10「月隠」

 ずっと、独りで生きていると思ってたんだ。

 それが嫌で夜になるたびに家を出て彷徨って、だれかと運命的な出逢いを果たして、「お前の居場所はここだよ」って教えてもらえるんじゃないかって期待してた。

 でも、それがどれだけ矛盾した愚行かってことに気付けなかった。

 だって俺は、一方的な善意を押し付けられたくないと思っていたくせに、餌を待つ雛鳥みたいに口を開けて待っていたのだから。

 本当は、自分の意思で努力して、手を伸ばすべきだったのに。


 卑怯で稚拙な逃避行の終着点が、ここだ。

 白みがかった脂と肉片の血だまり。辺りに散らばる手足や骨や皮膚だったものが割れた大地の隙間を埋めて、妙に弾力のある感触を背中に伝えてくれる。

 でも、俺の全身に傷はなく、皮膚の上を絶えず這いずる痛みの名残だけがある。


 バカな俺はそれゆえに、いろんな人を傷つけた。

 名も知らぬおじさんを助けられなかった。玉枝を殺してしまった。造健さんが大怪我をした。家族も巻き込んだ。祥子さんが殴られた。笹貫が泣いて走り去った。

 それらは全部、俺のせい。

 だから、この結末にも納得できる。いろんな人を傷つけたのと同じくらい、俺も痛い目に遭わなきゃ道理に合わない。死ぬことだって、贖罪になるだろう。

 もう、抵抗する気も起きなかった。


「……不思議だよね。あらゆる生き物は、痛みを覚えると身体に力が入って硬直するんだ。そしてそれは、かつて食物連鎖の中にいた人間も例外じゃない。きっと僕らは、身体に食い込んだ牙を放せば、今度こそ噛み殺されると知っていたのだろうね」


 なにか、浸るような声音で少年は語った。でも、俺はなにも返さない。

 目を閉じて、口を閉ざして、心を塞ぐ。そうしてただ、辛うじてこの世界の隅っこで息をするだけ。たくさんの人を傷つけたから、それくらいしかできない。


「さて。ところで瓜丈は僕に恭順するのでもなく、そして僕を打倒せしめるでもなく、ただいたずらに刃向かって痛い目を見たわけだけれど、気分はどうだい? 君の選択が君の家族を殺し、君自身をも殺すわけだ」


「……」


 なにも言えねぇよ。自分のバカさにはほとほと呆れてるんだ。

 どうせ鳴海家のみんなが死ぬのなら、俺はその事実を聞く前に死ぬだけ。

 そうすれば、せめて罪悪感と後悔と苦痛から逃れられるだろうから。

 黙り込んでいると、燕貝は深い溜息を吐いた。


「……少し、やりすぎたみたいだ。でも、いいか。それじゃあ行こうか」


 ──珂瑠のまします、富士山麓へ。


「──」


 終わりを告げる声に、すり減った心が少しだけ揺れ動いた。

 死にたいって思ってた。死ねたら楽になれると思ってた。

 でも、いざその終わりが目の前にやってくると、恐ろしくてたまらない。

 まぁ、けれど、どうせこれもすぐに受け入れられる。


「よい、しょっと」


 燕貝に担がれる。想像以上に細くて薄いヤツの身体はそれでもちゃんと暖かくて「コイツも生きてるんだなぁ」なんて呑気なことを考えたりもした。

 歩き始めたヤツは徐々にその速度を上げていき、やがて一心に風を受けるように走り始めた。それに伴い、埃と土と血の混じった匂いはさわやかな清風へと変わる。

 肌寒かった地下を抜けて、湿り気を帯びた温風が吹きすさぶ外に出たのだろう。


 すべてが遠ざかっていく実感だけがある。


「……ごめん」


 そんな言葉を漏らしていたのは、遠ざかるものの中に笹貫の顔を見たから。

 思い出せるのは、最後に見た泣き顔だけだった。いつかの夜に見た笑顔は、ずいぶんと曖昧な像を結んでいる。

 もはや思い出せそうにないということが狂おしく寂しくて──。


「死にたく、ないよ」


と、みっともない本音が零れ落ちた瞬間。


「なっ! るっ‼ みぃ……‼ こぉおおおおお‼」


 遠雷みたいに鋭い絶叫が、鼓膜を震わせた。

 一瞬だけ、夢だと思った。

 でも、声はまだ続く。


「手ぇ‼ 伸ばせぇえええええええ‼」


 手を、伸ばす。どこに。閉じていた目をゆっくりと開くと、舗装されていない林道を爆走する黒い物体が視界に飛び込んできた。バイクだった。そこにはヘルメットも被らずに笑う祥子さんがいて、その後ろには必死の形相でなにかを叫ぶ笹貫がいる。


「なん、で……」


 逃げるように言ったのに、どうして逃げてくれないんだよ。

 燕貝と戦ったら、笹貫だって祥子さんだって死んじゃうかもしれないんだよ。

 からからに乾いた喉から、そんな言葉が漏れかける。

 でも、背後を振り返った燕貝の笑い声が先に響いた。


「アホだ! アホがいるよ‼ よしんば瓜丈が手を伸ばしたとて‼ その手を掴むことができたとて‼ そのあとはバランスを崩して大事故さ‼ いやいや! はたまた無事に止まれたとしても僕に殺されるはずだとわかっているだろうに!」


 走る速度を緩めずに、燕貝は短く低く続けた。

 今度は、俺に向けた脅迫を一つ。


「言っとくけど、御鉢たちは見逃してやったんだ。彼女らのことを本当に想うのならば、大人らしく、大人しくしておくことだね。……もっとも、君に手を伸ばすだけの気力が残っているのかどうかは怪しいけれどね」


 そう。そうだ。俺はもう諦めるから。だから、諦めてよ。

 目だけで、そう伝える。口を開くことも億劫で、目を開けていることすら俺の身に余る幸福だった。罪深い俺は、そんなことしちゃいけないんだ。

 生きてるだけで、いろんな人がひどい目に遭う。

 だから、もうこれで──。


「責任をっ! とらせてよ‼」


「っ」


 懸命な叫び声に呼応して、祥子さんの運転するバイクがうなりを上げた。燕貝が小さく舌打ちをして、「追いつかれるな」と零す。バイクの上で祥子さんにしがみ付きながら、それでも精いっぱい手を伸ばす笹貫が、俺をじっと見つめて叫んだ。


「私はもう逃げないって‼ 一緒に背負うって‼ 決めたんだ‼」

「死にたくなければぁ‼ 掴まってろよぉ‼ あはははははは‼」


 狂った笑い声と共に、祥子さんが叫ぶ。バイクのマフラーからたなびく黒煙が、エンジンが、夜の静寂を切り裂くように泣き叫ぶ。

 法定速度を遥かに超えて、彼女らは燕貝の背中に追いついて──


「轢くぞおらぁあああああああああああ‼」


 さらに加速して、俺たちを撥ね飛ばした。


「ぁ」「わぁ⁉」「きゃぁ」


 盛大な衝撃に、世界が一瞬だけ暗転。

 内臓も脳もなにもかもをかき乱されながら、全身を襲う激痛に耐える。擦り切れる肌も、捻じれて砕ける骨も、すべてが苦しかった。でも、すぐに治り始める。

 強烈な回転の中で、耳に飛び込む情報は散々。

 ガシャンとガラスの割れるような音。へし折れる木の軋む音。倒れて地面を震わせる音。ガソリンの匂い、血の匂い。すぐに爆発音。それと熱。焦げ臭さ。

 いろんなものが混ざる中、


「鳴海高‼ 死にたくなければ立ち上がれ‼ 望みがあるのなら手を伸ばせ‼ 奪われないように守り切れ‼ 力を使ってすべてを殺せ‼」


 無駄に元気な声ではやし立てる祥子さん。

 でも、どこから──。


「ぁ」


 首根っこを掴まれて、俺の身体が宙に浮く。

 恐る恐る目を開けると、そこには。


「だ、大事故だね……痛ぁ……」


 血まみれで、けれど傷を修復させながら笹貫が笑っていた。彼女もまた、祥子さんに首根っこを掴まれるまま、猫みたいに宙づりになっている。

 細っこい彼女の身体のどこにそれほどまでの力があるのかと疑問に思う。というか、どうしてこの大事故の中で無傷なんだよ。

 なんて、そんな疑問に答えがもたらされるより早く、笹貫が泣き笑った。


「独りにしちゃって、ごめんなさい。私ね、決めたよ。話したいことが、話さなきゃいけないことが山ほどあるんだ。だから、今は一緒に戦おう」


「……戦う」


 燕貝と。全力で戦って、それでもなお届かなかった高みにいる少年と。

 ヤツは今、俺たちの真正面でバイクの下敷きになって燃えていた。ぱちぱちと爆ぜる皮膚を退屈そうに見つめつつ、燕貝はそっと立ち上がる。

 全身を舐め取る炎を叩きながら、完全に鎮火するのを待っていた。


 戦っても、いいのだろうか。生きていても、いいのだろうか。なんて、そんな逡巡は刹那で終わり。決意が宿った笹貫の顔を見たから、妙に安心してしまった。

 それに、彼女らがここに戻ってきてしまった時点で、燕貝をどうにかしないと彼女らの命が危ないんだ。ここに来て逃げるという選択肢はもはやない。

 だから。


「笹貫。一緒に戦おう」


 決して揺るがない笹貫の瞳に告げると、燕貝が低く唸った。


「ぁーやっぱりだめかぁ……くそっ、めんどくせぇ……痛い。ぁー、本当に、痛い」


 頭をガリガリ掻きながら、焦げ付いた皮膚をこそげ落としていく。そのたび流れる血が顔を真っ赤に染め上げていく。傷の修復は始まっているがその速度は遅く、ボコボコと蠢く皮膚が独立したべつの生き物のようだった。燕貝はもはや、張り付けたような笑みを浮かべていなかった。

 ただ、純粋な殺意のみが籠った眼で、俺たちを睨んでいる。


「で、お前だれ? そこのノッポババア。お前、真っ先に殺してやる」

「ガキはすぐ癇癪起こすから面倒よね。……月隠祥子。そう言えばわかるかしら?」


 燕貝の挑発を受けた祥子さんは肩をすくめるために、俺たちから手を離した。途端に支えを失ってしゃがみ込む俺をよそに、彼女はそう名乗った。俺からすれば「珍しい苗字だなぁ」という感じだったが、燕貝には心当たりがあるようだった。


「月隠……確か、この地に降りた二人目の月の民……月隠義光を保護した一族だったっけ。でも、とうの昔に離散して、その名も意味を失ったと聞いていたのだけれど」

「ハッ。あたしらのしぶとさ舐めんなよ」

「ドブネズミみたいに生きてきたってことだろ? 自慢することじゃないさ」

「否定はしないわ。でも、そんなあたしが出てきたってこと、わかるでしょ?」

「あぁなるほど。死にたくなったってことか。いいさ。慈悲深く殺してあげる」

「バカね。勝ち目があるから出てきたのよ」

「なら、その眼は節穴だったってことだね」


 舌鋒鋭く交わし合い、二人は互いに殺意を放つ。

 見ているだけで鳥肌が立つような緊張感に、身体の芯からの震えが襲う。脳に刻み込まれた痛みが、本能的な恐怖を掻き立ててくる。


 けれども──。

 あるいはそれは、反撃の狼煙。

 燕貝に飛び掛かる前に、祥子さんが短く呟いた。


「鳴海高。あんたに、あたしの命を賭けてやる‼」


 だから──と、彼女が継いだ。


「笹貫少女から! 光子分解を学びなさい‼」

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