ディア・ドリーム 〜おじさんとブランコと私〜

あるかん

dear dream

 その日は朝から風が強い日だった。


 陽射しも暖かく、冬のボーナスで買ったバーバリーのコートの出番ももう終わりかと春の訪れを少し恨めしくも思ったが、残業終わりのすっかり夜の帳が下りた帰り道は、昼の陽気が嘘のように冷え込み、家に向かう足取りも自然と早くなっていた。


 ____もう1年が過ぎてしまった。


 年度末であるこの時期になると毎年思うことだが、社会に出て4度目を迎えるこの春は特にそう感じる。

 学生時代には煌びやかに見えて漠然と憧れを抱いていた都会での暮らしも、現実では狭いマンションの一室とギスギスした職場の往復の繰り返しという灰色一色の生活。

 憧れとのギャップにショックを受ける暇も許されず膨大な仕事と人付き合いの渦に飲み込まれ、気付けば社会を動かす小さな歯車となっていた。


 どんどんと過ぎていく時の中、いつの間にか心がすっかり乾涸びていることに気付く。

 駅のホームで終電を待つひと時、シャワールームで熱い湯に打たれている時。ふとした瞬間に枯れ果てた心とばったりと向かい合ってしまい、1人気まずさを覚える。

 このままでいいのかと問いかけてくる私もいるけれど、今の私はどうすればこの心が再び瑞々しさを取り戻すのか、水のやり方さえもいつの間にか忘れていた。


 あの頃の私は何になりたかったのだろう……


 街灯に照らされた角を曲がると、小さな公園が見える。昔はジャングルジムなどもあったかもしれないが、時代のせいだろう、遊具は並んだブランコが2つと滑り台だけであとは端に使い方のわからない健康器具が並んだ小さな公園。

 そこに差し掛かるところで私は歩くペースを落とした。


 何週間か前、同じように残業終わりで夜も更けた帰り道、公園のブランコに腰掛けたおじさんの後ろ姿を見かけた。

 歳は40〜50代だろうか。スーツを着たよくいるサラリーマンのおじさん。別に珍しくもないが、ブランコに腰掛けたその背中からは途方もない哀愁が漂っていた。この時間にスーツ姿でここにいるということは私と同じく残業終わりだろうか。


 仕事に疲れ、家にも帰らず公園で1人の時間を過ごすおじさんに、私はシンパシーのようなものを感じていた。勿論、話しかけるなどという無粋な真似はしない。

 現代社会という底なしの欲望が渦を巻く出口のない迷路を彷徨う中で目にした同志の存在。その背中を見て、学生時代、通学中に当時クラスで私しか観ていなかったアニメのキャラクターのキーホルダーを鞄につけたお姉さんを見かけた時のような奇妙な安心感を覚える。ただそれだけのことだった。


 この日もいつもと同じように公園に差し掛かったところでブランコの方に視線を移した。だが、そこで私の目に飛び込んで来たものはいつもの哀愁漂うおじさんの後ろ姿とは異なる、目を疑うような光景だった。


 おじさんはブランコを漕いでいた。それも全力で。


 子供用の遊具に乗った成人男性が、振り子をデコピンで強く弾いたように激しく、そして正確に半円状の軌道を描いている。こちらからはおじさんの後ろ姿しか見えないが、ブランコがこちら側の最高高度に達するたびおじさんの荒い息遣いが聞こえてくる。生まれて初めて目の当たりにした光景、その迫力に私はしばし圧倒された。

 だが次の瞬間、おじさんはさらに驚くべき行動に出た。前方に一際大きく漕いでブランコの最高高度が上の支柱の高さを上回ると、おじさんは勢いよく空中へ身を投げ出した。手足をばたつかせながら、前へ、空へと進んでいく。その光景が、スローモーションのように再生される。


 おじさんは鳥になった。


 と思ったのも束の間、中年太りしたおじさんの身体は重力の鎖から逃れることは敵わず、忽ち高度を落としブランコを囲む柵の遥か手前に軟着陸。着地に失敗したおじさんはあえなく地面に崩れ落ちた。

 どうしよう、声をかけるべきか。私は公園の外で釘付けになったまま迷っていた。風が木々を揺らす音だけが辺りに響いている。

 おじさんのことは心配だ。知らないおじさんだが、怪我をしているかもしれない。でも、私がおじさんの立場だったらどうだろう?今の光景を、ともすれば自分の娘ほどの年齢の赤の他人に見られていたのだとしたら……私なら舌を噛み切って死を選ぶ。やはり、見て見ぬ振りをするべきなのだろうか……


 そんなことを考えているうちに、おじさんはむくりと起き上がった。

 良かった。どうやら立ち上がれないほどではなかったらしい。


 だが、更なる危機がおじさんに迫っていた。起き上がったおじさんに向かって後方からブランコが迫っていた。座板の軌道上に丁度おじさんの髪の薄くなった後頭部が位置している。このままでは直撃コースだ。


 「っ!伏せて!!」


 甲高い悲鳴が夜の静寂を切り裂く。考えるよりも先に、叫び声は私の喉から一目散に飛び出していた。オアシスを見つけた砂漠の旅人のように。


 「えっ!?…ぎゃん!」


 「あっ……」


 立て続けに素っ頓狂なおじさんの声と鈍い衝突音、短い悲鳴。

 起き上がりかけていたおじさんは再び地面に倒れ伏した。結局私の叫びはただおじさんを驚かせただけで、事故を防ぐことはできなかった。ノックアウトされたおじさんの横でブランコが悲しげに鎖を軋ませていた。


 「……う、うぅぅん……」


 倒れたおじさんを助け起こすべきか私が逡巡していると、微かな呻き声が聞こえてきた。

 良かった、どうやら意識を取り戻したようだ。

 おそるおそる公園に足を踏み入れ、うずくまったまま立ち上がれない様子のおじさんへと近づく。

 

 「あの……大丈夫ですか?」


 「うぅぅ……あなたは……あぁ、大丈夫、大丈夫です……痛ぅ〜……」


 後頭部を抑えながら額に脂汗を浮かべているおじさんはどう見ても大丈夫そうではない。


 「……ちょ、ちょっと待っていてください!」


 何か冷やすものが必要だ。咄嗟にそう判断した私は悶絶しているおじさんに踵を返すと、近くのコンビニを目指して駆け出した。


〜〜


 15分後、私たちはよく冷えたスポーツドリンクを片手にブランコのそばのベンチに並んで腰掛けていた。

 おじさんは私の隣でただ静かにブランコを見つめている。後頭部の痛みはだいぶ治まってきたようだ。額の脂汗も引いている。

 スーツの袖と膝小僧が砂まみれなこと以外は至って普通のサラリーマンだ。

 後頭部を冷やしてもらうために買ってきたスポーツドリンクのペットボトルは、すでに半分ほど中身が無くなっている。


 時々遠くから空に浮かぶ星達を激しく威嚇するような風の唸り声が聞こえてくる。私は公園のほぼ中央を陣取り、時々風に煽られては花びらを散らしている桜の木をぼんやり眺めながら脳内で今の状況を整理していた。

 夜の公園で知らないおじさんと2人きりでベンチに座っている。それもおじさんはつい先程まで子どものようにブランコを漕ぎ、全力でジャンプしていた。

 ……考えれば考えるほど奇妙な状況に、私は何を言うべきか、それとも言わぬべきなのかも分からなくなっていた。


 「……恥ずかしいところを、お見せしてしまいましたね」


 静かに切り出したおじさんの声は低く豊かで、人を安心させるような響きがあった。

 とても先ほどまでブランコを漕いでいた人物と同一とは思えない。


 「……いや、そんな……」


 そんなことないですよ、と言いかけて、私は言葉に詰まった。

 流石に無理がある。私が同じ立場なら恥ずかしさのあまり全身の血が沸騰して水蒸気爆発を起こすだろう。

 何も言えないままただ引き攣った顔をしている私に気付き、おじさんは苦笑した。


 「ああ、誤解しないでください。私は別に頭がおかしいわけではないのです。と言っても、さっきの様子を見られていたら説得力がないかもしれませんが……」


 私は慌てて首を横に振った。その様子を見て、おじさんはまた小さく笑みを浮かべ、話続けた。


 「……ただ、私には夢があるのです。いや、夢と言っていいのか……むしろ呪いというべきかもしれませんが、とにかくどうしても諦めきれない夢が……


 もう何十年前になるでしょうか。ずっと昔のことです。まだ小学生だった頃、私はS市の郊外に住んでいたのですが、丁度近所にこことよく似た公園がありました。と言っても、どこにでもあるようなブランコと滑り台がある小さな児童公園ですが……ともかく、下校途中や放課後、よく遊ぶ公園があったのです。そこで、ある時一緒に遊んでいた仲間達の間で流行った遊びがありました。当時流行っていた漫画のキャラクターを模した名前が付けられていた気がするのですが、今はもう思い出せません。

 ……とにかく、その一連の遊びの中に、あそこのブランコからジャンプして柵を飛び越えるという挑戦があったのです。……ええ、非常に危険だし、今なら保護者や学校から指導が入るかもしれません。しかし、当時はなんというか、今より何かと大ざっぱな時代でしたから……とにかく、私達は夢中になってブランコを漕ぎ、あの高さ1メートルにも満たない柵の先の世界を目指していたのです。

 仲間達は大きな擦り傷や青痣を作りながらも、1人、また1人と続々と柵を超えていき、ついに全員が柵を乗り越えることができました…………ただ1人、私を除いて。


 流行は次々と移り変わり、ブランコを飛び越える遊びも学期が変わる頃には仲間達の記憶からすっかり忘れ去られていきました。

 その後、私達は中学生まで青春を共にし、その後は進路の違いなどから少しずつ皆それぞれ別の道を歩み始めました。私も今では家庭を持ち、職場でもそれなりに責任のある地位になりました。

 しかし、あの頃からずっと私の心には柵を飛び越えていく仲間達の背中が、私だけが柵の内側に取り残されていくような感覚が引っかかって残っているのです。

 年明けごろにひょんなことからこの公園を見つけ以来、私は度々仕事帰りに少しだけ遠回りしてここに立ち寄るようになりました。

 ここに来てブランコに座っていると、あの頃を懐かしむ気持ちとその陰に昂る想いがあることに気付きました。

 今からでも遅くないんじゃないか。手を伸ばせば届くんじゃないか……と」


 すみません長々と、と言いながらおじさんは頭をぽりぽり掻いた。

 わずかに細められたその瞳の奥には、今も小学生時代の光景が映っているのだろうか。


 「……こんな話、馬鹿げているでしょう」


 「いや、そんなこと……」


 そんなことないです。今度こそはっきりそう言い切るつもりだった。しかし、続くおじさんの声に遮られてしまった。


 「いいんです、気を遣って頂かなくて。私だってそう思っています。

 それでも、貴女は最後まで笑わずに聞いてくれた。勿論、ただ呆れてものも言えなかっただけかもしれませんが、とにかく最後まで聞いてくれたのは事実です。それだけでも感謝してもしきれません」


ありがとうございますと言っておじさんは深々お辞儀した。会社の上司に近いような年齢のおじさんから頭を下げられるなどそうそうない経験だ。『どういたしまして』と言うのもなんだかおかしい気がする。


 「と言っても、結局私は柵を越えることはできなかったのですが……やはり、夢を見るには少し遅すぎたのかもしれません」


 顔を上げ気恥ずかしそうに言うおじさんは明るい笑顔だったがどこか寂しげで、バターナイフのように私の胸を深く抉るように刺した。


 「……遅いなんてこと、ないと思います」


 「……えっ?」


 「夢を見るのに遅いなんてことはないと思います。それがどんな夢でも……手を伸ばしたっていいと思います。目が眩むこともあるかもしれないけど、それでも見続けてれば少しずつ近づいて、色んな道が見えてくるんだと思います……私は、私は応援します」


 夢中で喋っていた私は、気付くと何故か少し息が切れていた。おじさんは驚いたような顔で私を見つめていた。その顔を見てるうちに呼吸はわりとすぐに落ち着いていったが今度は別の波が襲ってきた。

 さっきの私、勢いに任せて相当恥ずかしいことを喋っていなかったか?

 熱湯を直接喉に流し込まれたように胸が熱あっつくなるのを感じる。おじさんの寂しげで儚い笑顔につられて余計なことを口走ってしまった。

 私がかつて小学生の頃、図書室で思いがけずオナラしちゃった時のように顔を上気させワタワタしていると、驚いた顔で固まっていたおじさんはやがてふふっと笑った。鏡を見なくても耳の先が真っ赤に染まっていくのが分かる。身体中の血はぐつぐつ煮えたぎって、頭からは湯気が沸いてることだろう。

 

 「すみません、失礼しました。笑うつもりはなかったのですが……ただ、貴女にそう言われると何故だかできる気がしてきて……おかしいですね、初めてお会いしたはずなのに……貴女と話せて良かった」


 そう言うとおじさんは鞄を捨てて目を閉じ、小さく頷くと勢いよくブランコに駆け寄り飛び乗った。ブランコはおじさんを受け止めると、その動きに合わせて大きく振れ始めた。

 私が呆気に取られているうちに、ブランコはどんどん高度を上げていく。


 前へ……後ろへ……前へ……後ろへ……


 あっという間にブランコは私の身長を超える高さまで到達した。

 

 前へ……後ろへ……前へ……後ろへ……


 最高高度に到達するたび、おじさんの身体が一瞬ふわっと浮き上がる。

 大きく揺れるブランコの中で見えるおじさんの横顔。そこに一瞬、少年の面影が見える。はち切れそうなほどの不安とひとかけらの無鉄砲な勇気を抱え、未知の世界へ飛び出そうとする少年の面影。


 前へ……真ん中へ……後ろへ……真ん中へ……そして……


 「今だっ!!」


 思わず私は叫んでいた。同時におじさんの身体がふわりと宙に浮き上がる。

 その瞬間、轟音とともに猛烈な突風が公園を駆け抜け、私は思わず目を瞑った。一瞬、息ができなくなった。


 風が収まったのを感じて、ゆっくりと目を開ける。


 おじさんの姿はもう見えない。

 風に巻かれた白い小さな花びらたちが、流星となって夜空に舞い散り、次々に流れるだけだった。

 そのうちのひとひらが揺れているブランコの座板に着地した。


 私は小さく揺れ続けるブランコを前にしばらく立ち尽くしていたが、再び強い風が吹いて座板の上のひとひらが飛び立っていくのを見送ると、帰ることにした。

 春一番とともに空へ舞い上がって行ったおじさん。その手はあの日の夢に届いただろうか。


 私のこの手も、まだ何かを掴むことができるだろうか。


 わずかな街灯に照らされた静かな細い路地。いつもと同じ帰り道も、今夜はいつもより少しだけ色づいて見えた。

 

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