りだしそうな寒い夜だった。

 終電ぎりぎりの遅い電車で帰ってきたのにもかかわらず、わたしが住んでいるアパートを素通りして、ちかくのコンビニエンスストアまで足を運んだのは、ネコの餌を買うためだ。


 アパートのとなりは野ざらしの駐車場になっていて、わたしがそこを通りがかった矢先、車のしたに隠れていたネコが足元にまとわりついてきて離れようとしない。しっぽを立て、のどを鳴らしながら、左右の足のあいだをものすごい勢いで8の字にまわりはじめたので、わたしは一歩も動けなくなった。

 ネコは一回まわるたびにわたしを見上げて小さく鳴き、それがまたカモの鳴き声みたいなひどいしゃがれ具合だったのでかわいそうになってきて、きみあぶないからそんなことしなくてもごはんを持ってきてあげるよ、みたいなことをいってなだめると、ようやくネコは落ち着きを取り戻し、バカみたいに動きまわるのをやめた。


 わたしは仕事で疲れており、見ず知らずのネコに餌をあげている余裕などなかったといえばなかったのだけれど、社会人として一度約束したことは守らなければならない。

 コンビニエンスストアで、ドライフードとペースト状のおやつ、そしてペットボトルの水を買って、駐車場に戻った。


 まずはドライフードを与えてみたが、ネコにはもう噛む力さえ残っていないらしく、口に入れたものをぽろぽろとぜんぶこぼした。

 それでペースト状のおやつをあげることにしたのだが、この食べ物ときたら、食べかたによっては悲惨なことになりかねない危険なしろもので、わたしはちょっと不安だった。というのも、やんちゃな猫だと袋のどこだろうと手当たりしだいに噛みついて穴を開け、そこからペーストがドバドバと吹き出し、顔がペーストまみれになってしまうおそれがあるのだ。

 だからおなかをすかせたネコにこれを与える場合は、とくに注意せねばならないのだが、そのネコは袋に歯をたてたりかじりついたりなんかせず、マナーにうるさい英国紳士のように、ペーストを上品に舌でなめ取って食べた。

 ネコはペーストを上品に三袋食べ、こんどは水を飲ませようとペットボトルのふたを開けたが入れ物がなく、手のひらをくぼめてそこに水をそそいだ。

 ネコは夢中になって水を飲み、ザラザラの舌でこそげ取るようにわたしの指のあいだまで舐めつくした。


「ふう、生き返りました」

 とネコは、はっきりした口調でいった。

 そして口の周りにくっついたペーストの残りやら水滴やらをぺろりと舐めた。声にはまだイガラっぽさが残っていたが、少しは元気が出でてきたらしかった。

「ドライフードもちょっとは食べたほうがいい。こっちのほうが栄養があるから」

 とわたしがすすめると、ネコは「じゃあお言葉に甘えて」とドライフードの匂いをくんくん嗅ぎ、いそいそと食べはじめた。固いものを噛む力が、いくらかは戻ってきたらしい。わたしとネコのほかには誰もいない深夜の駐車場にドライフードを咀嚼する乾いた音がひびいた。


 うす暗い街灯のしたにしゃがみこんで食べるのを見ていると、ネコはどこにでもいそうな茶トラ柄で、しっぽは太くて長い。胸のところが前掛けみたいに白く、足の先も靴下を履いているみたいに白かったが、うす汚れていた。

 

 ドライフードが半分ほどなくなったところで、ネコは急に食べるのをやめた。

「さすがにもう食べきれません。こんなにおなかいっぱい食べたのはひさしぶりです」

 と満足そうにいった。

「ふだんはどんなものを食べてるの?」

 とわたしが訊ねると、

「おもには虫ですね。小さくて食べ出はありませんが、草むらにはたくさんいますから。バッタやコオロギなんかは味もなかなかですし、たまにはトカゲやネズミをつかまえることもあります」

「しかしこう寒くなってくると、虫もあんまりいないだろう」

「そうなんです。このところトカゲやネズミも姿を見せないし、できるネコは小鳥をつかまえたりすることもあるらしいのですが、どんくさいわたしなんかにはとてもとても――。ですからここ何日もすきっ腹で、ほんとうに助かりました」

「きみはここに住んでるの?」

「住んでいるといいますか、いいエサ場は強いネコが牛耳っていますから、どんどん追い立てられているうちに流れ着いたという感じです」

「ああ、そうなんだ。いやこの近くに大きな公園があってね、そこなら地域猫のボランティア活動をしてる人もいるし、ここよりは暮らしやすいと思うんだけど」

「あそこは地元の強いネコ連中のなわばりですから、わたしなどは近づくこともできません」

 とネコはしょんぼりしたようにいった。

「なるほど。猫の世界は大変なんだね」

「ええ、大変なんです」

 ネコはため息をつくようにいった。

 そのしぐさにはどこか品があって、エサの食べ方といい、人なつっこい性格といい、生粋の野良猫には見えなかった。


「見たところ、きみはどっかの飼い猫だったみたいだな」

「やはり分かりますか。話せば長くなりますが――」

 とべつに訊いてもいないのに、ネコは待ってましたとばかりにこれまでの顛末を語りはじめた。

 かつてネコは、飼い主のもと何不自由のない暮らしをしていたらしい。階段のある広い家で、何室もの部屋があった。ネコはよく陽のあたる、二階の角部屋がお気に入りだった。つまり二階建ての戸建て住宅に住んでいたわけで、しがないワンルームのアパートに暮らすわたしとはえらい違いだ。

 しかし恵まれた生活をしているということは、それを失ってからでないと分からない。ネコはちょっとしたいたずらごころで空いていた窓から飛び出した。外はめずらしいものにあふれていたが、おそろしいものもたくさんあった。そのひとつが野良猫の存在だ。窓から見かけることはあったけれど、じっさいに相対したのは初めてだった。ネコはいつも飼い主にしてきたのと同じようにあいさつしようとしたが、何が気にいらなかったのか相手から手ひどい攻撃を受けた。ネコは追いかけられながらもなんとかその野良猫のなわばりから抜け出したが、逃げた先はまたべつの野良猫のなわばりだった。その野良猫もまた気が荒く、同じように追い立てられ、しまいには出会わないように野良猫の匂いを避けながら歩いているうちに帰り道がまったく分からなくなった。

「それで今となってはこんなありさまです」

 そうして語られたエピソードはネコにとっては切実な出来事だったにちがいないが、きかされる方からするとつまらないというか、どこにでもあるありふれた話だ。

 そもそも見ず知らずのネコの身の上話など、わたしは疲れた頭でききたくもなかった。


「飼い主の名前はおぼえてないの?」

「おぼえていません。といいますか、知りません。猫にとって名前というものは重要じゃありませんから。だいたい、わたしから見ると人なんてどれもみんな同じようで、大きいか小さいかぐらいの違いしか分からないのです。あとはせいぜい匂いとか。あえていえば、飼い主はあなたと同じように大きな手と足をしていました」

 なるほど、飼い主はわたしと同じように大人だったと。しかしそれだけの情報ではまったく手がかりにならない。そして人の名前は人にとっては重要なものだが、ネコにとってはそうではない。とるに足らないものなのだ。

 ほかに手がかりとなりそうな家の外観を話させたくとも、それまでほとんど外に出たことがない箱入り猫だったわけだから、それもよく知らないだろう。


 わたしがすこし考え込んだままでいると、ネコはおずおずと伏し目がちにいった。

「ご迷惑ついでに厚かましくお願いしますが、よろしければ二、三日あなたのお住いに泊めていただけないでしょうか? 玄関でも廊下でもどこでもかまいません。夜露さえしのげれば」

 その時、それまでなんとか持ちこたえていた空から大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきた。天気予報によると、雨はこのまま数日はつづくらしかった。


 ネコをこんな寒空の、しかも雨の降る夜に突き放すのは忍びなかったが、わたしにはどうしても受け入れられない理由があった。

「いや、それはちょっと難しいかもしれない。わたしはぜんぜんかまわないんだけど、ウチのアパートはペット禁止だし、となりに頭のおかしなじいさんが住んでてね、その人に見つかったらとんでもないことになる」


 じいさんというのはわたしのアパートの古株で、近隣にも名を知られたいわくつきの老人である。

 といっても騒音を出したり、わざと他人に迷惑をかけたりといったタイプではないのだが、とにかく融通がきかない。それまでもかなり気難しいところはあったのだけれど、数年前に奥さんが亡くなって以来、極端になった。


 たとえばごみの出し方ひとつとっても、べつに美化委員とか大家に頼まれてとかでもないのに、いちいちうるさく口を出してくる。わたしは仕事がら夜が遅く、朝ごみが出せないので夜のうちに出しておいたら、じいさんがごみは当日の朝八時までに出すようにと文句を言ってきた。いやでも当日というなら深夜零時を過ぎたらそれはもう当日なんじゃないですかと反論すると、違うという。当日というのは日の出から朝八時までのことで、役所に問い合わせて確認したのだから間違いないという。


 わたしはばからしくなって、じいさんのいうことなんか無視して夜中にごみを出しておいたら、朝部屋を出るとドアの前にごみ袋が突き返されていた。それはたしかにわたしが出したごみ袋だったのだが、名前が書いてあるわけでもないのにどうしてわたしのものだと分かったのだろう? なんとも不気味だった。もしかするとじいさんは、誰か不正なごみ出しをするやつがいないかどうか夜どおし見張っているのかもしれない。そんなこともあってわたしの部屋には出せなかったごみ袋がたくさんたまっているのだが、それにくわえてもっとひどい話もある。


 じいさんが、ごみの分別が正しくなされているかどうか住人の出したごみを逐一チェックしているというのだ。他人のごみ袋をあけて中を確認するなんてプライバシー的にも大問題だと思うのだが、じいさんにはそういう認識はなかったらしく、堂々と人のごみ袋をあけて分別のぐあいを確かめていたところを見とがめられ、たいへんな騒ぎになった。とくに怒っていたのは一階に住んでいた女性住人で、警察を呼ぶとか、訴えてやるとか、ものすごい剣幕でわめきたて、じっさいにパトカーは来るわ、大家は来るわ不動産屋は来るわ、近所のよく分からない野次馬は来るわで、えらいことになった。


 そのあとくだんの女性はすぐに引っ越していったし、じいさんがどういう処分になったのかは知らないけれど、残された住人たちのあいだで、じいさんは関わってはいけない人という扱いになった。

 じいさんが何を言おうが徹底的に無視する、それで問題ないと大家も言っている。何かあったらとにかく大家に連絡すればいいし、そもそもアパート自体、住む人が少なくなった。近隣の不動産屋に情報が共有され、あそこのアパートはおすすめできないと敬遠されるようになってしまったのだ。大家にしてみれば大損であり、本音としてはなんとかじいさんを追い出したいのにちがいないが、年金ぐらしの老人にそんなことをするのは世間体が悪いのか、どうにも扱いかねているようすだった。わたしもできれば引っ越したいと思っているのだが、仕事が忙しくて時間がとれないうちにずるずるとここまで来てしまった。


 そんなわけで、いつもならじいさんが何を言おうが無視していればいいのだけれど、生きものを部屋に持ちこむとなるとちょっと面倒だ。何事もなく済む可能性もあるし、済まない可能性もある。しかしあの目ざといじいさんのことだから、どんなにこっそり持ち込んだとしてもぜったいに見つかってしまうような気がする。わたしとじいさんの部屋が隣り合わせだというのも運が悪かった。

 大家もあきらかな規約違反となればじいさんの言うことを無視するわけにもいくまいし、あいつはとにかく執念深いから、たとえ大家を動かせなくとも保健所とかに通報されてしまうかもしれない。


 わたしは自分の部屋どころかじいさんの目の届くところに、このかわいそうなネコを置いておきたくはなかった。だからどうにかして公園に連れていってボランティアに預けたかったのだが、猫社会でカースト下位であるこのネコが公園までいくのはとても無理なのだという。

 となるとここまでボランティアに来てもらって、保護してもらうしかない。


 わたしがそのへんのいきさつを説明すると、ネコにどこまで理解できたのかは分からないが、

「なるほど。人の世界は大変なんですね」

 といちおう納得はしたらしかった。

「うん、大変なんだ」

 そう言うしかなかった。しかし生きるか死ぬかのところまで追い込まれるのは稀だから、猫の世界よりはぜんぜんマシなのかもしれない。


 でも心配しなくてもいい、もとの飼い主かそれが無理ならあたらしい飼い主を見つけてもらえるようボランティアの人に頼んでみるからというと、ネコはとても喜んだ。しかしそれまでは、じいさんに見つからないようにしながらこのあたりに隠れていてもらわねばならない。できればアパートからもっと離れたいが、なわばりというものがある。ここはどの野良猫のなわばりにも属していない、中間地帯らしかった。


 駐車場の奥にツツジの植え込みがあったので、わたしはぬき足さし足でアパートの自分の部屋にもどり、ブランケットと段ボールの箱を持ってきて、植え込みのしたに寝床を作ってやった。植え込みはよく手入れされ、細かい葉がみっちりと茂っていたので、うまく姿を隠してくれるし、雨もそれほど振り込まないはずだ。


 ネコはわたしの作った寝床をとても気に入ってくれた。

「やわらかくてあたたかくてとても気持ちいいです」

 とブランケットをしきりに足で踏みしめながらいった。

「ドライフードはここにおいておくよ。また明日の夜には何かおいしいものを持ってきてあげるから」

「何から何までおそれいります」

 安心して今までの疲れがどっと出てきたらしく、ネコは大あくびをしてすぐに眠りはじめた。



 次の日、わたしは約束しておきながらネコに会いにいかなかった。次の日どころか次の次の日も会いにいかなかった。というのも、担当していた仕事のスケジュールがいきなり前倒しになり、家に帰れなくなってしまったのだ。上司にいろいろと文句を言ったが、納期はまったく変わらなかった。そうしたものは、わたしのはるか上で決められたことだから、こんなところで何を言おうとどうにもならないのだ。

 人間向けの試練のときが、わたしにもやってきたというわけだった。


 わたしは栄養ドリンクやゼリー飲料を片手に、分刻みでタスクをこなしていった。食事をとる時間などとても作れなかった。夜になると会社が借り上げてくれたビジネスホテルでシャワーを浴び、二、三時間仮眠をとってまた会社にもどった。雨はずっと降り続いていたように思われるが判然としない。窓のそとを見る余裕などなかったのだから。

 仕事が終わったのは、三日目の朝のことだ。成果物を納品してしまえば他にやることもないから、わたしは終業時刻を待たず三日ぶりに家に帰った。


 その日の朝には雨はもうあがっていて、空は久しぶりにからりと晴れていた。日ざしもぽかぽかと暖かかった。わたしは帰りがけに駐車場の前を通りがかり、そういえば、と三日ぶりにネコのことを思い出した。薄情のように思われるかもしれないが、わたしはわたしのことでいっぱいだったし、ネコには一度餌をあげて寝床を作ってやっただけの薄いかかわり合いしかない。


 とおくからでも植え込みのかげに段ボールの箱を垣間見ることができたので、わたしはいっしゅんほっとしたが、ネコはそこにはいなかった。

 箱のなかに手を当ててみると、ブランケットはほとんど濡れていなかった。植え込みはしっかりとひさしの役割をしてくれたらしい。しかしネコはどこにいったのだろう。腹をすかせてどこかに狩りに出かけているのかもしれないが、箱のなかにはまだドライフードがいくつもこぼれ落ちている。


 そのあと何度か様子を見にいったが、ネコは戻ってこなかった。

 もしかしたら、わたしが約束を違えたので、あきれてどこかに流れていったのかもしれないし、このあたりの野良猫にまた追い立てられたのかもしれない。

 あるいは勇気を振り絞って公園に出向き、うまくボランティアに保護してもらえたのかもしれない。

 しかし可能性のことを考えるなら、じいさんに見つかって保健所に連れていかれてしまったということもありうるのだ。それだけは考えたくなかった。


 とにかくわたしが家をあけていた三日ばかりのあいだに、ネコはこつ然と姿を消してしまった。それは事実だ。しかしこんなことになってしまったのだから、あのネコに会うことはもう二度とないだろうと思っていたのだけれど、それからほんの数日後にわたしは思わぬところでネコの姿を見ることになった。


 その日は休日で、食事するのに駅前に出ようとしていたところ、買い物帰りのじいさんとばったり出会った。わたしは出かける早々イヤなやつに会ったと不快な気分になったが、そこはまあ大人であるから会釈ぐらいはしながらすれ違った。じいさんは大きな買い物ぶくろをさげていた。


 そのときは何とも思わなかったのだが、歩いているうちになにか重大なことに気づいたような気がして、わたしは道ばたで「あっ」と声をだした。というのは、じいさんの買い物ぶくろのことだ。買い物ぶくろというか、買い物ぶくろから見えていた購入品のことだ。わたしは他人の買い物の中身などたいして気にも留めていなかったし、ほんのいっしゅんの出来事だったが、そのなかに猫缶を見たような気がしたのだ。

 猫缶とツナ缶はよく似ている。だからそのときはただのツナ缶だと思って見逃していたのだが、たしかに猫の絵が書かれていたのを、あとになって思い出した。


 間違いない。じいさんは隠れて猫を飼っている。そして、それはおそらくあのネコにちがいない。わたしはそう思った。なんとか確かめたかったが、いきなりじいさんを訪ねていって「もしかしてあんたんちで猫を飼ってますか」などときいても、部屋にあげてはくれないだろう。こうなったら多少強引に調べてみるしかない。


 じいさんが外出してしばらく戻ってこないことを確認したのち、わたしはベランダに出ると、手すりから大きく身を乗り出して目隠しのパネルを乗りこえ、じいさんの部屋をのぞいてみた。

 するとやはり、いた。

 ベランダに面した大きな掃き出し窓のすぐそばに、ネコが丸くなってひなたぼっこをしていた。

 柑橘類を思わせるオレンジ色に近い鮮やかな茶トラ柄、白い足に大きくて太い尻尾。あの夜のネコに間違いなかった。暗がりで見ていたときは気づかなかったが、こうして明るいところで見ると、ネコは思っていたよりもはるかに美しい。足も胸から腹にかけての毛並みも、脱色されたみたいに白くてふわふわだ。じいさんに風呂にでも入れてもらったのだろうか。

 わたしはネコに気づかれないように注意しながら、自分のベランダに戻った。


 大家に報告するつもりはなかった。じいさんに恨みはあるが、ネコには幸せになってもらいたいし、あの様子なら虐待されているということはなさそうだ。あんなに礼儀ただしいネコならば、四角四面の堅物じいさんともなんとかうまくやっていけるにちがいない。気がかりだった猫のゆくえが分かり、わたしはほっとした気持ちになった。


 しばらくして、アパート住人のあいだにちょっとしたうわさがたった。といってもネコの事ではない。このところじいさんが、あんまりガミガミ言わなくなったのはどうも変だといううわさだ。

 部屋をあけている時間が多いわたしでも日に何度かは怒鳴り声をきいたものだが、言われてみればたしかに最近じいさんがガミガミ言うのをきいた覚えがない。

 それでもマイナス百ぐらいの印象だったものがゼロに近づいたくらいで、べつに善人になったわけでも何でもないのだが、ちょっと前まで般若みたいな形相をしていたじいさんが、普通というか、そこそこ柔和と呼べるような表情になってきたのは驚きだった。


 じいさんが変わった理由については、住人のあいだでもいろいろな憶測がなされている。

 余命宣告をうけて改心しただの、奥さんの霊が枕元にたって諭されただの、なかには、本物のじいさんは宇宙人にさらわれて、今いるのはよく似た別人だという説まである。


 しかしほんとうの理由を知っているのは、今のところわたしひとりだけであるらしい。

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