政軍隷属: シビルミリタリーセルヴス<上>

SaitoDaichi ミリタリー作家

第1話 プロローグ 狸穴

 ウクライナ危機が去り、朝鮮半島統一後、世界的なポピュリズムが吹き荒れる時代——












 一体、いつまで働かないといけないのか?

 夜に染まった東京湾から響いてくる、腹の底まで貫くような汽笛の音。境正義(さかいまさよし)はシートに沈み込みながら、それを聞いていた。暖房の効いた軽商用車の運転席で、左腕に巻いたリストバンドに装着されているスマートフォンの液晶をぼんやりと眺める。液晶の僅かなバックライトが、皺の刻まれた自分の顔を照らしていた。

 人類の半分は科学技術の発展により職を失い、労働からは解放されると様々な媒体で叫ばれてきたが……幸か不幸か、その余波は一向に感じられないな。

 人類史において人類が労働から解放された時がないか、境は真剣に調べた時があった。約六〇〇万年前、アフリカのケニアで二足歩行に適した大腿骨を持つ猿人の化石が発見され、約一六〇万年前には原人ホモ・エレクタスが存在し、約一三万年前にはドイツのネアンデルタール地方で旧人類が誕生した。それらは新人類ホモ・サピエンスへと繋がり、森に住む筋骨隆々な旧人類によって草原へと追い出された。代わりに脳の一番外側を覆う大脳新皮質が発展。直立歩行と道具を駆使し、生活を変更。その後、急激な乾燥という環境変化により旧人類は木の上で絶滅。直立歩行を得た一部の種と新人類が生き残り、現在にいたった。

 現在の生態系の頂点に君臨する現生人類は、遊ぶためではなく生きるために頭と脚を使い、ものづくりによって服や武器を生み出す「労働」で生き残ったのだ。つまり、「労働は生きるため」と割り切る必要がある。

 これらは仕事に悩んでいた時期に読んだ本の冒頭の一節であり、境はその哲学を実行に移した。二〇代は義憤に駆られ、三〇代で理想と現実のギャップから目を逸らし、その間に人類史の定説もひっくり返り、「最初から二足歩行していた」という説が現れた。四〇代では公私共々悩み、五〇代から退職と次の世代を考えた。

 しかし、還暦前に辿り着いた結論は、虚無。

 理想も理解も求めず、感情も張り合いもなく働く労働者。車の中を覗き込まれれば、人生に絶望し、死を希望する初老の自殺願望者だと認識されてもおかしくはない——そこで嫌気が差し、境は労働に戻ることにした。

 ある意味、慣れれば何も考えずに済む世界。毎日の繰り返しと組織内政治を覚えれば、相当楽だろう。ただ、俺の労働がルーチンワークでもなければ会社勤めでもないだけだ。

 スマートフォンの液晶に動きがあった。境は革手袋のまま液晶をタッチし、映像を拡大。映し出されている光景は、とあるコンクリート工場の空撮映像。荒川と砂町運河に挟まれている工業地帯を見下ろす視点となっている。全体的に薄く緑がかった映像だ。監視地点の一角には加工施設、その他は事務所である建屋、駐車場。敷地の大半は搬入されたセメント、砂利置き場だった。加工施設までの重機による運搬ルートを確保するため、一見すると空地のような外観になっている。本日は祝日なので工場は停止中。勤務員の姿もない——はずなのだが、工場上空のドローンは、ゲートから敷地内に侵入してきた一台の車両を捕捉する。

 ドローンは複数のビジョンモードを兼ね備えていた。熱源を捉える赤外線(サーマル)モードだけでなく、微光増幅式の暗視モードや、人間も含めた動物や物体の輪郭のみを漫画のように抽出し、白い外線としてはっきりと出力するアウトラインモードも併用していた。星などの僅かな光の反射を増幅し、昼間並みの明るさも再現している。その映像受信機であるリストバンドの端末はドローンのコントローラーでもあり、境はドローンが工場を中心にGPSで自動飛行するよう設定していた。

 現在時刻二一〇〇時、東京都、江東(こうとう)区。

 境は秘匿通話用に開発された端末をタッチし、相手を呼び出した。

 周波数を傍受されたところで、暗号化されているので心配はない。暗号化キーを共有していなければ、キュルキュルという雑音しか捉えられないだろう。

「確認できるか? 横浜港で積み下ろしをしていた連中だろう」

 端末と同期している骨伝導イヤホンマイクからは、底にある意志を静かに感じさせるような女性の声が届いた。境と同じくらいの歳で、疲労感も混じっていた。

《一度も経由せずに来たから、武器も積んである》

 手元の液晶では、一〇名以上の熱源が地上を這う白い虫のように動いていた。虫達は車両を降りて、工場の奥へと徒歩で向かう。そこでドローンが新たな反応を検知。工場の奥から現れた、多数の人型の熱源だった。そして、運河に面した水路に係留(けいりゅう)中の小型ボート二隻のエンジンに熱が入った。

「『アセット』の読みが外れた。ここで取引するつもりだ」

《そこからだと、応援は数分掛かる》

「突入しても投棄されて、返り討ちになるかもしれない。予定通り、後から来た見張りをやる」

 境は顔全体を覆うフェイスマスクを被った。

 自動小銃の場合、閑静な屋外で一発放てば三キロ先まで、空砲でも一・五キロ以上は銃声が届いてしまう。境は右の腰に下げたピストルのホルスターから半自動式拳銃を抜いた。銃声の減音装置(サプレッサー)を左の太腿にベルトで固定したダンプポーチから取り出す。ダンプポーチは大容量で、工場の現場作業員が使用するような口の広い袋状のポーチだった。細長い単管パイプのようなサプレッサーを銃口のネジ穴に合わせて回し、固定。弾倉から銃本体に弾を送り、スライドを引いて装填されていることを境は確認。弾のサイズはサプレッサーと相性の良い亜音速の四五口径。装弾数一五発。

 小銃にサプレッサーを付けても、巨大な鞭を叩き付けたような銃声が射手側には聞こえる。屋外では二〇メートルも離隔すると作動音だけになり、一〇〇メートル先ではそれすら聞こえない。しかし撃たれた側は、音速を突破した際に生じるソニックブームによって破裂音が聞こえる。屋外で拳銃にサプレッサーを付ければ、より静音。市販されているおもちゃのガスガンと音は変わらない。

 抗弾(こうだん)プレートが挿入されたベスト「プレートキャリア」と、背負い式の黒いバックパックを手に取り、境は静かに下車。

 二月の氷のような外気と海風に、境は思わずため息が出そうになった。工場で使用されている作業着の上には、フェイスマスクと同様、赤外線遮蔽機能を持った灰色のパーカーを羽織っていた。

 その上から、境はプレートキャリアを身に着ける。約二キロの抗弾プレートが一枚ずつ、胴体の前後に挿入されていた。脇腹の下にあるサイドパネルにも小型プレートがあり、多少の安心感と保温効果も得た。ただ、衰えた体力のせいで境は重さを余計に感じていた。サングラスタイプのアイウェアを着け、パーカーのフードも被る。境は工場のゲートへと歩を進めた。フードは頭と肩を日除けのように覆うことにより、人間の輪郭をぼかす効果もあった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る