桜の絵に寄せる手紙

鍋谷葵

桜の絵に寄せる手紙


 病室から青空と満開の桜が見えます。

 思い返せば、あなたと出会ってから迎えた春はこれで三回目ですね。

 いまから三年前の春。

 晴れ渡った日の上野公園。

 まだ私が高校生だったころ、騒然とする花見客をよそに、路傍で一人、あなたは絵を描いていましたね。同級生の女の子と桜を見に行っていた私の目に、折り畳みの椅子に腰を掛け、イーゼルに置いた小さな窓ほどの大きさのカンバスに、黙々と絵を描いていたあなたの姿は、いまもありありと思い出せます。そして、黒いリュックに、空になったティッシュボックスと丸まった大量のティッシュが入ったビニール袋を足元において、赤い鼻をすんすんと鳴らしていたあなたの見っともない姿もです。

 よれた白いセーターを着て、放縦とした髪で、油の臭いを漂わせせる男性に近づかせまいと、彼女は「危ない人だよ」と言って止めてくれました。ですが、私は衝動を抑えきれず、彼女の制止を振り切って話しかけました。ただ、あなたは腫れた目をギラギラと光らせ、私の差しだしたポケットティッシュを「いらない」と一言。ひどい対応をしましたね。

 拒絶された私を見ていた彼女は駆け寄ってくると、「大丈夫?」と私を心配してくれました。内心、心は親切の拒絶にざわめいていました。ですが、あなたが描いていた油絵を見ると、心のざわめきも、友達の声も、花見客の喧しさも、すべてを忘れてしまいました。静謐な青空のもとにある満開の桜の木、この絵は私の心を奪いました。知っての通り、私は芸術を専攻していたわけではありません。ただ、いやらしさがなく、素直で生々しいあなたの絵は、芸術に疎い私の心さえ捉えたのです。だから、ふと「奇麗」と呟いたのです。

 私の言葉にあなたは目を丸くして驚きました。そして、目を爛々と輝かせながら私の目を覗き込んできました。まるで私の中に自分の絵のモチーフを見つけるように、あなたは静かに、私を凝視しましたね。彼女は「気色が悪い」と言って、私の手を力強く引きました。けれど、私はあなたから離れられませんでした。ですから、彼女は私を諦めて、一人で先に行ってしまいました。

 しばらくして、あなたは私しかいないことに気が付くと、ばつの悪い顔をして「すみませんでした。俺はいつもこうなんです」と言って深々と頭を下げましたね。でも、この行為は本来、私がすべき行為だったのです。あなたの心血が注がれた活動を邪魔したのですから。しかし、当時の私はあなたについて何も知りませんでした。ですから、恥も知らずに「はあ」と気の抜けた返事を返すほかありませんでした。それから「描き終えるまで、しばらく見ていてよいですか?」と厚顔無恥な頼みもしましたね。けれど、あなたは嫌な顔をせず、快く受け入れてくれました。

 匠の技術は、あなたの手に宿っている筆遣いとあなたの目に宿っている色彩感覚を言うのでしょう。あなたは洗練された動作で次々に色を重ねていきました。青、黒、赤、ピンク、白、黄……、数えきれない色を自分の経験にしたがって塗り重ね、あなたは自分の世界をカンバスに描き出していました。

 絵を描き終えたのは、空が朱に染まったころでした。あなたは座ったまま体を空に向けて伸ばすと、背後に立つ私を見て、人懐っこい笑みを浮かべました。ほんの数時間前まであなたは警戒心と間の悪さを覚えていたのに、あなたは私を気心おける人と認めたのです。ただ、あなたは辺りを見回すと、唇をかみしめながら俯きましたね。私が尋ねると「また、場違いなことをやってしまった」と、耳を真っ赤にしながら自分の行為を猛省しました。

 自分の内部と周囲の環境の差におどおどと怯えながら、あなたは落ち着きなく道具を片付けました。そして、道具をリュックに入れ終えると、あなたはカンバスを指さして「これ、あげます。お礼です」と言いました。突飛なプレゼントの申し出に私は「どうして?」と無粋な質問を投げかけてしまいました。するとあなたは頬を赤く、ティッシュで擦れた鼻よりも赤くして、「俺の絵を認めてくれたお礼です」とぼそぼそと答えました。私は人間らしい自然をありありと描ける人が、認められていないことに驚きました。けれど、目を丸くする私をあなたは誤解して「いらないですよね」と呟きました。振り返るとあなたの繊細な心には無遠慮な応対でした。ただ、私が首を横に振って、恥ずかしいばかりの笑顔を浮かべながら「ありがとうございます」というと、あなたは顔を上げ、無邪気な笑みを浮かべました。

 あなたはラップでカンバスをぐるぐる巻きにすると、不織布の黒いキャンバスバッグに入れてくれましたね。受け取った時の重さは一生涯忘れることがないでしょう。この重みこそが、いまの私とあなたの関係を作ったのですから。確かにあなたは絵をプレゼントと言いました。けれど、私はどうしてもそれがプレゼントであってはいけないと思いました。ですから、私は少ないですが千円を払ったのです。あなたは紙幣を拒みましたね。でも、私が説得すると、あなたは目を輝かせ、純粋な子供みたく喜びました。そして何度も何度も「ありがとうございます」と言ってくれました。

 運命があるとすれば、おおよそあの時のバッグがそうでしょう。家に帰ってカンバスを出すと、あなたの住所が書かれた本屋のポイントカードが落ちてきました。ポイントカードは初めての手紙で送り返しましたね。

 さて、この手紙のやり取りも三年と、随分と長く続きましたね。公募展に初めて受かったこと、私の他に絵を買ってくれる人がいたこと、そしていまは働きながら細々と絵を描いていること、そういったことをあなたはいまにも踊りそうな筆跡で私に伝えてくれました。あなたが送ってくれた手紙は全部、この病室にあります。

 ただ、残念ながら私の手紙はこれで最後になるかもしれません。私の病気は悪化の一途をたどっているようで、最近は頭が酷く痛むようになりました。ですが、私は大丈夫です。無理を行って病室に持ち込んだあなたから受け取った絵があれば私の心は平穏なのですから。

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