第10話


 数日ぶりに帰ってきた私の家は、当たり前だろうけれど何かしらの変化があるわけもなかった。何かにほこりをかぶる要素もなく、いつも目にしている風景だけが視界にうつる。ほこりをかぶるほどの時間が経過したわけでもないし、ほこりをかぶらせるものも存在していない。湿り気のある外の空気に曳航して、床は滑らない。何の感慨も抱けそうにない。


 コンクリートで打ちっぱなしの壁、せめて彼と今過ごしている仮宿と同じような、白地で塗りつくしていた壁であったのならばよかったのかもしれない。人間らしい生活を保障されている、そう感じ取ることもできただろう。だが、見た目通りにここは牢獄でしかない。泥黎という存在がどれだけ世界に排他的に扱われているかがよくわかる。


 でも、これくらいの生活ができるだけでも幸せなのだろう。泥黎である私自身がそう感じているのだから、それ以上の幸福はないのだろう。人の感情を喰らうような化け物が生きることを肯定されている。だから、どれだけひどい環境だったとしても、それを自分自身で許さなければいけない。ほかの泥黎がどうなのかは知らないけれど、私は不満を抱いたことはない。


 この部屋にあるのは、必要最低限に存在する一つの窓、眠るためだけに使う寝具が床におかれているのみ。それ以外のものもあるにはあるけれど、それらを数えても大したものがあるわけでもない。生活の上で必要なものしかここにはないのだから。


 クロはこの部屋に入ってから沈黙を続けている。いや、この部屋に入る前から、そもそも図書館から出て行ったあとから彼との会話なんて生まれていない。案内人として何かしらの会話の誘導、もしくはコミュニケーションは必要なのかもしれないけれど、虚無である彼に対して無理に会話を広げるのも酷な話だと、勝手に私はそう思ってしまった。


 こんな部屋に来たところで、虚無である彼に何かが生まれるだろうか。何かが生まれてくれるだろうか。


 私には、そんな様子は想像することができない。


 灰色の壁、灰色の空、灰色の街。どこまでも灰色だけが続く世界、それを象徴するだけの泥黎の生活とその空間。彼の虚無が埋まる要因はここにはないだろう。


 感情を取り戻す所以はここにはない。こんなものが思い出になるわけがない。彩にあふれたものならば、きっと図書館にたくさんあるはずだ。絵本の表紙を眺めていただけでも価値観のあるものだったはずだ。彼の虚無を満たす感情の所以になるものは、どうしたってここには存在しない。


「……どうです? つまらないでしょう」


 私は言葉を吐いた。


「ここはどこまでも灰色の街、この部屋も灰色で、すべてが灰色なんです。きっと、ここにあなたの虚無を埋めるものは──」


 言葉を続けようとした。帰りを促すために会話の流れを作ろうとした。だが、それはできなかった。


「──いや」と彼は言葉を挟んだから、言葉を紡ぐことはできなかった。


「ここは、僕の心の中みたいだ」


 そう、彼は言葉を吐いた。





 僕には感情がない。記憶がない。気持ちがない。何かを考えるときには文字だけが頭の中を占有するだけで、それ以上の彩にあふれるらしい感情というものが存在しない。喜びがあればよかった、怒りがあればよかった、悲しみがあればよかった、楽しさがあればよかった。でも、それらは僕には存在しなかった。


 僕はいつの間にかこの街にいた。失楽市街と呼ばれるこの街で、中心を飾り立てる噴水のそばに僕はいた。


 そのとき、誰かが話しかけてくれていたような気がする。それさえも、僕にはもうおぼつかないけれど。


 きっと、僕は壊れた器なのだろう。なにかを得ようとしても、すべては手のひらから零れ落ちていく。溜めるための器には穴が開いている。この街に降り続ける雨を掬おうとしたところで、それらは容易に漏れてしまう。だから、感情を取り戻す、なんてそんなことはできやしないのだ。そんなことはわかっている。


 もし、この虚無の感情に名前を付けるのならば、きっと寂しさというものなのだろう。それをなんとなく感じ取った。どこからの記憶なのかは思い出せないけれど、それに名前を付けることはできそうだった。


 僕は壊れた器だ。何かを掬い取ることもできないだけの、何もない存在だ。こうして生きることができているのも幸せなものだ。


 僕はこの街に来てからいろんな泥黎の人にあった。きっと、記憶が残っていた頃の僕は何かに感情を爆発させていたのだろう。この失楽市街はそれでしか存在しないのだから。


 感情があったころも、なかったころも、たくさんの泥黎の人にあった。僕が出会った泥黎の人は、僕とは違って感情を持っていた。当たり前だ、彼らは人間なのだから。人間なのだから、感情を持っていて当然だ。でも、それがどこかどうしようもないほどに自分という存在を否定した。差別意識というわけでもない、でも、それが僕の虚無の中に一瞬わだかまった。


 そんなときだ、泥黎の人から、イアという底なしの感情喰いがいる、という話を聞いたのは。


 イアと呼ばれる彼女は底なしに人の感情を喰らう。泥黎は感情を喰えば、その当人の記憶も、感情も宿るという。だから、泥黎という存在はいつか破綻を迎える、ということをとある人間から教えてもらった。でも、イアはそうではないらしかった。


 そんなイアのことを、その泥黎は悪く言っていた。


 感情がないから永遠に人の魂を喰える、とか、本当の化け物はイアしかいない、とか、イアと同じ泥黎でいることは嫌だ、とか。


 ──だから僕は、そんな彼女に興味を持ったのだ。



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灰色の街、奈落の少女 @Hisagi1037

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