7「死出の旅路」

 後頭部に柔らかいものを感じた。弾力があって暖かいそれは、小さく、けれども規則正しく脈打っている。生きているんだと思った。俺も、彼女も。

 闇に慣れた目がゆっくりと焦点を合わせ、世界は明瞭な輪郭線を取り戻す。

 真っ先に視界に収まったのは、ゆがんだ顔の黒くきらめく彼女の瞳。

 大粒の涙を両目に湛えた彼女は、か細く震えた声を漏らした。


「霊薬擬き呑ませたよ。月印の力じゃ、さすがにお腹の穴は塞がらなくて。不完全なものらしいけど、その効果はちゃんとあったから……」


「そっか」


 自分の腹を軽く触る。破けたティーシャツが血を吸ってごわごわに乾いていて、その下の肉はちゃんと塞がっていた。確か、霊薬擬きは珂瑠の血から作られてるんだったか。……きっしょ。そんなの呑ますなよ……。とは思っても言わないけれども。

 満足に動かない身体で視線だけを彷徨わせる。俺と笹貫の二人だけがいる。


「……イワカサは、どこに? 燕貝は」

「燕貝は、珂瑠……というか、玉枝が死んですぐにどっかに逃げてったみたい。だからイワカサは無事。それで、いまは……」

「今は?」

「玉枝の上半身を……その、死体を、探しに行った……」

「──」


 返事が出てこなかった。

 そっか。俺は、人を殺してしまったんだ。仕方のないことだったと思いたい。なにせ、殺さなきゃ殺されていたのだから。でも、そんなふうに割り切れるはずもない。

 身体がひどく寒くって、くしゃみが一つ零れた。

 真上から熱い涙が落ちてきて、俺の頬を伝って地面を濡らした。


「……ごめん。ごめんなさい。人殺しをさせちゃって、ごめんなさい」


 繰り返しながら、笹貫は肩を震わせる。

 だから、人を殺したことは──この罪については、一旦考えないことにした。

 今はただ、彼女のことだけを考えたい。


 ──俺は、笹貫郁子のことをなにも知らない。


 彼女は決して同級生から嫌われているわけじゃなかった。当然いじめられているわけでも、バカにされてるわけでもなかった。純粋に扱いに困っていただけ。空気扱いは失礼だけど、無駄に構うのもなにかちがう。そんな腫れ物扱いだった。

 でも、当の本人はいつもぶっきらぼうな無表情を浮かべていたし、だれかと親し気に話しているところも見たことがなかった。

 独りぼっちの日々を平然と受け入れてるようだった。


 その在り方は、孤独と言うほど悲惨じゃなくて、絶対的と呼べるほど至福でもない。つまるところ、笹貫郁子は孤高という言葉がよく似合っていた。

 悲しみや恐怖とは無縁な、恐ろしく強い女の子。

 そんなふうに俺は彼女を理解していた。

 だけど今、彼女は泣いている。大粒の涙を目尻と目頭の両方から零して、不細工な嗚咽を漏らしている。

 その姿が、やっと両親に見つけてもらえた迷子の子供みたいに思えた。


『私を独りにしないで』


 そんな言葉を二度聞いたから、少しだけ彼女のことがわかった。


「あのさ」


と、呼びかけて、続けた。


「俺と友達になってよ」


 この年になると、わざわざそんなふうに告白することも無いから恥ずかしかった。熱くなった顔を見られていることもまた恥ずかしい。でも、どうにか伝わって欲しいと思ったし、目を逸らして言うことでもなかったから、困惑に揺れる瞳を見上げた。


「……私のせいで、鳴海君が人殺しになっちゃったんだよ? 〈憑落〉の幹部だったんだよ? いろんな人を傷つけて生きてきたんだ。悪いヤツなんだよ。友達なんて作っちゃいけなくて、独りで生きなきゃいけなくて……それで、それでね……わたっ、私……お父さんとお母さんを──」


 言葉に詰まって、ぎゅっと目を閉じた彼女に、俺はなんだかくらくらした。

 わけがわからなかったから。ほんの少しだけ零れ落ちた彼女の過去の断片は、俺には想像すらできなかった。

 彼女はいったいどれほどの時間、そうして泣いてきたのだろうか。


「俺と笹貫は、たぶんよく似てるんだ」


 比べられることじゃない。同列に語ることだってできるはずもない。

 でも、俺と彼女はよく似てる。そう、悟った。今、わかった。


「──」


 俺の言葉に、彼女は真っ赤なまぶたを大きく見開いた。色を失うほどの衝撃があったのか、口元を戦慄かせて、けれどもなんの言葉も為せず、ただ押し黙る。


「独りぼっちが、怖いんでしょ?」


 笹貫郁子は、恐ろしく強い女の子だ。

 きっとそれは、勘違いじゃない。

 俺が誤解していたのは彼女の強さの意味だった。

 彼女は独りであることをなんとも思わないから強いんじゃない。

 孤独を恐れていながらも、必死に耐えられるから強いんだ。


 碌な会話もしなかった夜の終わりに、そんな事実に気がついた。

 他のことは、これから知っていければいいなと思う。

 だからこそ、俺は彼女の友達になりたいと思ったんだ。


「笹貫のことなんてなに一つ知らないけど、俺たちは同じ気持ちを……独りが怖くて寂しいって気持ちを共有できる。なら、それは仲間ってことで、同士ってことだ。だからきっと、俺たちは友達にだってなれる……と思う」


 だから、ともう一度結論を告げた。


「俺と友達になってください」


 彼女はしばらく黙っていた。泳ぐ視線は定まらず、けれどもやがて目元に張り付く涙の赤が羞恥の赤となって顔全体を染め上げた。

 それから彼女は深呼吸を三度してから口を開いた。


「……私、きっとこの瞬間のために生きてきたんだと思う。あのね──」


 涙で歪んだその顔が、ゆっくりと、引き攣ったままでも確かに変わった。

 あ、と思った。


「──私を助けてくれて、ありがとう」


 そう言った彼女に、俺は思わず吹き出した。

 ちがうだろ。助けられたのは俺の方だった。

 まったく、それにしても。

 笹貫はそんな顔で笑うんだなぁ……。

 今夜、あれだけ辛くて苦しかったことが全部どうでもよくなった。



    ●●●



「……待たせたな──と、」


 黄色い光を伴って、どこからともなくイワカサが現れた。彼は地面に降り立つなり、静かに涙を流す笹貫の膝の上に寝転がる俺を見て硬直した。


「瓜丈……フッ──」


「あ、いや、これちがうんすよ。アレ、えっと、なんかタイミングを見失って……」


 慌ててしどろもどろに言い訳すると、奴は肩をすくめる。例によって野球帽で隠れているのでその表情を見ることはできなかったが、なんとなく生暖かい目で見られているような気がした。

 めちゃくちゃ死ぬほど恥ずかしかった。もぞもぞと芋虫みたいに転がって、どうにか体制を整える。それから手ごろな倒木を背にして身体を起こし、呟いた。


「で、イワカサ、玉枝の死体は見つかった?」


「……あぁ。地中深くに埋めておいた。獣共に掘り返される恐れもないほどにな」


「そっか。ごめん。嫌な役目を押し付けて」


 構わんよ。と低く漏らすイワカサは、それっきり口を閉ざす。

 だれも、なにも言わなかった。

 どうにかこうにか命を繋いだのにもかかわらず、横たわる雰囲気は重苦しかった。

 それもそうだろう。なにせ、なにも問題は解決していないのだから。


「さっき笹貫から聞いたよ。アレは、珂瑠であって珂瑠じゃない。……玉枝の精神と身体を侵食して、珂瑠っぽくなってただけ。だから〈憑落〉はこれからも俺を狙ってくる。あと、二人がこれまで俺を守るために戦ってきてくれたことも」


 口火を切るのは、俺の役目だろう。

 これは、俺のせいで始まったことだから。

 笹貫とイワカサに視線を送り、それからはっきりと口にした。


「これからは、俺が〈憑落〉と戦うよ。これ以上二人に迷惑はかけられない」


「……それは、無理なんだよ」


 弱々しく首を振った笹貫に口を尖らせる。


「……一応言っとくけど、危ないからとか、そういう理由じゃ納得しないからな。友達が死ぬ思いして戦ってんのに俺だけ安全に生活するなんて嫌すぎる」


「ぬっ」


 友達、という言葉に顔を赤くした笹貫は大げさな咳払いをしたあとで言った。


「えぇっとね、理由は二つあるんだよ」


「二つ?」


「そう。まず、笹貫家が目的を果たすためには、鳴海君には生きててもらう必要があるんだ。戦うってことは、死ぬリスクを背負うってことだからね。避けたいの」


「ふぅん? ところで、笹貫家の目的って?」


「んー、話すと長くなるから、また今度ね」


 そっけなく躱された。でも、まぁ言いたいことはわかったので頷く。

 とりあえず二つ目の理由を聞こう。黙って笹貫に発言権を譲ると、彼女は「で、二つ目だけど」と前置きしてから呟いた。


「鳴海君の月印を狙っているのが、他ならぬ珂瑠だから」

「…………んん? どういうこと?」

「時に瓜丈。御前、学はあるか?」

「学? ……ん? どういうこと?」


 唐突に問いかけられても、意図がわからないからどうしようもない。

 首を捻ると、イワカサはそれはもう深い溜息を吐いた。


「……その反応で十分だ」


 どういう意味だよ。ムッとしつつも堪えたのは彼の雰囲気があまりにも剣呑だったから。怒りというか、憎悪とか、そういう澱んだ感情がその全身から発されている。


「珂瑠とは、今より千三百年も昔の男の名前だ。諡号は、天之真宗豊祖父天皇あまのまむねとよおじのすめらみこと


「お、おぉ……諡号? アマ、ムネ? スメラミコト……?」


 またもや飛び出したわけのわからない単語に首を捻ると、笹貫が答えてくれた。


「諡号っていうのは、天皇サマなんかが亡くなったあとにつけられる名前だよ」


「へぇ……ってことはつまりどういうこと? 珂瑠ってのは、自分を天皇だと思ってる異常者ってこと? 天皇名乗るとか超ヤバいヤツじゃん」


 どうやら俺の発言は、だいぶ的外れだったらしい。

 笹貫は苦笑を漏らしたが、イワカサはくすりとも笑わなかった。


「千三百年前、珂瑠はかぐやが月に昇ったあとに、不死の霊薬を呑んでいる」


 笑わない男は腕組みしたまま、とんでもないことを言い放つ。

 一秒間の沈黙のあと、その言葉の意味を理解した。


「ま、待った」

「良いだろう」

「……ありがとうございます」


 もらった猶予で考える。

 まず、〈憑落〉の長である珂瑠は、帝の名を拝している。

 そして、これまでに挙がってきたキーワード。

『竹取物語』、御鉢、玉枝、燕貝。そして、月の都と月の民。

 これらを結び付けるのならば──。


「えっと、あれ。あれだよな。もしかして……『竹取物語』はノンフィクションで、あの物語のラストでかぐや姫が遺した霊薬は珂瑠が……帝が飲んじゃってて……だから現代まで生き残ってて……その帝が俺を狙ってる……って、こと?」


 問いかけに対してイワカサは大げさに肩をすくめて皮肉で返す。


「……御前は本当に察しが善いな」


「……えぇ」


 ちらりと笹貫を見る。彼女もまた、大真面目。

 どうやら二人で揶揄っているわけではなさそうだった。でも、マジで?

 未だ納得できない俺を無視してイワカサが続ける。


「いずれにせよ、珂瑠は不死者と堕ちている。不死者殺しのなんと莫迦げたことであるかは想像に難くないだろう」


「でもね、珂瑠は不死なだけで、不老ではない。そこで、鳴海君なんだよ」


「俺ぇ? なんでぇ?」


「月印を持つ人間が不死の霊薬を呑むとその効果が増して、不老不死に成れるんだってさ。不老不死に成りたいんだよ。珂瑠は。だから鳴海君が狙われてるの」


 ありえない。と、一笑に付すことは簡単だった。でも、そういうありえないことの連続を体験したばかりなのだ。押し黙ることしかできなかった。

 珂瑠を殺せないのなら、俺はいつまでも襲われ続けることになる。

 ヤツと対峙したときに感じた直観は正しかったということだ。

 どうしたものかと考えたとき、イワカサが一つの道を提示した。


「かつてこの地に降りた月の民──かぐやは使者に連れられ月に還った。瓜丈が月の都の人間である以上、いずれ月より使者が舞い降りる。瓜丈が月に還ってしまえば、さしもの〈ツキオトシ〉も諦めざるを得ない。それこそが、たった一つの勝利条件」


「せっかく友達になれたのにね……。でも一生狙われるよりはマシだよね」


 寂しげに笑った笹貫の声が、ずいぶんと遠くに聞こえた。

 だって、たぶんイワカサと笹貫が言おうとしているのは、俺が待ち望んでいた台詞だから。もっとも、それはイメージとはかけ離れたものだったのだけれど。

 夏休みに入ってから何度も何度も繰り返した深夜徘徊。

 その目的は、鳴海家の人たちから離れるためと、居場所を見つけるためだった。


 俺の居場所は、月にこそ、実在していたんだ。

 だって、鳴海高は──否、瓜丈高は月の都の民だったのだから。


「月より使者の降る晩。それは月とこの地が最も近づく十五夜。すなわち、ひと月後の九月十七日だ。しかしそれにはとある条件がある」


 そこで言葉を区切ったイワカサは俺を見つめた。

 彼の異様な瞳のイメージが、俺の頭に鮮明に浮かび上がる。

 落ちくぼんだ醜い輝きの灯る目に、俺は言葉も紡げず息を呑む。


「御前は月の都で罪を犯し、この地に堕とされた。ゆえに、その罪を贖わなければならない。使者が降るのはそのときだ。されど〈ツキオトシ〉は絶えず御前を追い続ける。次第にそれは苛烈に、かつ手段を択ばなくなるだろう」


 俺はこの瞬間、自分の運命を知った。


「──これよりひと月、瓜丈高には贖罪の旅に出てもらう」


 要するに、「逃げろ」と男は言った。

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