彼女の瞳に星々を
33
第1話 灰色の谷。堕天の竜人。
灰色の谷。堕天の竜人。
深い谷の底、私はただ岩の上に腰掛けていた。昼でも夜でもお構い無しに辺りは薄暗く、無機質で冷たい地面の上には深緑の苔がまばらに生えている。『灰色の峡谷』と付けられた名前の通り、地面には死骸と命ある物だったナニカが散らばり、天上から差し込む一筋の光以外は無機質な灰色だった。唯一、伸びた一筋の光が作くる輪に照らされた苔の緑はこの谷に似合わないほど瑞々しく鮮やかに煌めいていいて、私は気にいっていた。
私はその光の輪から目を離せなくて、ずっとずっとそこだけを見つめていた。いつから、なんのために、そんなことは朦朧としていてハッキリと思い出せない。意識はあったが、目的も何もなくただ目を開けている日々は、死んでいるも同然だった。
光の下に草花が生え、雪が積もり、そして溶ける。私がここに座り始めてから、幾たび繰返されたか分からないその当たり前の中の一つになっていた。
「死にたくない」
この灰色の峡谷に落とされる人間はいつも同じ事を言う。誰かの名前を呼ぶ者もいる。しかし、多くは口から血を溢れさせ喋ることも出来ないか、即死だった。
私はその者達を見守っていた。最期の言葉を聞き届けてやった。生命を救おうとしたこともあったが、学もなく道具もないココでは無意味なもので、返って苦痛を長引かせるだけだった。死の苦痛を理解出来ない私は、死に直面した人間に同情しようと努力をすることすら諦めた。
だって、それに意味はないと気付いてしまったから。
そして、ここには何もない。
もう、それで良かった。何処かを流れる水の音、鳥の鳴き声、虫のささやき、それだけに包まれていた。平穏はツマラナイ物だったが、しかしそれでよかった。
──どさり。
鈍い音が谷底に響くと同時に、私の静かな日常に異物が紛れ込んだ。
それはいつも落ちてくる死体や、死体になるものではない。血を流してもいなくて、人の形を保ってさえいた。
少女だった。
私が見つめていた光の輪に少女が一人落ちてきたのだ。私はこの瞬間を未来永劫忘れることはない、そう心の何処かで確信した。
ここは深い谷の底。世界の腐や死の吹き溜まりで、『灰色の峡谷』なんて呼ばれるこの谷は、地上からすれば随分と深い場所にあるわけで、つまり少女が落下すれば粉々に砕け散るはず……なのだが。私の頭がついに腐り、おかしくなった訳ではないのなら、少女は落下の衝撃が何でもなかった様に「いてて」と頭を押えるだけだった。その様子から明らかに人間では無かった。
少女は立ち上がると辺りをキョロキョロと見渡していた。体を振る度に白を基調とした民族衣装が灰色の中にくっきりと浮かび上がり、薄紅色の髪に光沢が輪を作る。髪の隙間から覗く深紅の瞳は光に照らされ輝いていた。
私は驚きと疑問と警戒心を何処かに放り投げ、十歩ほど先のその少女から目を離せなかった。希に空から落ちてくる雲の様な羽よりも、流れ落ちてくる桜色の花弁よりも、凍った霧よりも、その少女の方が遙かに希有で遙かに私を刺激してくれたからかも知れない。衝撃、その言葉では役不足だった。
「……だれ?」
私の熱い視線に気付き警戒するのは当然の結果で、少女は身構えた。しかし、怯える様子は一切無く、それどころか瞳の赤色は私を睨み付けていた。
「なにしてるの?」
幾年ぶりか分からない程に久しく肉声を聞いたので、思わず言葉に詰まった。「なにしてるの」なんて聞かれても、私は座っていただけだから。何もしないをしていたのだから。
「……なにも」
ようやく絞り出した紙と紙が擦れた様な歪な声は風の音にかき消され宙に消えた。少女は光の輪から外れるとゆっくりと私に向かって歩き出す。
「いつからここに?」
「覚えてないな」
「いつまでここに?」
「いつまでも」
「あなた人間? 亜人じゃないよね?」
得体の知れない──それこそ自らに襲いかかってくるかも知れない相手を前にしているとは到底思えない程に、けらけらと緩い雰囲気を纏っている。私はそれが何故だか気にくわなくて少し苛立ちを覚えた。我ながら勝手である。
「……知らないな」
しっかりとした会話するのはいつ以来だっただろうか。声帯が震える感触が温かく全身に広がっていく様な感覚を覚える。苛立ちを覚えたとはいえ、少し心が浮き足立っていることは否定できなかった。会話は嫌いではない。
「怒ってる?」
「怒ってない、って言えば嘘になるかもな」
「どうして? どうして怒ってるの?」
「お前の危機感が無いからだ」
「じゃあ、わたしを食べちゃうんだ」
「食わないって」
「……めんどくさい人」
少女は眉を曲げ、呆れた様な笑いを零した。
「で、お前はなぜここに?」
「わたし?」
少女はくるりと身を回すと、辺りと似つかわない白い装束が淡く浮かび上がる。振り向き際の彼女の目は一瞬、ほんの一瞬だが悲哀を含んでいる気がした。だけど、そんなのは気のせいだったんだと思ってしまうほどに、彼女は病的なまでの笑顔を咲かせるのだ。仮面の様な笑顔だった。
「わたしはね、捨てられたんだ」
その瞬間、私は気付いたのだ。少女を包む純白の衣装が死に装束だと、足を滑らせて谷に落ちたわけでも無く『捨てられた』のだと。そして、舞う影が落とす意味の、ほんの一欠片を。
少女は死体になる予定で、しかし、死体に成り損なったのだ。
「……すまん」
そんな言葉が自分から出るのが意外だった。
「ふふ、謝ることはないよ。なんてことないからね」
「なんてことないか……嘘だな」
「嘘じゃないよ。わたし平気だもん、だって竜人の体は強いんだから」
はにかむ深紅の瞳は、弱く細い薄暮の光に照らされ、強く強く輝いた。その瞳は、この谷にとっては異質だった。
──竜人
彼女はその言葉を口にした。
竜人、それはこの世界において絶対で絶大である竜と人間が交じり合った結果の産物。死なず朽ちず強靭で強大な竜の力を受け継ぎ、いまは姿を潜めた竜に変わり、世を統べる王たる種族。自然そのもの。世界そのもの。
しかし、彼女が本当に竜人と言うならば、それは余りにも不自然だった。
彼女は竜から受け継いだはずの空を支配するための翼も、大地を打ち付ける尾も、持っていない様だったからだ。それに竜人が地の底である灰色の谷に捨てられるとは考えられない。そんな竜人がいるならば、それは竜人ではないだろう。しかし、目の前の少女は生きている。遥か空から落下し地面に打ち付けられたのにも関わらず、いまもこうして私の目の前で口笛を吹いている。奇妙だった。
「お前はなんだ」
「あなたこそ」
少女がその薄紅色の唇を歪める。
「こんなゴミ捨て場に独りでいるなんて、意味わかんない」
「奇遇だな、私も分からん」
バギャッ。
そのとき、二度目の衝撃が私と、そして少女を襲った。今度の衝撃は少女が落ちてきたときとは、まるで違う。地面が揺れ、岩壁の小岩が崩れ落ちる。同時に感じるのは激しい熱。
互いを見合わせていた私達は、同時に衝撃の方向へ目をやった。少女が落ちてきた位置とまるで同じ所に、ナニカがいる。
しかし、それはとても歓迎出来る様なモノではなさそうだった。火が落ちてきたのだ。
「あああァァァ……ヴ……ァァあアア!!!!」
ナニカが苦しそうな唸り声を上げ、地面をのたうち回る。腕が一本、足が二本、胴に頭が付いている。落下した衝撃で腕が一本もげてしまったらしい。一見すると人間の形ではあるのだが、特筆するべきはそこではなかった。
燃えていた。ナニカの全身は灰色に覆われ、その下で炎が燻っている。さらに落下の衝撃で割れたであろう胴体からはチリチリと火の粉が舞い出ていた。ナニカが息を吸うたびに体は赤くなり、熱気が肌を焼く。薄暗いはずの灰色の谷は太陽を一つ抱えたように白ずむ。
「オォォア……」
ナニカは不安定ながらもゆっくりと立ち上がる。自重に耐えきれないのか、脚はボロボロと朽ちた樹の様に剥がれ落ち、ナニカは膝立ちになる。それでも立とうとするが、やはり駄目らしい。立ちは転び、立ちは転び、を繰り返す。生きながら死んでいるようなナニカは、燃え尽きることのない焚き木の様だった。
「おい、おいおいおい!」
私は後退りをしながら、少女に問う。
「知り合いか?」
「知らない子だけど……まあ、知り合いみたいなものかな」
少女は危機感を微塵も感じていない様に、気楽に軽く答えた。
「良かった、じゃあ話を付けてくれ」
「嫌だよ、気分じゃないし」
「はあ?」
ナニカが大きく口を開けようとして、下顎がまるで灰の様にボロボロと崩れ落ちる。そして絶叫した。
「アァァァアアア!!!!!」
頭を割る様な絶叫が谷に木霊する。ナニカの全身が一際激しく燃え盛り、欠落していた腕が再生する。
そして、ついにナニカの真っ赤な炎が噴き出る二つの穴が私を捉えた。
「あれは一体なんだ?」
少女に聞く。
「捨てられたんだよ、私と同じ」
「誰に?」
「それは……もちろん、竜人に」
ナニカが地面に指を、いや、爪を突き立て、私達目掛けて突進を始める。しかし、遅い。崩れ、壊れ、火の粉を撒き散らし、転がりながら近づいてくる。その異様で異質な威圧感に私は身を翻した。十分に避けれる。避け続ければ捕まることもないだろう。このナニカがいつまで燃えているかは分からないが、燃え尽きるまで避け続ければいい。
しかし、少女は避けようとはしない。
「おいっ!なにしてる!」
「なにも」
あろうことか、この少女は私の真似をして笑った。
「巫山戯てる場合じゃないだろう!」
「私に構わないでよ」
ナニカは数歩先まで迫っていた。悲鳴の様な声を上げながら、私達に飛び掛かろうとしている。
「くそっ」
次の瞬間、私の体に走ったのは熱だった。痛みすらも灼き尽くす熱が体を支配する。
「う“ッ……」
体が強張り締め付けられた喉から重低音が漏れた。
「ギギギギギ」
私の脚に飛び付いたナニカが、私の肉に爪を立てる。上顎のみになった口でガブリと噛みついた。内側から肉が焼け、今度は明瞭な痛みが脳に届いた。
「ああっ!」
私は力を振り絞り足を振るう。ナニカは数歩先に飛ばされ、地面に跳ねた。その衝撃で足が外れ、ナニカは上半身だけになって地面に転がった。
足を完全に焼かれ地面に崩れ落ちる。
「なにしてるの!」
私に蹴飛ばされた少女が駆け寄ってきた。しかし、心配することもせず「余計なことしないでよ!」と怒る。
「助けてもらって……それか……」
皮を剥がされた様な痛みで、声が鈍る。
「助けてなんて言ってない!」
「だろうな」
「じゃあ、どうして!」
「助けないとも、言ってないだろ」
「意味わかんない!」
少女の甲高い抗議の声に、ナニカの低い唸り声が被さる。今度は何が起きるのかと、身構え注視すると、ナニカの足から腕から炎が漏れ出していた。
「ォォォオオオ!!!!」
炎はその体を燃料にしている様に燃え盛る。そして、乱雑で、ただの揺らめきでしかなかった炎は、ナニカの欠けた片腕と両足を補強するように、その形を取る。しかし、それは人間の部位とい
眼であったであろう二つの穴から、口から、背筋から、尾骨から、漏れ出る炎は勢いとその温度を増すばかりだが、それはもう長くはないと、直感的に分かる。消えかける炎の最後の煌めきなのだろうと。
「アレは一体どういう存在なんだ」
どうせ答えないだろう。そんなダメ元で聞いてみたのだが、意外なことに少女は答えた。
「竜人の成り損ない」と。
「成り損ないか」
そう聞くと、心の中に親近感が湧いてくる。とんでもない化け物が降ってきたと思っていたが、忘れていた。私も立派な化け物だ。
焼け焦げた皮膚に、牙を突き立てられた肉が、再生を完了しその感覚が届く。先程までの出来事がなかったかのように、私の足は健康そのものだった。
「は?」
少女は理解が出来ないといった風に顔を歪める。私は立ち上がり、その顔を覗き込む。
「いいか? そこの狭い隙間を真っ直ぐに進めば、この灰色の谷を抜けることが出来る。私はその先を良く知らないが、まあ地上には繋がってるだろう」
「はい?」と意図を汲めてないようだが、続ける。
「 これから、私は私の寝床を奪おうとするあのナニカと少し取っ組み合いをする。その間に、お前がどこに行こうと知ったことじゃない」
「ほら、行け」と少女の背中を押すも、肝心の少女は「いやいや」と困惑している様子。
そして、その間にもナニカが私に飛び掛かって来た。
今度こそはと、ナニカの飛び掛かりに合わせて拳を繰り出す。
「オァ!?」
ナニカは後方に蹌踉めいた。
人間を、というより灰の塊を殴った様な感触。そして恐ろしく熱い。拳どころか腕全体の皮膚が焼ける。
ナニカの体は既に限界なのか、顔面が崩れ落ちる。案の定、湧き出る炎がその顔を再形成していく。しかし、それは明らかに人間の顔ではなかった。ひし形の瞳。大きく裂けた口から覗く禍々しい牙。淡く浮かぶ鱗。
それは、まるで……竜のような……。
「もう!」
少女が私の後ろで騒がしく地団駄を踏む。
「もう!もう!もう!」と。
目の前では、燃え盛るナニカと、体を再生するナニカが取っ組み合いをしているというのに、まるでそんな物興味ないと言った風に、少女は騒ぎ立てる。
「ぁ……ぁ……オォ……ァ……ィ……ス」
言葉を発することすら出来なくなったナニカが四つん這いの姿勢で力を溜めている……と思ったその矢先、ナニカは私に三度飛び掛かった。今度はノロマではない。獣の様な俊敏さ。私の反応を待ってはくれない。
赤黒い穴の様な口に生える炎の牙が私の首筋を捉えた、はずだった。
「ほんとサイアクだよ」
ナニカの牙と私の首筋に挟まれまのは、少女の腕だ。今の今まで白装束に隠れていたその腕は、赤い鱗に覆われていた。血の様に濃く、炎の様に深い赤色。少女の風貌にはとても不釣り合いな様相。
「静かに死ねると思ったのに!」
そして何より、ナニカの炎と牙は、まるで少女に効いていなかったのだ。少女は熱がりもせず、その肌に牙は傷を作ることもない。
少女はもう片方の手でナニカの首を掴み返す。そして、まるで綿でも払うように軽々しく投げ飛ばした。ナニカが岩壁に激突し、火の粉を散らす。岩壁に薄く生えていた植物に火が燃え移り、岩壁一面が煌々と燃え盛る。
「やあっ!」
少女は追い打ちとばかりに、岩壁に打ち付けられ身悶えるナニカに蹴りを打ち込む。岩を抉る音の次に響いたのは、ナニカの声にならない絶叫だった。
「ァ……ッ……」
ナニカの胸にぽっかりと大きな穴が開く。しかし、それでもナニカは死なない。胸の大穴から炎が這い出し、ナニカの体を覆わんと広がっていく。少女の脚にも絡みつく。
「しつこい!」
少女の放ったトドメの横蹴りは、そんなナニカのからだを真っ二つに切り裂いた。
「ッ……」
岩壁を覆っていた炎と共に、ナニカに宿っていた炎がゆっくりとその色を失っていく。形を保てなくなった灰が崩れ落ちる。その塊が、ついさっきまで動いていたことが信じられない程に、静かに静かに朽ちていった。
「はあ」
私はまだほんのりと暖かい地面に腰を下ろした。
ほんの短い時間にあまりに多くの出来事が詰め込まれすぎている。自称竜人の少女が落ちてきて、それを追うように燃えるナニカが降ってきて、よく分からないがナニカは息絶えたらしい。長いこと動かすことのなかった頭と体に大きな負荷がかかったのか、底が抜けたように疲労が押し寄せてきた。久方ぶりに再生の力を使ったこともあるだろう。
一方の少女はというと、身に着けている白装束の灰を払うと、私に近づいてくる。戦闘中の怒り具合から察するに殴られでもするのかと思ったが、少女はぺたりと私の隣に腰を下ろした。
「断りを貰ってないんだが」
「いまさら?」
「それはそうか」
少女はうーんと背伸びをすると、話を切り出した。
「あなた、死なないの?」
少女は私の焼け落ちるはずだった足を指さして言った。
「そうらしいな」
「そうらしいって、自分のことじゃないの?」
「自分のことだから分からないんだろ」
「まあ、そうだよね」
彼女は大きな欠伸をすると、背中から地面に倒れた。体の力を抜き、瞳を瞼がゆっくりと覆っていく。にわかに信じ難いが、この少女は眠ろうとしてるらしい。
「おい、寝るな」
「力を……使いすぎた……眠た……い」
「まだ名前も聞いていないぞ」
「あと……から、で……」
そうして彼女は眠りだした。静かに、安心しきった様な顔で、竜というにはか細い寝息を峡谷にゆったりと響かせている。全く身勝手な少女だ。私は大きな、それはそれは大きな溜息をついた。
私の最も古い記憶といえば、反り立つ壁の隙間から覗く青い空と、全身に走るとてつもない痛みだった。しばらくは体を動かすことも出来ず、生きていると言っていいのかも曖昧な状態で、空を見上げていた。しかし、いまやその記憶というのも朧げで、それがどれほど前だったのか、どうしてココに落ちてくることになったのか、それらは全く思い出せない。気付けばここにいて、ひたすら呆けていたのがこの私だ。
「どこかに行こうとか思わなかったの?」
「思ったさ。ココから抜け出そうとして何日もかけて歩いたこともある。だが、すぐにヤメた」
「どうして?」
「意味がない、そう思ったからだ」
「ふーん、でも暇じゃないの?」
「暇だったさ。死ぬほど暇だったから、自殺もした。だけど……死ねなかった」
どれだけ地面に頭を打ち付けても、どれだけ舌を噛み切っても、何年も飲まず食わずでも、私は死なない。傷はすぐに回復するし、飲食をする必要がないらしかった。
「つまり人間の成り損ないというわけだ、私は」
「人間の成り損ない……」
「次はお前の番だ」と少女を促す。私の身の上話をしてやったのは、少女の話が聞いてみたかったというのが大きかった。
しかし、やはり少女は簡単には答えてくれない様だった。
少女は太陽の座を奪い空を支配している夜空を見上げた。反り立つ壁が空に突き刺さるように伸びている。その僅かな隙間から見えるのは真っ暗な闇。星なんて一つも見えず、ツマラナイ夜空だった。
「なんにも見えないね」
そう笑う少女の瞳は、燃え盛る炎の様に煌めいていた。
「こっちの方が綺麗だね」
少女は私達の座る地面に視線を落とすと、そこには光る星々があった。地面に疎らに生える苔たちが柔らかい光を放っている。
「私のお気に入りだ」
「わたしのお気に入りにもなったよ、たった今ね」
そう言って、少女は恐らく本物の星々には敵いもしないであろう煌めきに愛おし気に手を伸ばすのだ。彼女がいたであろう頂きには、比べることすらばかばかしい程の、雄大な光景が広がっていただろうに、彼女は星空を見たことがないかの様だった。
竜人は空の頂きに住んでいると、私は知っている。そこは星に最も近く、風の色が濃く、誰も寄せ付けない聖域のはず。彼女が竜人だと言うのなら、そこに住んでいたはずなのだ。
「珍しい物でもないだろ。特に、竜人のお前にとっては」
私がそう言ったのは、彼女が羨ましかったのだろう。そして、私はすぐにそれを後悔することになった。
「綺麗だよ。こっちの星の方が、何倍も、何十倍も」
少女のその口調は、とても私が想像していたものではなかった。確かな憎悪を感じる物だったのだ。
「わたしが見た星はね、酷く汚く濁ってたよ」
彼女は笑った。不似合いで不出来な笑顔だった。
「……クソったれだな」
「クソったれ、だね」
私は地面の苔を少しだけむしり取った。手中から漏れる光は、徐々に弱まり、遂には消えていく。冷えた土と似て変わらないそれを、私は暗闇に投げ捨てた。
「竜人は翼を持っていなかったか?」
「竜人のことは知ってるの?自分のことは知らないのに?」
「私も不思議だが、まあ、そうらしい」
「もちろん、普通の竜人なら持ってるよ。空を翔る翼、大地を切り裂く爪、傷つくことのない鱗、そして全てを見透す瞳。それが竜人」
「お前に翼が生えている様子はないが……それに尻尾も……」
「うん」と少女は頷いた。
「わたしも成り損ない。竜の力を半分しか継げなかった、成り損ない」
「そして」と続ける。
「継いだ命も半分だけ、いや、もっと少ないのかな」
少女は自らの赤く煌めく瞳を指さした。
「わたしの輝きは鈍いでしょ? 」
「そうか? 私にはとても綺麗に見えるが」
「お世辞は良いの」と、少女は続ける。
「竜人の命はね、瞳の輝きで分かるの。完全な竜人は言うまでもなく不死だから、その瞳の輝きは絶対に失われない。だけど、l不完全で成り損ないの私は違う。わたしの瞳はこれからどんどん暗くなってく。赤から桃に、桃から灰に、灰から黒に。黒になったその時が、私の死ぬとき」
「だが」と私は切り返す。
「お前は空から落ちてきても無傷だったじゃないか」と。それならば「多少なりとも不死の力を継いでるだろう」と。
「あれは竜の体の頑丈さのおかげ」
つい先程までとは打って変わって、少女はよく喋った。
「……お喋りなんだな」
「少しくらい良いでしょ。死ぬまでずっとここにいるつもりなんだから」
私は気に食わなかった。何が、どうして、何て説明出来ないが、とにかく気にくわなかった。私は感情が顔に出るのか、少女は察したように「迷惑なら他の場所を探すけど?」と言った。
「どこかに行こうとは思わないのか?」
「別に。どうせすぐに死んじゃうし」
「時間はどれくらい残ってるんだ? 」
「それは分かんない。一か月か、一年か……もっと短いか」
「そうか」
この少女が得体の知れない私を怖がらなかったのも、ナニカの攻撃を避けようとしなかったのも、全てどうせすぐ死ぬから。私はそれが気に食わなかった。全く持って気に食わない。
「もう一度……」
「なに?」
思い返せば、自分でも理解できない。なぜ、そんな事を言ってしまったのか。出会ったばかりの、それに半竜人という訳の分からない存在に、どうしてそこまで肩入れしてしまうのか。
もう少しマシな台詞もあっただろうに。
「もう一度、星を見たいと思わないか?」
灰色の峡谷の小さな小さな隙間から見える夜空を、指の輪から覗き込む。しかし、そこに煌めく星々は見えず、空に犇めく夜が見えるだけだった。
「いきなりどうしたの?」
「どうせ死ぬなら、満点の星空の下でとは思わないか?」
「どうしてそんなこと……馬鹿みたい」
「馬鹿で結構だ」
「ふふふ」とアイリスが笑うので、思わず私も「くくく」と笑った。
「いいよ」
彼女は言う。
「一番空に近い所で、一番綺麗な星の下で、死ぬことにする」
「我が儘な娘だ」
「我儘で結構」
自分でも何故そんなことを言ったのか、いまでも理解が出来ない。一言で表すなら馬鹿なのかもしれない。ただ、一つだけ言い訳をするなら、私はアイリスの悲しむ顔を見たくなかったのだ。
遠のく空の青が恋しくなかった、そう言えば嘘になる。走馬灯に見たものは、濁った星に、手足に付けられた錆びた鉄。振るわれる鞭に、虫を見るような色とりどりの宝石達。わたしの目に写った、誰も彼もが死んでいた。最後に握りしめられた手のひらの温かさも、きっと嘘なのだろう。
だけど、わたしは負けなかった。最後の最後まで、奴らに向かって笑顔を向けてやった。
わたしはこの谷で死ぬ。半竜のこの体、落下死はしないだろう。いっそのこと死ねたら楽なのに。
この瞳の輝きが消えるまで。奴らを呪おう。
そう思っていたのに。そう決めていたのに。
誰もいるはずがない谷の底で座る彼は、初対面のわたしに不自然な程に親切で、まるで他人の様な気がしなくて。
「星を見に行かないか?」
彼はわたしに、そんなふざけたことを言ってきた。
愚かだと思う。女の子を誘うなら、もっと格好よく台詞を装飾してくれればいいのに。
そして、その誘いにのったわたしは、もっと愚かなんだろう。
――おい
「おい、行くぞ。何してる、やっぱりあそこで死にたくなったか?」
わたしの前を歩いていた彼が、呆れた様子で振り返った。わたしは急いで彼の目の色と同じ鼻を摘み取ると、彼の元へかける。
「やっぱり、あなたってお喋りなのね」
「自己紹介のときに言わなかったか?」
「自己紹介したっけ?」
「あー……そう言えば、まだだったな」
先手を打つべきと、私は白装束の端を掴みお辞儀する。
「アイリスと言います。半竜人です、これから、よろしくお願いします」
自分でも似合っていないなと感じる台詞が少し恥ずかしい。
次はあなたの番と、彼に視線を飛ばすと、彼はボロ切れを纏ったその体を高貴っぽく正し、私に手を差し出した。
「不死者です。よろしく」と。
余りにも味気ない挨拶に私は顔をしかめた。
「よろしくしたくないんだけど」
「だが、これだけだ」
「だろうね」
「名前、決めようよ」
「適当で良い」
彼は振り向きもせず、適当に答える。
「うーん、じゃあ……グレイ」
「一応、由来も聞いておこう」
「適当だけど?」
彼は立ち止まり振り返ると、その灰色の瞳でわたしを覗き込むと「悪くない」と呟いた。その顔は、出会った直後に比べると、少しだけ、ほんの少しだけ楽しそうな瞳をしていた。
私達は灰色の地面をひたすら進む。彼によると、ここは灰色の峡谷と呼ばれる場所で、名にふさわしく、見渡す限りの全てが灰色。土も、岩も、花も、彼の瞳も。そして集まるのは終点を迎えた物と者。
彼女の瞳に星々を 33 @Gyusuki
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