09. 予兆

 天宮とは似て非なる純白の世界。濃い霧が立ちこめる中に無数の柱が規則正しく並び、神殿までの道を作っている。

 ここは理界。運命を意味する《理》の《顕現》たる世界。理神タロスメノスの都である。

 天帝は居城から遠く離れた異界で一人の童女と向かい合っていた。

「会えない? 会えないとはどういうことだ」

「タロスメノス神は瞑想中でいらっしゃいます。今は誰ともお会いにはなりません。どうぞ、お引取り下さいませ」

「神族の王たる私が命じているのだぞ!」

「《理》は《天》よりも上位の《元素》です。その上、外四柱神は一般的な神族の節理からは外れた存在でありましょう」

 事実だった。天帝は怒りに顔を上気させながらも言葉を詰まらせた。

 だが、「はい、そうですか」と素直に引き下がれるような軽い用件ではない。今は一刻を争う大事の時である。なんとしても、運命を司る彼の女神から渾神に関する未来の情報を引き出さねばならない。

 それにここで引けば神族の王としての体面にも障るだろう。

 力尽くでも押し通ろうと決めて瞳をぎらつかせる天帝を制し、長い白銀の髪を靡かせた闇神が傍らを通り過ぎた。

「理侍サラティよ。そなたは魔族の出身だったな。私の命令でも聞けぬか?」

 魔族とは反体制の神に仕える種族の総称だ。サラティは嘗て冥神ザグラメフィに仕える死精であったという。闇神はその冥神をも傘下に入れる最上位神であった。

 サラティは苦笑した。

「高潔で聡明な神が答えの分かりきったことを仰る。……私は理侍です」

 天帝は舌打ちして闇神を見た。何かしらの行動を期待したのだ。

 だが、期待通りにはならなかった。

「そうか……」

 闇神はただ寂しげに虚空の先、遥か霧の向こうを見据えた。

「《理》――運命は天界を見捨てたか」

 天帝は驚いて目を見開いた。

「思いたいように思われるが宜しいでしょう。全ては《理》――『ことわり』なればこそ」

「馬鹿なっ!」

 無感動に紡がれるその言葉は死刑宣告のようなものだ。

 天帝は膝を突き、拳を地面に叩き付けた。慰めの言葉を思い付かない闇神はただ憐れみの目を向けることしか出来ない。

(尤も、私にとっても他人事ではないのかも知れないがな)

 サラティを見れば、熱を持たない彫刻のように静かに立っている。その姿は彼女が死精であることを思い出させた。

 生物を死へと導く。或いは死者に付き纏うのが死精だ。

「帰ろう、ポルトリテシモ」

 天帝の肩を抱き上げた闇神は、透明な静寂に包まれた理神の居城を去っていった。



   ◇◇◇



 理侍の告げた言葉は天帝には衝撃が強過ぎたらしい。天界の居城に戻っても天帝の顔色は蒼白なままだった。

 この重要な時期に床に伏せられては堪らないので、闇神は気晴らしに散策へと誘った。

 日神と昼神が紡ぐ白光が煩わしい程に天宮の庭園を照らし出していた。

 王都の昼は白い。空も白、宮殿も白、人々の衣服も皆、白色。黄金にして真白き光神プロトリシカが去った後も天界は白一色だった。

 それは意図的なものだった。天帝の光神に対する思いが無意識に表れた結果なのだろう。彼はずっと光神の面影に縋って王位にある。

 憐れだった。

 天帝の前髪をそっと手で梳いて、その目を覗き込んだ時だ。


 ――どくん。


 一つ、大きな音を感じたかと思うと、急に激しい動悸に襲われ、闇神はしゃがみ込んだ。

「……! 大丈夫か? 誰か――」

「ひと、は……呼ぶなよ」

 闇神は無理矢理呼吸を整える。

「ユリスラ……お前……」

「『大丈夫』か……。私がお前に言う筈だった言葉なのに、な」

 笑って再び天帝を見ると、怯えた瞳で返された。

「〈闇籠〉はそんなに体力を要する〈神術〉なのか?」

 一瞬何のことかと首を傾げたが、どうやら渾侍の少女を閉じ込めた折に調子を崩したのを見られていたらしい。

 確かにそれも原因の一つではあるのだろう。

「問題ない。ただ最近、身体が不安定でな」

「最近」というのは嘘だった。身体の調子が悪いのは、先代闇神が崩御し《闇》を引き継いでからずっとだ。

 やはり、一つの《顕現》に上位《元素》を二つ乗せるのは無理があったのだろうか。《理》を侵し《理》が自分から離れていくのを待つまでもなく、この身は消えていくのかもしれない。

 近頃、闇神はよくそんなことを考えるようになった。

 再び顔を上げて見れば、天帝は尚も不審な面持ちでこちらを見つめている。

 だが、闇神はそんな天帝の背後の、ある場所に目を留めた。

 先日の神宴で渾神が現れた建物だ。最近、闇神もよく訪れている。周囲には警備兵が立っていたが、何かの〈術〉で眠らされていた。

「あの娘、何をしているんだ?」

 天帝も視線を追って気付いたようだ。

 彼が生来から持つ千里眼で見通した建物の中、アミュを閉じ込めた〈封印門〉の前には、黒天人族の王女シーアが立っていた。

 結局、彼女は先日闇神が与えた忠告を無視することにしたようだ。

「シャンセ・ローウェン・ヌッツィーリナを覚えているか? 嘗て黒天人族の王太子だった男だ」

「……ああ」

 忌まわしい名だ。天帝にとっても、天界にとっても。

「だが、優秀な〈星読〉の研究者であり、天界随一の〈祭具〉職人でもあった。そのシャンセの生み出した〈祭具〉の中に〈星天盤〉というものがある」

「知っている」

 星精は運命を司る理神の子供達で、普段は天界と光界の狭間を浮遊している。その軌道は運命の流れに影響を受けやすいとされており、星の見える世界に住む種族達は彼等の活動傾向を読み取り運命を知る学問を起こした。

 総称して〈星読〉と呼ばれている。

 しかし、星を読むにはまず星を見なければならない。天界や地上ならば良いが、例えば水界のような星が全く見えない世界では〈星読〉を使用することが出来なかった。

 その問題を解決したのが、シャンセ・ローウェン・ヌッツィーリナだった。

「シャンセは星精の活動傾向と精力を人工の星片に写し取り、擬似星精とも呼ぶべき〈祭具〉を開発した。天空を模した囲いの中で飼われる擬似星精達の動きを読むことで星のない世界でもある程度、星を読むことが可能となったのだ」

「あの娘が同じことをしていると?」

「それは必要ないだろう。ここは天界だ。今、シーア・ヌッツィーリナが使用しているのは〈星天盤〉ではなく、〈青双眼〉と〈写術鏡〉だ」

「〈青双眼〉は〈封印門〉のような空間術を媒介に境界を越え、向こう側の世界を見通す〈祭具〉だったな。〈写術鏡〉は何だ。初めて聞く名だが」

「〈術〉や〈祭具〉の構造を透視し、効果と傾向を知る〈祭具〉だ。シーアはそれで〈星天盤〉の動きを――つまりはシャンセが知りたがっている外の世界の情報を読み取り、奴が取るであろう行動を予測しているのさ。そして、いざ事が起こった時に素早く対処できるようにと、ああしてずっと見張っているのだよ」

「〈星読〉を使えばいいじゃないか」

「〈星読〉では一分一秒という正確な時間までは計れないだろう」

「ああ、そうか。そうだったな。なるほど……」

 黒天人族はアミュを餌にシャンセを呼び寄せて、脱獄の手助けなり、一族の汚点の抹殺なりをするつもりらしい。そのために必要な情報を採集している、と。

「呆れるくらいのしつこさだな。しかしお前、最近あの娘に御執心なんだって?」

「『執心』? 何のことだ」

「噂になっているぞ。お前がシーア・ヌッツィーリナを侍神にするんじゃないかって。特に侍神候補者達の間では渾侍とあの娘は羨望の的となっているようだ」

「な……っ!」

 闇神は唖然とする。

 続けて、先日のシーアの言葉を思い出した。


『そうなったら、闇神様が私を貰って下さいますか?』


 つまり、あの発言は噂を知ってのことだったのだ。当の本人は冗談のつもりで言ったのだろうが――。

(あの娘……)

 心臓に悪い。

「不謹慎な。しかも、当人達のいない間に……」

「全くだな」

 闇神が心底嫌そうな顔をするので天帝は思わず噴き出してしまった。

 天帝の笑顔に闇神も一瞬安堵の溜息を漏らしたが、直後、寒気を感じた。

 反体制的な、不信仰にも当たるような思考が天界に蔓延しているにも関わらず、天帝自身がそれを笑って赦しているとは――。

(いつから、そんな風になってしまったのか)

 落日が一層目前に迫ってきた気がした。

「お前は昔から頼まれたら断れない奴だからな」

「……そんなつもりはないぞ」

「娘の護衛が? それとも、闇侍のことか?」

「どちらもだ。私もあの娘を利用しているのさ。やはり、渾神の動きは気になるからな」

「何か進展はあったのか」

「ないな。渾侍にシャンセが接触してきたというくらいだ。渾侍の力で脱獄を図るつもりなのだろうが、あの坊やも渾神の意図は読みかねているようだよ」

「だろうな。シャンセ如きに推測できるくらいなら、神族の誰もここまで引っ掻き回されてはいないさ」

「嵐の前の静けさ程、恐ろしいものはないな」

「……何もできんよ」

 泣くのを堪えているのだろうか。天帝の目の下に小皺が寄る。どうやっても、悪い思考に戻ってしまっているように思える。

 思わず天帝から顔を逸らした闇神は、気まずい空気を掃うように話を続けた。

「黒天人族はどうする。シャンセも表に出てくるかもしれないが」

「シャンセが出てきて黒天人族が行動を起こした時に、現場を押さえて一網打尽にする。また対症療法にはなるが他にはないだろう。弁明の余地もない動かぬ証拠だ」

「黒天人族の代わりを担う種族が必要になるが」

「所詮は人形。幾らでも作れるし、代えも利く」

「お前が作ったのだろう」

「……」

 そこで、また会話が途切れてしまう。

 最上位神とされる闇神も流石に困り果てて、悶々と考えを巡らしていた。きっとあの狡猾な渾神ならば、難なく良策を思い付くだろうに。本当に羨ましい限りだ。

 天帝は俯き、呻くように尋ねた。

「ユリスラ、お前の神力だけで渾神を抑えることはやはり難しいか?」

「難しいね」

「最上位神なのに?」

「神族の階級――即ち《元素》が発生した順番による序列は、必ずしもそのまま能力の優劣を示すものではないと私は考えている。相性の問題もあるしな。だが、仮に階級通りの能力だったとしても、渾神には神族の誰も敵わないだろう。そういった特別な事情を渾神は抱えているのではないかな」

「どういう意味だ?」

「今は言えない。確証が出来たら、また話すよ」

「そこまで聞いたからには、話してもらうまで納得出来ないのだが?」

「納得してくれ。……まあ、お前には悪いが、騒動が収まるまでは天界に居座らせてもらうよ。渾神には私も思うところがあるんだ」

 ――「騒動が収まるまで」。

 ああ、そうか、と思い出す。

 闇神は敵だった。自分が先帝光神の遺志を継ぎ、神族の王としてそう定めた。今は仲の良い友人の様に振舞ってはいるけれど、全てが終われば二人はまた敵同士に戻ってしまうのだ。

 鈍い胸の痛みが再び眦を熱くした。

 美しい過去の思い出に耽って、天帝はふと懐かしい人物を思い出した。

「そう言えば、白天人族の救世王女アイシア・カンディアーナだけは渾神を抑えられたのだったな。それも相性だろうが……惜しいことをした。能力だけ見れば、本当に優秀な娘であったものを。シャンセもそうだが、あの二人が天人族の最盛期の最後となってしまったな。神族をも凌駕する智恵と力を彼等は持っていた。何事も起こらなければ、いずれ昇神にさえ、なることができただろうに。今の天人族はもう駄目だ。これも時の流れの成せる業か――」

 否、〈星読〉の力だけならシーアもシャンセに及ぶかもしれないと闇神は思った。久方振りの逸材だ。

 むっつりとしたシーアの顔を思い浮かべて闇神は笑みを零したが、天帝の言葉に覚醒させられた。

「――或いは、渾神の導きか」

 突風がざっと吹き付けた後、不気味な程の静寂が辺りを包んだ。

「止せよ」

「ああ、すまなかった。何だか、さっきから話が悪い方へ悪い方へと戻ってしまっている気がするな」

「まったくだよ。今、気付いたのか」

 その言葉に天帝は苦笑する。そして、ようやく彼は顔を上げた。

「しかし何にせよ、至らぬ私を補佐してくれていた彼等はもういないのだ」

 自ら発した言葉が、天帝の心の底に黒い澱となって沈んでいく。全ては自分自身の招いた結果だ。

「私が、何とかせねばな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る