新世界
「グェップゥゥ……」
品のない、けれども幸福に満ち足りたげっぷがネオの口から溢れ出す。
「ケップゥー」
ネオの隣で、幼い我が子も真似するようにげっぷを吐いた。小さなお腹がぽこんと膨らみ、ひっくり返って満腹感を示す。
ネオと子供の腹を満たしたのは、彼女達の眼前に横たわる肉……ギョジンの死骸だ。自らが生み出した気化アルコールの爆発により上半身の多くが吹き飛べば、さしもの地下空洞頂点捕食者も生きてはいられなかった。
爆発により少なくない量の肉が消し飛んだのは惜しいが、それでもギョジンはネオに匹敵する体躯だ。ネオとその子供の腹を一日満たす程度の肉はある。
ネオの身体の傷も、得られた栄養により回復を始めていた。完全な回復にはしばし時間が掛かるが、いずれ全ての傷口は塞がり、火傷は癒え、更に力を増した肉体へと育つだろう。
なんにせよ、今は休憩の時だ。
「キャププ。クキュリュゥゥー」
「グココロロロロ」
腹が満たされて上機嫌な子を、腹が満たされ食欲の抑えられたネオが見つめる。親子の暖かな団らんが、二頭の間で交わされた。
……尤も、この幸福が何時までも続く事はない。
餌が足りないからだ。地下空洞から現れる生物はごく少数。これだけではネオは生きていけない。地下空洞生物が出てこない間は島の生き物を食べていくしかない。
しかし人間達の環境破壊による将来的な餌不足は、今後百年は解決しない。子が大きく育つほど大量の餌が必要になるが、今の森では二体どころか一体分の腹を満たす事さえも不可能である。
いずれネオが飢えから我が子を喰う。それでも森はネオが生きていくだけの獲物を生まず、いずれネオも死ぬだろう。
一億五千万年続いた古代の血統は、間もなく途切れるのだ。
――――何も起こらなければ、という前置きは必要だが。
「キャウ、キャゥー」
「……………グゥウルルルル」
暢気に子供がはしゃいでいる中、不意にネオは唸り声を出す。
何か、気になる。
「……………」
静かに、念入りに、辺りを見回すネオ。
第一に警戒したのは、新たな地下空洞生物の出現だ。ギョジンが現れたばかりだが、立て続けに出ないとも限らない。それこそ第二のギョジンが現れたとしても、確率の上ではゼロではないのだ。
しかしどうにもそれはなさそうだ、とネオは思う。
何かに見られている、そんな気配が感じられないからだ。勿論『視線』なんてものはこの物理世界にはない(『見る』とは光を受け取る事で、そこから何かを発するものではない)が、その動作をする時の身体の動き、そこから生じる微かな電磁波が感じられなかった。
ならば危険はないのか、というとこれもまた違う。猛烈な不安感がネオの頭を満たしている。何か嫌なものを、本能が感じ取っているのは間違いない。しかも強大なライバルが発する気配よりも、かなりハッキリしたものだ。
一体、自分は何を感じているのか。
何が、自分の心をこれほど掻き乱すのか。
あれこれ考えながら辺りを見回すネオだったが、結局『答え合わせ』があるまで分からず終い。そして答えは、ある災害の形で告げられる。
大地の揺れ、地震として。
「……グゥ?」
最初は、微かな揺れだった。ネオもキョトンとするだけで、危機感など覚えない程度のもの。
地震自体はこの島では珍しくもない。島に硫黄化合物が溢れ出すほど大量の熱水噴出孔が地下空洞にはあるように、この『山』は地殻活動が活発だ。身体で感じる程度の小さな地震なら年に何十回、かなり大きなものでも数回〜十回前後はある。ネオの子供は少し不安そうにしていたが、それは生まれたばかりで地震も初体験だから。ネオからすればもう数え切れないほど経験した、あり触れた事象でしかない。
だから最初、ネオはあまり気にしなかった。
とはいえ地震が大きくなると、そうも言っていられなくなる。
「……グ、ゴルル……グルゥ……」
ただの小さな揺れが、中規模の地震に。中規模の地震が、地響きを伴う揺れに。段々と、そして急速に規模が大きくなる。
ネオが立ち上がって警戒を始めた時、その揺れは極めて巨大な――――震度六クラスにも達した。
「キューッ!? クキューッ!?」
生まれて初めて経験する地震に、子供が騒ぎ出す。立ち上がって逃げようとして、けれども揺れが激し過ぎて転んでしまう。
正直、ネオにとっては都合が良い。
地震などの災害で一番良くないのが、パニックに陥る事。ネオは二十年の生涯で、逃げ惑った挙句地震で倒れた古木の下敷きになった小動物を何匹も見た。住処から無防備に飛び出し、待ち構えて獲物を捕まえる捕食者の姿も何度か目の当たりにしている。
地震の時に重要なのは、冷静に振る舞う事。理由も分からず走り回り、自ら危険に突っ込む事を避ければ、そこまで危険ではない。ましてや此処山頂は、木すら生えていない不毛の大地。大人しくしていれば、早々怪我を負う事はないだろう。
……しかし何事にも限度はある。
地響きが何時までも止まず、大地のあちこちが割れ始めれば、流石のネオも危機感を覚えるというものだ。
「ググウルルルルル……!」
何かがおかしい。そう思ったネオは、右往左往する我が子の傍に陣取る。両腕を垂らし、子が何処かに行かないよう行く先を塞いだのだ。
それから周囲を改めて観察する。
地震が大きくなり、あちこちで地割れが生じた。それもただ断層が出来たというものではない。ビキビキと不気味な音を鳴らしながら、大地の亀裂はどんどん広がっていく。
そして何メートルにも広がった亀裂の一部から、白い煙が噴出した。
「グギゥ!?」
これはネオも見た事がなく、驚きから腰が引けてしまう。
吹き出した白いものの正体は熱水だ。つまるところ熱せられた水であり、激しい流出故の水飛沫が白く見えただけ。しかしその量があまりにも膨大。地響きよりも遥かに大きな音を轟かせ、何百メートルもの高さにまで噴き上がっている。
その威力たるや、ネオよりも遥かに巨大な大岩を空高く打ち上げるほど。
あんな湯気が直撃したら、何百メートルもの高さまで打ち上げられ、そして落ちる。ネオの鱗は艦砲射撃も防ぐほど頑丈だが、だからといって全ての攻撃を軽減するほど万能ではない。高いところから落とされれば、普通に落下の衝撃で死んでしまう。
仮に湯気が直撃せずとも、落ちてくる岩も致命的だ。何百トンもある大岩の下敷きになれば、いくらネオでもぺしゃんこにされてしまう。鱗は物理的衝撃は和らげても、のし掛かる重量を無効化なんてしてくれないのだから。
そして湯気にしろ大岩にしろ、何処で生じるか、或いは何処に落ちるか分からない。
一個二個であれば、当たらないのを祈ってじっとするのも一つの手だろう。しかし今ネオの周りでは、次々と熱水が噴き上がっている。ネオが適当に見渡すだけで十ヶ所は熱水が噴き上がり、今も新たな熱水の噴出が起きていた。当然、熱水に打ち上げられる岩の数も増えていく。
これだけ増えれば、『不運』にも直撃する可能性もまた高まっていく。それこそ、いずれは必然と言えるまでに。
それでも奇跡に縋るのも一つの手だった。あの光景が見えるまでは。
「ギゥ……!?」
打開策を求めていたネオは気付く。
海が見える。
見える事自体は問題ではない。それは何時もの事だ。だからこそネオは、違和感を抱く。
海が近い、と。
ネオの巨大な脳は思考を巡らせる。あちこちで噴き上がる熱水という危機を肌で感じながらの思考は、百戦錬磨のネオであっても心を掻き乱されたが……しかし重大な事実を見落とさなかった。
この島は沈んでいる。
賢いとはいえ獣であるネオには、想像さえした事もない事態。だが現実に海はどんどん近付いていて、島はこの世から消えようとしている。
熱水や岩の直撃がないよう祈っても、島が消えては全て無意味。
「グルルゥゥ……!」
どうすれば生き残れるのか。何処ならば逃げられるか。思考を巡らせ、身体を強張らせ、生き残りの道を探り――――
しかし全ての想いを嘲笑うかの如く、ネオの足下の大地が割れる。
「キゥウゥーッ! キュゥルゥゥー!」
大地が落ちる。身体に加わる自由落下の感覚に子供が怯えて叫び、けれどもネオには何も出来ない。
やれる事があるとすれば、せめて我が子を落石から守るよう覆い被さるぐらい。
そんな悪足掻きで何かが変わる訳もなく。落ちていく大地から逃げ出す事も出来ず、ネオとその子供は地下へと落ちていった。
島の地下ではここ数百万年、活発な地殻変動が起きていた。
地下空洞の更に奥深くにあるマグマの流れが(これもまた長年の地殻変動の影響で)変化し、熱水噴出孔が活性化。大量に噴出した熱水により地下空洞が侵食され、崩落による地形変化があちこちで生じたのだ。
何百万年も掛けて侵食は大きく、上へ上へと伸びていくように進む。
地形が変わる過程で、そこに暮らす生物は住処を追われる。何処に行くか、何も定まっていない。がむしゃらに、どうにか生き抜こうと藻掻いているのだ。
そして中には地上へと向かうモノもいる。
災害からの避難者。それが地下空洞生物の(全てではないが)起源なのだ。ネオを追い詰めたギョジンも住処が崩落し、新たな縄張りを求めて歩き回った結果、地上へと出てきた。
地下の熱水噴出孔は、結果としてネオ達アロサウルス・ネオに食べ物を供給していたのである。
尤も、この地殻変動、そして侵食の結果ネオ達が暮らしていた島――――巨大な山体の頂上部分が崩壊。島は海の底に沈む事となったのだが。
山体崩壊はほんの一時間ほどで進行。資源も、森も、動物も、全てが海の底に沈んだ。島にいた豊富な固有種は全て絶滅。人間達を苦しめたアロサウルス・ネオも海の底に沈み、一億五千万年の歴史に幕を閉じた……
と、島の崩壊を観測していた人間達には思われていた。
「……………グ、グギュ、クルルル……」
しかしネオは目を覚ます。
一瞬、意識は失っていた。だから何が起きたのか、自分がどうなったかも分からない。痛む頭を左右に振るい、意識をハッキリさせようとする。
そうして頭が冴えて思い出す。
自分の子供は、大丈夫だろうか?
「グゴウゥ! ウ、ルルルゥゥ」
慌てて自分の手許を見れば、小さな我が子の姿がある。倒れ、目を閉じているが、呼吸はしているようで胸は上下していた。
どうやら生きてはいるらしい。
その事にネオは安堵する。愛情なんてものは持ち合わせていないが、『可愛い』ものが傷付くのは不快だ。無事だと分からなければ落ち着かず、分かれば冷静さを取り戻す。
我が子の安全を確かめたところで、ネオは辺りを見回す。
ネオの周りには、無数の岩が積み重なっていた。崩落した島の一部だろう。長い年月を掛けて堆積した硫黄化合物が、岩を黄色く着色していた。崩落により地下へと落下したネオは、幸運にも崩れる岩で圧死する事は避けたのだ。より正確には、ネオの身体の上には人間ぐらいならぺしゃんこに出来る大岩が乗っていたので、強靭な肉体で幸運を掴み取ったと言うべきか。
黄色い岩は、ネオの近くにだけある。離れた位置ほど岩の色は本来の、白や黒が主体のものになっていく。あれらは山体の奥深く、地表に出ていなかった部分の岩だろう。
……人間であれば、そろそろ違和感を持つかも知れない。
ネオ達が落ちた場所は島の地下だ。普通ならば太陽の光が届かない場所である。人間の都市であれば兎も角、自然環境下でこれほど明るいのは明らかにおかしい。頭上を見上げても見えるのは青空ではなく、崩れて塞がったであろう岩の姿となれば尚更だ。
「グゥ?」
ネオはそこまで具体的には思っていないが、それでも違和感ぐらいは感じていた。
だからこそ、自分達を囲う大岩の一部が明るい事が気になる。
「グゥ……クシュウゥ」
ぺろりと、我が子の身体を舐めるネオ。勿論食べるつもりはなく、起こすために優しく刺激するのが目的だ。
一回舐めても反応は薄かったが、二度三度と舐めるとぴくりと身体が震えた。やがて子供はぷるぷると痙攣しながら手足を伸ばし、頭を振りながら身体を起こす。
「クキュ? キュー」
ついには目覚め、立ち上がるやネオに擦り寄ってきた。
見た目通り、怪我などはなさそうだ。元気な我が子の姿を見て、ネオは安心して立ち上がる。
目指すは明るい場所。
積み重なった大岩も、ネオにとってはそこまで大変な道のりではない。小さな我が子が付いてくるのをこまめに確認し、離れれば立ち止まり、十数分掛けてゆっくりと登っていく。
「グゴ、ゴォォ……」
そしてついに岩の頂上に辿り着いた時、ネオの心は驚きに満たされた。
眼下に広がったのは、巨大な森。
何処までも、地平線の彼方まで続く巨大な森だ。積み重なった岩の高さ、そしてネオ自身の巨大さもあって視線はかなり高く、故に地平線も何十キロと先である筈なのに、緑は途切れていない。生い茂る木々は巨大で、島に生えていた植物よりも逞しく見える。
更に空は、虹色に輝いていた。
太陽ほど眩しくはない。けれども明らかに光っていると分かるほど強く輝く。その輝きがこの地下空洞を照らしているのだ。
ネオには分からない。空の輝きを生むものが、特殊なバクテリアである事など。そのバクテリアは熱水噴出孔から伝わった高熱を代謝し、光エネルギーを排泄している。この光エネルギーが地下世界を明るく照らし、植物を育んでいた。
植物があるという事は、それを食べる生物も豊富だという事。
森が生い茂っているため、動物の姿は見えない。しかしあちこちから聞こえる唸り声や鳴き声、悲鳴や雄叫びが大型動物の存在を物語る。
豊かな生態系という名の、激しい生存競争が繰り広げられているようだ。それこそギョジンや、それに類する生物も数多くいる。何しろ此処こそが、奴等の住処なのだから。島とは比較にならない、恐るべき弱肉強食の世界がこの地下空洞なのだと、森一つで理解させられた。
「ググゥコロロロロロ……」
ネオは警戒を強めていく。
見知らぬ植物、見知らぬ動物、見知らぬ環境……どれも知らず、故に何が致命となるかも分からない。油断すればあっさりと死ぬ事もあり得る。だからこそ気を引き締めた。
されどネオは気付いていない。
滅びゆく島から地下へと移り住んだ事で、もう獲物の心配はいらなくなったと。自分と我が子だけでは食べ尽くせないほどの、数え切れないほどの命があると。
この場所なら、アロサウルス・ネオという生物種の復興も夢ではない。
無論、獣であるネオに種族の再興、繁栄なんて興味もないが。やる事はただ一つ。
新たな住処で、生き抜く事のみ。
「グガアアアアゴオオオオオオオオ!」
力強い咆哮を、地下空洞中に響かせる。
新たな世界であろうとも自分は負けないと、新たな決意を示すように。
――――こうして、最後の恐竜は地上から消えた。
人間達は知らない。地下の世界で、未だ中生代の王者が生きている事を。これから繁栄の道を進み、ネオの血筋と多様化した種族が再び覇道を取ると。
今後も知られる事はないだろう。知られる必要もない。彼女達にとって大事なのは、島を守る事でも、己の存在を知らしめる事でもない。
過酷で雄大で恵まれた大自然の中を、最期の時まで生き抜く事だけなのだから。
孤島の守護者 彼岸花 @Star_SIX_778
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