内なる家と碩(しゃん)子

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内なる家と碩子


「ねえ宅見たくみ、ついてきてほしいところがあるの」


 しゃん子が手を引くままに歩いて行った。その先には宇宙が待っていた。満点の星空が360度輝いていて、俺は見えない床の上に立っていた。


(…………え?)


 目をこする。変わらず宇宙がある。俺は困惑した。そもそも、どうしてこうなったのか。彼女が具体的な行き先を教えてくれなかったことは覚えている。それ以外の事が曖昧だ。彼女――星丘碩子について、俺は思い出そうとした。




 彼女と出会ったのは、最寄りの図書館だった。きっかけは、同じ本を手にとろうとしたことだった。ベタな馴れ初めだな、と我ながら恥ずかしい記憶と共におぼえている。好きな本の嗜好、映画、いろんなところで趣味があった俺たちは、自然とよく会うようになっていた。


 碩子は、栗色の毛が綺麗な人だった。背はちんちくりんだが、その分……その、とても魅力的だ。そうだ、近々引っ込しを考えていると、彼女は言っていた。そうか。ならばこれは引っ越し先の住宅の内見なのだろうか。俺は納得しようとした。


 そう思えば、この幻想的な星空も、内装かなにかなのだろう。プロジェクションマッピングという言葉を聞いた事がある。それに違いないと俺は思った。一面の宇宙は、実際よくできていたが、ところどころ粗があった。たとえば、銀河のような渦巻の中に、ところどころ大きな穴が開いていて……。


「宅見、あれは何?」


 碩子が穴の一つを指さした。すると、その中に浮かび上がってくるものがあった。朧気だったそれが輪郭を帯びてくる。茶色くて、赤と緑と黄がなかに挟まっていて、とても食欲を刺激されるものだった。


「あぁ……あれはドムドムバーガーのビッグドムだ。小さい頃は近くにお店があったんだよ。懐かしいな」


 ドムドムバーガーの店舗は、俺が大学の頃にはなくなっていた。なぜここでビッグドムが映ったのか、よくわからなかった。


「あっちは?」


 彼女が指さすと、またしても穴になにかが浮かび上がった。


「あれは大仏だね。昔なかに入った事があるんだ」


 映っていたのは有名な大仏だった。駅から意外と遠く、しかもバスを逃してしまったので、頑張って走ったのを覚えている。これも、小さい頃の話だ。


「中に入れるんだ! 暗そうだね」


「ハハ、そうだね。ところで……」


「ねえねえ! あっちはなに?」


 状況を尋ねる機会を失い、彼女の好奇心が赴くまま、俺は映ったものについて答えることになった。昔見た映画。シーバス。お神輿に参加したお礼にもらったたくさんのお菓子。そして、小学生のころに授業をサボって友達と作った、山の中のひみつきち。


 ――違和感がついに具体化したのは、この時だった。映る映像はすべて、碩子が知るはずがなく、そして俺が知っているものばかりだった。それだけじゃない。穴に映る光景はすべて、昔の俺が見ていた光景そのものだったのだ。


「ねえ」


 碩子の笑顔は変わらず可愛いのに、俺はそれが恐ろしく思えた。


「宅見がいちばん見たかったのは、あれ?」


 もう一つ、違和感に気づくべきだった。穴ができるのは、碩子が指を差した後だったのだ。チクリ。頭の中で、なにか刺さったような感じがした。そうして映ったのは、今度は映像だった。ちゃんと声も聞こえた。大事そうに玩具を抱えた小さな手と、微笑ましそうに見守る二人の男女が映っていて。


『『宅見、お誕生日おめでとーう!』』


 それは、三年前に事故で亡くなった、俺の両親だった。


「よかったね、宅見。ちゃんと思い出せて。僕も一回、宅見のお父さんとお母さんが見たかったんだ」


 映像を邪魔しない位置に移動して、碩子が微笑んだ。


「僕にはそういうの、ないから」


 ますます、彼女のことが分からなくなった。


「き、きみは……きみはいったい……?」


 喉を通って出た声は、自分の声じゃないようだった。不意に両親を見た嬉しさと、状況のわからなさ、碩子への恐怖がごちゃ混ぜになっていて、今自分がどんな顔をしているのか、俺には分からなかった。


「もうわかってるでしょ? ここは、君の心の中の家なんだよ」


 碩子は、俺の疑問には答えてくれなかった。


「本当は、人間っていろんなことを覚えていられるんだよ。小さい頃の記憶から、大人になった後の、時間の流れが早く感じられるようになった後の記憶でも。ただ、思い出すことだけが、人間はとても苦手なの……僕は、それを手伝うことができるんだ」


 碩子は、セールストークのようにまくしたてた。まるで、自分が人間じゃないような話を。気づけば、碩子が目の前にいた。


「僕をいっしょに住まわせて」


 今、「君は人間じゃないのか?」と聞けば、「そうだよ」と回答される、そんな確信があった。だから俺は、別のことを聞いた。


「君が一緒に住んだら、俺はどうなる?」


「変わらないよ。君は君のまま。ただ二つ、僕は君に家賃代わりにできることがあるの。一つは記憶の蓋を開けること。もう一つ、君が嫌なことを、代わりにやってあげること」


 不意に、俺の指にもぞもぞと動く感触が走った。よく見ると、実際に動いていた。ならばやはり、彼女が言う事は、正しいのだろう。


「の、乗っ取られるのか……? 俺は、君に」


「君が嫌なときだけだよ。確定申告とか、自分でしたくないでしょ?」


 確かに。毎年その時期だけは憂鬱だった。


「ねえ、宅見。一緒に暮らそ?」


 ……その時の碩子の笑顔は、普段と変わらない柔らかい笑顔だった。気づけば、体重を預けてきた彼女を、俺は無抵抗で受け入れていた。


 彼女がその気になれば、俺の嫌な記憶をほじくり返すこともできるだろうし、強引に乗っ取ることができるのかもしれない。でも、そうしなかった。もしかしたら、本当に良いことづくめなのか。


 俺は宙を見上げた。星々は、俺を応援するように煌めているように思えた。ここが俺の家ならば、そうなのだろう。


「宅見……言って。一緒に暮らすって」


「俺、は…………」





 その時。宙の穴の一つに、新たな映像が映った。もしかしたら、さっきの穴の続きかもしれない。映像の中にはテレビがあり、その中で昔見ていたアニメが流れている。勇者ライババーンのライバル、ホルスドーンがちょうど悪堕ちしたところだった。


『お父さん、なんでホルスドーンはわるものになっちゃったの?』


 声変わりしていない幼い声に、父親は見ていた新聞を畳んで答えた。


『世の中にはね、都合のいいことばかり吹き込んで、相手をだまそうとする悪いやつがいるんだ。きっと、ホルスドーンもだまされちゃったんだよ』


 父親は、おもちゃこそ買ってくれるものの、俺が好きなものには関心を示さない親だった。だから今の言葉も、父親なりの倫理だけで考えたでまかせであった。


『そういう奴に勝つにはね。とにかく自分を信じる強い心が大事なんだ。宅見にはできるかい?』


『できるっ! お父さんのむすこだもん』


『よし、父さんとの約束だ』


 それは、でまかせから産まれた約束だった。今の今まで忘れていたので、何回破ったのかも分からない。それでも父は、三年前に他界するまで、誰かにほいほい騙されるようなことのない、頑固な親父のままだった。





「――いやだっ」


 気づいたら、それは俺の喉から出ていた。さっきまで怯えていたとは思えない声量で、出した自分が驚いていた。しかし、碩子もまた衝撃を受けたようで、彼女はよろめき、狼狽えながら数歩後ずさった。


「なんで。宅見……どうして?」


「………………っ」


 碩子の質問に、俺は答えられなかった。碩子を悪いヤツだなんて言いたくはなかった。なのに、拒絶を撤回する言葉も、俺は出せなかった。


「……そっか」


 彼女は悲しく微笑んだ。そこには邪な心はなく、ただ恋をし敗れただけの、普通の女性ひとのような顔だった。


「ごめんね」


 星空が弾け、視界が一瞬白く眩んだ。


 



 どれだけの時間が経ったのだろう。気づけば、俺は木製のボロい小屋の中にいた。天井には蜘蛛の巣が張っていて、どれだけ使われていなかったのか、俺には想像もできなかった。


 床を見ると、足元に一匹の虫が倒れていた。今までに見た事もないような、栗色でおぞましい姿をした虫だ。思わず、俺は右足を上げて踏みつぶそうとしたが、それが弱った身体で這い寄ってくる姿を見ると、とてもそうすることはできず、代わりに俺は踵を返し、同じく木製の弱ったドアを突き破って小屋を出た。


 小屋を出ると、幸いにもそこは知っている道に通じていた。川沿いの、あまり整備されていない細い土手道だ。俺はとにかく、今までの事を忘れようと忘れようと忘れようとして走り出した。ますます忘れることができなくなっていくようだった。


 あの虫が碩子の正体だったのだろうか。俺が一緒に住ませてやれば、彼女はああならずに済んだのだろうか。少なくとも、それが彼女にとっての幸せだったはずだ。今日の出来事は衝撃的に過ぎたが、それでも脳裏に浮かぶ彼女の姿は魅力的で、どこまでも俺の好きな人だった。


 碩子のことが好きだった。彼女に好かれる自分でありたかった。それと同じくらい、父に誇れる自分でありたかった。どうすればよかったのだろう。もっと時間があれば、考えが回っていれば、違った答えが出せたのだろうか。何も分からない。その機会は、とうに置き去りにしてしまった。心の中の家に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった。もう塞がらない。おそらく、ずっと。

 

 とにかく、疲れ果ててしまいたかった。早く眠りにつきたかった。一晩中寝込んで、足りなかったらもっと寝て。それでも辛かったら、いっそ引っ越してしまおう。俺は人のいない川沿いを走り続けた。視界端に映る夕日は、痛いほどに鮮やかだった。




【内なる家と碩子】 完



 

 






 


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