第32話 正道院での生活


「あら、良い感じに焼けているわね。これなら、私がいなくっても平気だわ」

「いえ! エレノアさまがいてくださるのといらっしゃらないのでは全く違います! 主に心の部分で!」

「確かにお嬢さんがいてくれると心強いし、何より士気が高まるんだよねぇ」


 貴族用厨房にいるのはエレノアにカミラとグレース、料理人のアレッタと平民研修士のリリー、そして菓子作り担当の平民研修士たちだ。

 エレノアが教えたマドレーヌは今では「研修士たちのマドレーヌ」と呼ばれている。他にも正道院の一室で二種類のラスク、正道院で採れた果実を使ったジャムなどが販売されていた。

 試作は魔法で創りあげたシステムキッチンで行うエレノアだが、こうして皆で菓子を作ることも多い。エレノア自身、彼女たちとの時間を楽しんでいるのだ。


「ラスク、マドレーヌと好調だし、他にもいろんな種類の菓子を作ってみたいわね」

「エレノアさまがどんなお菓子を作るのが、私も楽しみです!」


 エレノアの言葉にリリーが目を輝かせる。

 平民出身のリリーは夜の祈祷舎で一人祈っていたときにカミラを通じ、エレノアからラスクを貰った。朝食のパンと同じでありながら、甘みとバターの香り高いその味に驚き、何より貴族研修士ヴェイリスのエレノアが自身に菓子を振舞ったことに感銘を受けた。

 それ以来、リリーはエレノアを慕っている。


「他の正道院でも聖なる甘味を作り始めたそうですね。イライザさまもエレノアさまに聖なる甘味のことでお話がしたいと申されておりました」

「他の正道院って言うと、あれだろ? 聖女候補がいるって評判になっているじゃないか」


 聖女という言葉にエレノアはびくりと反応しそうになる。

 今朝、聖女とはなんなのか、自分自身は聖女となり得る存在なのかと考えたところだったのだ。

 少なくとも祈りの力で白い狐シルバーを顕現させ、新たな魔法の力もエレノアには表れている。自分が聖女である可能性も当然、何度も考えたのだ。

 だが、アレッタが言うには他の正道院で既に聖女候補が見つかっているという。

 驚きつつも自分が聖女である可能性が減り、エレノアは安堵する。


「聖女候補、なのでしょう? その者は果たして真に聖女となり得る者なのでしょうか?」

「同感です! やはり、聖女と言えば心優しく聡明で、かつ美しさと寛大さを備えてらっしゃるかと思うんです!」


 なぜか聖女候補に疑問を呈するカミラ、そこにリリーが強い賛同を示す。

 神など信じてはいないカミラであるが、白い狐の顕現という静謐で美しい光景を目の当たりにしている。

 何より、彼女は主人であるエレノアを敬愛し、その存在を人生の指針としているのだ。聖女という存在がこの世界にいるというならば、エレノア以外にあり得ないと信じている。

 そんなカミラに強く同意したリリーもエレノアは聖女だと考えている。

 カミラは捨て犬だと言ったシルバーという白い動物は、リリーの目には白い狐に思えるのだ。エレノアが聖女であることを隠したいようなので、そのことは口にしていないだけである。


「……うむ、詳細は申せませんがあなたは優れた感性をお持ちです。確かに、心優しく聡明で、かつ美しさと寛大さを備えて麗しい御方を聖女と呼ぶべきなのです!」

「……カミラ、少し静かにしていて。それで、聖女候補というのはどのような御方なのですか?」


 興奮し始めたカミラをたしなめ、エレノアは初めて聞いた聖女候補の詳細をアレッタに尋ねる。

 

「それがさ、詳細が全く分からないんだよ。ただ、聖女候補がいて、いずれ王都にも訪れる。このまえ、ヴェリテルっていう田舎から帰ってきた隣の家族が地元でそう聞いたっていうのさ」

「各地の正道院でそのようなことがあれば、情報として上がってくると思うのですが、正道院長であるイライザさまからもお聞きしてはおりませんね」

「それじゃ、ただの噂なのかね。なんだか、聖女さまの話なのに怯えながら話しててさ、おかしなもんだと思ったんだけどね」


 聖女候補という重要な内容であれば、情報として共有される可能性が高い。現状で情報が通達されていないことから、ただの噂話の類かもしれない。

 だが、怯えながら聖女の話をするというのはどうにも不気味な話でもある。

 皆がどこか少し静かになった厨房にノックの音が響く。

 

「エレノアさまはこちらにいらっしゃいますでしょうか」

「ペトゥラの声だわ。スカーレットさまかしら。カミラ、ドアをお開けして」


 カミラがドアを開けるとそこには侯爵令嬢スカーレット・クーパーとそのメイドであるペトゥラがいた。

 赤い髪と緑の瞳を持つスカーレットは整った顔立ちで、少し気が強く見えるが穏やかで控えめな少女である。


「スカーレットさま、ご機嫌よう。どうぞお入りになってくださいな」

「皆さんでどんなお話をなさっていたのですか?」


 そう微笑むスカーレットに、先程の聖女の話をするのは気が引ける。

 代わりにエレノアはその前にしていた聖なる甘味のことをスカーレットに伝えた。


「新しい聖なる甘味の開発のことを話していたのよ。正道院長イライザさまもそのことでお話があるそうなの」

「まぁ、そうなのですね! ……実はわたくし、エレノアさまにお伝えしたいことがありまして……その、もちろん聞いてくださるだけで充分ですのよ?」

「ふふふ、なんですの?」


 控えめなスカーレットがおずおずと話し出すのを、エレノアはじっと待つ。

 遠慮する姿をメイドであるペトゥラが不安そうに見つめているが、やや緊張した面持ちで、スカーレットは話し出す。


「あの、エレノアさまのお菓子作りなのですが、個別に依頼を受けてみてはいかがでしょう? 実はわたくしの元にも、エレノアさまのお菓子を必要となさる方が魔法鳥を飛ばして来られますわ。それも一人や二人ではありませんの」

「まぁ、それはご迷惑をおかけしているのね」

「いえ! 違いますの。それだけ、エレノアさまのお菓子が認められているというお話なのです」

 

 慌てて説明するスカーレットにエレノアは口元を緩める。

 どうやら、その案を伝えようと厨房に訪れたらしい。

 不安そうにしている様子にエレノアはスカーレットにどう伝えようか、少し悩む。

 エレノアとしても個別の依頼を受けたくないわけではない。

 しかし、正道院という場所や謹慎中という立場を考えると、個々の依頼ではなく全体のための依頼を優先すべきなのかとも思えた。

 そのとき、グレースがそっと二人に話しかける。


「お話を遮ってしまって申し訳ないのですが、実は個別の依頼もイライザさまの元に来ております。そういったことも含めて、今後のお話がしたいそうなのです。個別のご依頼を受けるかどうかは、まず届いた手紙を読んでからお考えになってはいかがでしょう」

「そうなのですね。それでは、イライザさまにお話を伺ってみます」


 正道院長であるイライザの元にまで手紙が届いているのであれば、そちらで詳細を尋ねた方が良いだろう。エレノアの言葉に、スカーレットの表情も明るくなる。

 個別の需要に沿った菓子というのはエレノアとしても興味深い。

 今、正道院で菓子を求める人々は周辺の住人である。だが、それ以外にも聖なる菓子の需要はあるはずだ。


「お菓子作りは私にとってずっとしていきたいことなのです。この正道院で菓子を作ったり、野菜や果実の手入れをしたり、愛犬と戯れる。夢のスローライフです」


 神秘的な紫の瞳を輝かせるエレノアに、スカーレットを始め、側にいた者たちは驚きつつも口元を緩める。

 貴族令嬢としては規格外の言葉であるが、そんな彼女の試みが周囲の人々の心を動かし、この正道院を変えてきたのだ。


「すろーらいふ? が何かはよくわかりませんが、自給自足は正道院の在り方の一つです。ご共感頂けたようで嬉しいです」

「私もエレノアさまのお菓子作りを応援致します!」


 信仰の篤いグレースは正道院の在り方を肯定されたことに嬉しさを滲ませ、リリーは自分を変えるきっかけとなったエレノアの菓子作りを強く支持する。

 カミラはもちろんエレノアの全てを全面的の肯定しているうえ、スカーレットは自分の案にエレノアが興味を示したことに安堵したようだ。

 エレノアの純粋で強い願いは周囲の人々も自然と巻き込み、変化を与えている。

 無論、本人はそんな目的はないだろう。

 彼女の願いは先程自身で話していた通り、ごくシンプルなものだ。

 膨大な魔力と規格外の魔法を行使できるエレノア・コールマンは今日ものんびりと研修士仲間と菓子作りを語り合うのだった。

 



 



 

 




 

 

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