「皇妃候補」なんて不敬はお断りです!

街角しずく

第1話

 カンカン、と遠くで警鐘音が鳴り響くのを一人の侍女が耳にする。城で一番大きい門が開くのだろう。その音を聞いて急いで彼女は持ち場へと戻った。


 ☆ ☆ ☆


 ドラガオン帝国。世界に名を轟かす大帝国で、かつて竜人族のドラガオン一族が興し、現在では多種多様な人族が混じり合い暮らしている国家だ。

 熊の特徴が顕著な熊人族。翼の生えた翼人族。山羊の目をした羊人族――など沢山の人種が暮らす中で、平凡な見た目をしている人種がいる。


 猿人族。彼らは他の人種と違い、体内に魔力を持たない人種だが、持ちつ持たれつ、お互いに尊重し合って生きている。


 ☆ ☆ ☆


 広大な敷地の帝城内。その奥に位置するのは皇后のための宮と、後宮。妃のための宮である。

 お仕着せを纏った一人の女性が足早に、しかし走って身だしなみが乱れないよう丁寧に洗濯物を抱えながら歩いていた。彼女はエルゼ・スフィレア・ハートラット。子爵令嬢だ。


 皇后のための宮、通称白金宮と呼ばれる場所で働く彼女はなるべく人目に付かないような通路を選んで通りながら、目的地の扉を開けた。


「遅いわスフィレア! 何をしていたの。警鐘が聞こえなかったかしら?」


 開けて早々怒鳴り付けてきたのは、目尻の皺が目立ち始めた初老の女性・エリーナ。皇后付き侍女であり、白金宮のみならず皇帝の執務室がある柘榴宮、いや帝城中の侍女やメイド全てを纏め上げる侍女頭。


「申し訳ありませんエリーナさま。ランドリーを出たところで、メメルさまに……」

「メメル? 全くあの子は、お喋りが過ぎるのよ。ほらほら早く支度をしなければならないのですよ」

「はい」


 先程エルゼ・スフィレアは、白金宮にいるランドリーメイドからふかふかに干されたタオル類を受け取りに行っていたところであった。その直後「お喋りメメル」と言われるほどにお喋りが大好きなメメルというメイドに捕まり、ようやく解放されたところだった。


 支度が遅れることにおかんむりの侍女頭は不透明な赤い石を手にして、四角い魔道具の側面に付いている打ち金にカンッカンッと叩き付ける。そのまま中に入れてタオルの上に置いた。

 すぐにポンッと弾ける音が響き、ふかふかだったタオルは温かく蒸されている。

 生来の魔力量が微弱、という特徴のある猿人族に産まれたエリーナやエルゼ・スフィレアは、他の種族と違い「魔道具」が無ければ魔法は使えないため依存する者が多い。高価なものから安価なものまでピンキリだが、帝城では当然のように最高峰の魔道具師が作るものを使えた。


「さきほど早馬が参りました。もうすぐお越しになられるとのことです。……全く、もう少し早めにして頂けないと陛下のお支度が調いませんわ」


 ぷりぷり怒りながら豪奢な通路を歩く二人。エルゼ・スフィレアの持つお盆に、蒸されたタオルが入っている。


 皇后の住まう白金宮に勤める侍女やメイドは、みな不透明な白を基調としたお仕着せを纏っているのだが皇后付きは違う。

 皇后の側仕えだと一目で分かるように、髪色でありイメージカラーの水色を基調としたものを纏うエリートの証を羨望の眼差しが見つめてきた。


 荘厳な装飾がされている周囲よりひときわ目を引く扉の横にある、質素なそれを開けて中に入る。皇后の私室に繋がる、侍女やメイドの控え室。コンパクトなその部屋で最後の身だしなみチェックを簡単に済ませ私室への扉を開けた。


「(いつ見ても凄いなぁ)」


 感嘆の溜息が出てしまうくらい華美で豪奢な作りの部屋。天井で光り輝くいくつものシャンデリアを始めとして、そこいらの権力者さえ許されない贅の限りを尽くした皇族の私室。

 広々とした執務机やソファなどが置いてあるが宮の主人はそこにはいなかった。エルゼ・スフィレアがランドリーメイドのところに行くまでは机に向かって何やら手紙だか書類だかを片付けていたはずなのだが。


「エリーナさま、皇后さまは……」

「こちらで少しお休みになりたいと」


 寝室のドアを開けると、キングサイズよりも巨大な天蓋付きのベッドが目を引いた。普段は纏められているシルクのカーテンは閉じられていて、中に横たわる影が映し出されている。


「陛下。我らが道標、皇后カロス=アネモスさま。おはようございます」


 エリーナがカーテンを開く。そこにはまるで芸術作品のように美しい女性がスウスウと小さく寝息を立てていた。

 優しげで、母を揺り起こす子供のように甘く囁く侍女頭の背後に控えているエルゼ・スフィレアは、皇后の輝く水面のような水色の髪と同じ色をしたけぶるような睫毛がゆっくりと持ち上がるのを見る。


「ん……えりー、な?」

「はい陛下。エリーナはここに」


 竜人族の名に相応しいまっすぐ伸びる角は鳥の羽のようにふわふわとしていて、腰から生える水色の尻尾はぱたぱたと先端だけが気怠そうに動いていた。


「何かあったの?」

「はい。皇帝陛下がこれからいらっしゃるとのことで、お支度を」

「陛下が? もう視察を終えたの」


 起き上がった皇后カロス=アネモスは目を擦って、くああ、と小さな欠伸をした。ぎらりと光る牙がむき出しになる。

 パウダーデスクに向かう皇后へエルゼ・スフィレアが蒸しタオルを差し出し、エリーナはオーク毛で作られたブラシを手にして髪を梳き始めた。


「お衣装はいかがなさいますか?」

「いつものでいいわ」

「畏まりました」


 白魚のように細くしなやかな指がウォークインクローゼットに向く。手慣れた様子でエルゼ・スフィレアが取り出した。


 ラウンドネックで、薄い水色のオーガンジーで作られた足の甲まで隠れるドレス。

 肩からトレーンにかけてたなびくシルクで出来たシフォンのレースマント。

 角を派手に見せないよう、しかし存在感は感じられるように、立体感のあるティアラで頭部を飾る。美しい顔は皇帝の命令で深紅のベルベット生地の面布と、同じ素材の手袋を身につけた。


「ああ、お美しゅうございます陛下。陛下の髪と同じ色を纏うお姿……いつ見てもお綺麗でお似合いです」

「あなたはいつもそう言うわねエリーナ」

「幼少の頃よりの思いでございます皇后様。何をお召しになられてもお似合いですが、やはりこのお衣装がしっくりと」


 にこにこと微笑むエリーナとエルゼ・スフィレア。

 コンコンと扉がノックされ、エリーナが反応しエルゼ・スフィレアは扉に近付いて「どなたですか」と尋ねた。


「パーラー室長のカローンです。皇后さまに皇帝陛下がいらっしゃいましたことをご報告致します」

「畏まりましたカローン夫人。お伝えします」


 パーラーメイドたちの長、カローン夫人の言葉を正確に伝えるエルゼ・スフィレア。振り返ると頷くエリーナが。

 皇后専属の近衛兵たちが豪奢な扉を開け、皇后カロス=アネモスが歩き出す。


 白金宮のパーラーメイド、侍女たちが、ダンスパーティが開けるほど広大な宮の玄関ホールにずらりと並んだ。皇帝を出迎える彼女たちと皇帝が引き連れてきた近衛たちが最敬礼を示す。


「皇后陛下がご到着されました」


 粛々と告げられた言葉に紅髪の男が反応した。ドラガオン帝国皇帝、プログス=マレ。現れた妻に大股で近付くと、カーテシーで頭を下げた皇后カロス=アネモスを思い切り抱きしめ、頬ずりをする。

 驚いた様子の皇后が抱きしめ返してすり寄った。


「陛下、もう視察は宜しいの?」

「信頼のおける何人かは置いてきた。何かあれば連絡が来る」

「まあ……きちんと仕事をしない人は嫌いよ」


 面布を口元までめくり上げた皇帝は周囲の目を気にすること無くキスをする。切れの長い涼やかな目元を愛おしげに緩ませる皇帝は、皇后の「嫌い」の言葉に途端しゅんと大人しくなった。つん、と唇を尖らせる皇后カロス=アネモス。気高く堂々と皇后を待っていた男の姿がそこにはなく、妻に嫌われたかも知れないとあわあわしながら弁明を口にする、尻に敷かれた夫だけがいた。


「スフィレア、覚悟なさい」

「え?」

「皇后様は一度へそを曲げると長いわよ。少し頑固なところがあるから」


 よく見るとその場の全員が皇帝に白い目を向けている。気付いていないのは妻への弁明をする男だけ。抱きしめたまま言い訳を続ける皇帝と、抱きしめられたままそれを聞き続ける皇后。

 眉を下げてエルゼ・スフィレアは誰にも気付かれないよう仕方なさげに微笑んだ。


「(知ってます。だって昔から、は頑固だったから)」


 エルゼ・スフィレアには記憶がある。かつて、同じ名「エルゼ」として生きた記憶が。皇后の良き友人として接し、良き侍女として仕えたその記憶は、今では遠い。

 皇后カロス=アネモス。本名、ルナ・カロス=アネモス・プラティナ・ドラガオン。「エルゼ」の大切な友人は昔とガラリと変わった雰囲気の中、変わらぬ笑顔で皇帝とともにいた。

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