第30話 草野球

 約束の日曜日の午前十時頃、僕は学校から程近い運動公園の中にある野球場にいた。


「よしラスト、安相君いくぞ!」


「は、はい」


 バッターボックスに立つ四十歳くらいのおじさんがレフトの定位置あたりにいる僕に向かってボールを高々と打ち上げた。一瞬前かと思って前に走ってしまったが意外と伸びが良く、急いで後ろに走り出すがボールは僕の頭の上を越えて地面に落ち、転がり始めた。


「何してる安相! 追え!」


 キャッチャーの位置にいる須藤先生が大声で僕を叱咤した。


「すみません!」


 ボールは転々と転がりフェンスにぶつかって止まった。僕はそのボールを拾い上げて須藤先生のいるホームを向く。百メートルはありそうだったが途中三十メートルくらいのところで手を挙げて待ってくれている人がいて、その人に向かって思い切りボールを投げた。


 投げるときに指が少し引っかかってしまったがギリギリノーバウンドでその人に届き、そのままその人は矢のような軌道のボールを須藤先生に投げ込んだ。


「おーさすが。まだまだ衰えてないねえ」


 周りのおじさんたちは笑顔でその人を讃えた。「よっ肩だけは甲子園級」とか「四十肩は程遠いな」とかいじられている様子からその人の高校時代が思い浮かべられる。


「よーしノック終了! 少し休憩して試合いこうか!」


 ノックをしていたおじさんが号令をかけると内野や外野にいたおじさんたちが皆ベンチに引き上げていく。僕も一緒にベンチまで走った。


「おう、お疲れ」


 須藤先生がスポーツドリンクが入ったペットボトルを渡してくれた。二人並んでベンチに座り、グラウンドを眺めた。


「ありがとうございます。テニスとは軌道が違うから距離感がつかみにくいですね。前かと思ったら全然後ろでした」


「まあ初心者は皆そんなもんだ。いや、競技歴が長くなってもミスる奴はいるが」


 僕は須藤先生と一緒に西高野球部卒業生の集まりに参加していた。卒業生が多すぎるためだいたいの年代で区切っていてこの集まりは須藤先生と同じくらいの年代、つまり四十代が中心だそうだ。


「面談の後から今日までの間、色々聞いたり調べたりしました。心さんはお父さんに捨てられたと言っていて、お母さんにも嫌われて捨てられたくないと。あと、確証はないんですけど、心さんのお父さんの名前はもしかして滝という人ではないですか? 先生の一つ年上で、野球部のピッチャーだった」


「……まことさんのことまで、いったいどうやって調べた? 三春先輩が教えてくれるとも思えないし、お前がこんなことを三春に聞くとも思えない」


「卒業アルバムとか文集でちょっと。その言い方をするってことはそうなんですね?」


 須藤先生は無言で頷く。


「教えてくれませんか? 三春さくらさんのことと、滝真さんのこと」


「知ってどうするんだ。三春が何か問題を抱えているのは分かるが、家庭のことだろう。家庭のことには教員である俺ももちろん、友人であるお前もそう簡単に関わっていいものじゃない」


「心さんは僕に助けて欲しいって言ったんです。自分の中に矛盾した感情があるから、それを何とかして欲しいって。それに教えてくれないならどうして僕をここに呼んだんですか?」


「それは……」


「久しぶりだな、須藤」


 言葉を濁す須藤先生に声をかけたのは先ほどのノックのときにはいなかった男性だ。いつの間にか僕らの目の前に立っている。銀縁の眼鏡をかけ、ジャージ姿なのに清潔感と清涼感を存分に振りまく端正な顔立ち。あの頃から眼鏡が加わっているが一目見ただけで分かった。


「真さん……来てくれないのかと思った」


「遅くなって済まない。朝早くは用事があって、でも遅れはしないと思って連絡しなかった。結局時間がかかって遅れてしまった。申し訳ない」


 この人が滝真。心さんの父親だ。優しそうで、賢そうで、物腰柔らかそうなこの人が心さんを捨てた人だなんて信じられなかった。


「こちらの少年は?」


「俺のクラスの生徒です。ある事情があって連れてきました」


 そういうことか。須藤先生は諸々の事情を知っていても立場上教えられないが、当事者から直接聞くのは関与しないということだ。それで滝さんが草野球に参加するこの日に僕を連れてきた。


「ある事情?」


 いきなり聞いていいものなのか。初対面で離婚のことや子供を捨てたことなんかを聞くのはあまりにも失礼ではないか。でもこのチャンスを逃したらきっと二度目は来ない。そうなれば心さんを助ける手掛かりは大幅に少なくなってしまう。


「真さんに聞きたいことがあるみたいで、すごく失礼なことを聞くかもしれませんができる範囲でいいので教えてやってはくれませんか」


 須藤先生は立ち上がり、滝さんに頭を下げた。滝さんはその姿にたじろいだ。


 須藤先生が背中を押してくれている。ここで引くわけにはいかない。僕も立ち上がる。


「おいおい、そんなことするほど大事なことなのか……まあ答えられることなら答えるけど、そもそも君はいったい何者なんだ?」


「僕は安相類といいます。ここ……」


「安相類? 今、安相類と言ったね」


 滝さんは僕の両肩を掴み僕の顔を見つめた。どうやら僕の名前を知っているようだが、僕には心当たりはない。


「あの安相君が須藤の教え子になっているとはね。なんという巡り合わせだ」


「……巡り合わせはそれだけではないですよ真さん」


「え?」


「滝さん。僕は……三春心さんやさくらさんのことについて知りたいんです。失礼なことは重々承知でお願いしています。どうか教えてください。心さんは僕と同じクラスの……大事な友達で、今すごく悩んで、困って、つらそうで、助けてあげたいんです」


 滝さんは驚きはしたもののすぐに悲しげな表情に変わり、立つ力を失ったように僕の左隣に座り込んだ。うつむきながらため息をついて、小さく言葉を紡いだ。


「安相君、君は僕にとってある意味運命的な存在かもしれないな。君はどこまで知っている? 心の力のことは?」


 僕は頷く。須藤先生は僕の右隣に座り怪訝そうに僕らのやり取りを見つめる。


「そうか、なら話は早い。須藤も聞いておきなよ、担任なんだろ? あの子の生き様を見守るために大事なことだ。さあ安相君、何が知りたい?」


「聞きたいことは二つ。一つは、心さんはお父さんに捨てられたと言っていました。それが本当なのかということ。もう一つは、さくらさんは心さんに男は必要ないと言って、男女交際を厳しく禁止して、一人でも生きていけるようにと東大を目指すように言っています。この理由について心当たりがあれば教えて欲しいです」


 滝さんは目を閉じて小さく息を吐いてから遠くを見つめながら話し始めた。


「そうだな、どう話そうか。さくらと出会ってからこれまでの僕の人生を話したら分かるかな」


 そう言って滝さんは自らの半生を語り始めた。淡々と、でもたまに悲しんだり自嘲気味に笑ったりしている。グラウンドでは試合が始まっているが、重苦しい僕らの雰囲気を察してか僕ら抜きで始めてくれたようだ。

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