墜星マリンスノー

NOZZO

墜星マリンスノー

 まだ私には三分以内にやらなければならないことがあった。


 彗星が墜ちて、私たちの世界が終わるまでのほんの三分間。

 目指す高台にたどり着いた後に残される時間は、どう計算してもそれしかない。

 全体重を乗せて自転車のペダルを漕ぎながら、私は必死に頭を巡らせる。


 ほんの一言。目の前で息を切らして坂を登る彼女に、ほんの一言告げるだけだ。

 大丈夫、間に合う、難しいことなんかじゃない……本当に?

 疑う気持ちを置き去りにして自転車を走らせ、私はただ前を見続ける。

 今はまだ空を見上げたくなかった。彼女の後ろ姿を、目に焼き付けていたかった。



               ▼  ▼  ▼



「それじゃ、世界が滅びる前にまた会おうね」


 美人で奔放で落ち着きがなくて放っとけない私の幼馴染、九條くじょうイサナがそう言って手を振った時にはまだ、世界の終わりなんてものはずっと先の話だった。

 だから私、その月の眩しさに目をやられたスッポンこと烏間からすまホタルにも、「洒落にならん冗談はやめなよ」と苦言を呈しつつ手を振り返すくらいの余裕はあったのだ。


 冬に入ってすぐ、地球に接近しつつある彗星が地表への衝突コースを取っていると判明して、それからの世界は地獄の釜をひっくりかえしたかのような大騒ぎだった。


 衝突予測地点はどこかの砂漠らしかったけど、直撃すれば半径100キロくらいのクレーターができて、地震と津波のあとには巻き上げられた粉塵で太陽が遮られて、核の冬が来るんだそうだ。核戦争じゃないのに核の冬は変でしょって思ったけど、テレビはそのフレーズが気に入ったのか、みんなネットミームみたいに繰り返していた。


 とにかく、それが分かった後は自棄になった人たちが暴動に走ったり、徹夜のカラオケ明けで考えたみたいな名前の新興宗教が出てきたり、彗星誘導装置を開発した政府の陰謀だとかインフルエンサーが動画サイトで騒いだりと、もう世紀末一歩手前って感じだったんだけど、その狂騒は割とあっさり収まった。科学の進歩は凄いもので、接近した彗星はほぼ確実に大気圏外で爆破することが可能なんだそうだ。


 それもう映画じゃんって私は思った。世界中の人たちもたぶん同じ気持ちだった。


 で、その爆破作戦の決行日が今日だったんだけど、学校は別に休校にはならなかった。世界を破滅に導くはずの彗星は、暴風警報以下の扱いになってしまっていた。

 だから私も気が抜けちゃって、イサナの不謹慎な発言に突っ込みを入れてから手を振って別れて家に帰って、そこでようやく何かがおかしいことに気がついた。

 うちの母は細かいことを気にするタイプで、テレビの点けっぱなしなんて許さないはずなんだけど、私が帰ってきた時、母は食卓でひとり頭を抱えて震えていた。

 何を訊いても応えない母の代わりに、点いたままのテレビが何かを喚いていた。


 結論から言うと。


 例の爆破作戦は、しょうもないヒューマンエラーで失敗したらしい。

 そしてその失敗で彗星の軌道がずれて、落下予想地点は日本列島になったらしい。

 今日中には本州の六分の一が蒸発して、残りは衝撃波で更地になるんだそうだ。


 なにそれ。


 ニュースキャスターはほとんど半泣きで聞き取るのがやっとだったけど、どうやら終わりの時は思ったよりも唐突にやってきたようだった。作戦失敗を招いた技術者は呵責に耐えかねて命を絶ったらしいが、誰もそんなことには関心を向けていなかった。人の命は地球より重いってよく言うけど、人の命ひとつをなげうったところで別に地球が救われるわけではないってことに、私は少しだけがっかりした。


 だけど、すぐに人生の終わりが来るって割には、私は案外落ち着いた気分だった。

 単純に急すぎて実感が湧かないっていうのもある。真面目な母が普段の面影もないくらいに取り乱していて、逆に冷静になってしまったっていうのもある。

 ただそれ以上に、私は今日死んだとして、そんなに惜しいものはないなって思ってしまったのだ。なにかはっきりした将来の夢があるわけじゃない。部活とか勉強に打ち込んでたってほどでもない。学校に通っていたのは行かないよりはまだマシくらいの感覚で、日々の日課は授業中にイサナの横顔を眺めるくらいのものだ。


 ……イサナ。


 九條イサナとは幼稚園の頃から一緒だけれど、平々凡々なスッポンの私とは違って、彼女は生まれながらの月だった。運動神経は小さい頃から抜群だったし、学力自体は私より気持ち上ぐらいだけど、頭の回転が速くて要点を掴むのが得意だった。学年上位の常連になってないのは、イサナにそこまでの熱意がなかっただけだと思う。


 イサナは見た目にも華があった。昔から整った顔立ちだったけど、背が伸び始めてからは一気に大人びて、誰もが認める美人に成長した。だけどルックスに反して屈託なく笑うから、大型犬みたいな印象で、美貌が嫌味にならないずるさがあった。


「ホタルもさ、もっと笑ったらいいじゃん。そしたら更に可愛いって、絶対」


 その話を本人に直接言ってみたら、返ってきた言葉がこれだ。美人の言う「可愛い」は「まぁ私が可愛いのは前提として」みたいなニュアンスを感じて、かえってナメられてるような気がするのだが、彼女に限っては本気かもしれないから困る。


「そういうセリフ、本命の相手に取っといたほうがいいんじゃないの」

「本命って、変なの。ホタルってさ、理数系志望の割にはロマンチストだよね」

「理数系は関係ないでしょ理数系は」


 何層にも積まれた偏見のミルフィーユに思わず顔をしかめたが、彼女はきょとんとした顔でこちらを見ていた。悪気はないのだ。こういうやつなのだ、こいつは。


 言ってみれば、九條イサナの屈託の無さは、満ち足りた人間だけに許された余裕と表裏一体だった。その純粋さは、彼女の心を傷つけるようなこの世の残酷さを、生まれ持った才覚によって退けてきた証だった。学校という閉鎖社会で上っ面の協調性と猜疑心ばかりを育ててきた私には、それがたまらなく眩しくて、時折苛立たしい。


 そんなイサナは、どういうわけか昔からずっと私に懐いていた。顔と発育が良いだけで中身は犬みたいなものだから、文字通り「懐いていた」が正確な表現だろう。


「ホタルといる時が一番落ち着くんだ、あたし。肩肘張らなくていいっていうかさ」


 私と二人だけの時、イサナは時々そんなことを言う。そこまで周りに気を遣って生きてないだろっていう突っ込みは飲み込んで、いつも私は素っ気ない風に返事する。


 だけど私のほうも、自由奔放で好奇心旺盛な彼女は見ていて危なっかしくて、何かと世話を焼く羽目になっていた。飼い主を気取るわけじゃないけど、手綱を離したらどこまでも走っていってそのまま迷子になってしまいそうなところがあったのだ。


 ……いや、違うか。本当は、イサナが私無しでも走れると知るのが怖かったんだ。

 仕方ないなって口では言いながら、私の心のどこかには、いつか彼女は自分を必要としなくなるって予感があった。あの才能があれば、きっとどこへでも行けるから。


 いつかあの子は私を置いてどこかにいってしまう。

 それがまさか、こういう形の別れになるなんて思わなかったけど。


 電気を消したままの自室で、私はベッドから半身を起こした。


 このままでいいんだろうか、と私は思う。世界の終わりが目前に迫っているとして、九條イサナとの最後の会話が、あんなろくでもないやり取りでいいんだろうか。


 例の彗星は、今日に至るまでは私にとってどこか遠くの話だったけど、あのニュースを聞いて以来、私が漠然と「終わり」について考えるようになったことは確かだ。

 終わりといっても、世界の終わりというよりは、私と彼女の終わりについて。


 そして、私は否応なしに自覚せざるを得なくなった。

 授業中、退屈そうに頬杖をつく彼女の整った横顔に、なぜいつも視線が吸い寄せられてしまうのか。そんな私の視線に気づいた彼女が、ニッとこちらへ歯を見せて微笑んだ時の、胸の奥底がざわつくようなあの感覚は何なのか。

 どうして、その微笑みがいつか遠くに行ってしまうと考えるのが怖いのか。


 全てが終わる前に、あの子に伝えないといけないことがあるのかもしれない。


 だけど、どうすればいいのだろう。

 携帯の回線はとっくにパンクして、災害緊急ダイアルすらろくに機能していない。

 そもそも呼び出してどうする? 彼女に残された貴重な時間を、私のために無駄遣いさせるのか? 私なんかにそんな大それたことをする権利があるっていうのか?


 私の思考がぐるぐる回って袋小路に迷い込んだ、その時だった。


「――ホタル! 一緒に彗星、見に行こう!」


 玄関先から、場違いなくらいに大きな、九條イサナの声が聞こえてきたのは。



                ▼  ▼  ▼



 道路はどこもかしこも、市外へ向かおうとする車でごった返していた。

 当然ながらそれらの車は一歩も動けず立ち往生して、そこら中でほとんど悲鳴に近い怒号が飛び交い、思わず耳を塞ぎたくなる。そもそもどこへ逃げるというのだろう。破壊の余波を免れる場所なんてありはしないし、運良く地上を離れたとしても、彗星衝突の衝撃波のほうが飛行機よりもずっと速いのだから。


 そんな混乱の波に呑まれないよう人通りのない道を縫うようにして、私とイサナはこの街全体を見渡せる高台を目指し、全力で自転車を漕いでいた。


 元々その高台にはこの地域を治めていたお殿様の居城が立っていたのだけど、第二次大戦の空襲で焼けた後は再建もされず、観光客向けの資料館が立っている以外は見どころのない場所になっていた。でも私は、そこからの眺めが結構好きだった。

 イサナも多分そうなのだろう。高台での記憶には、大抵彼女が隣にいた気がする。


「彗星、落ちてくるとこ見れるかな?」

「どうだろ……一瞬なんじゃないかって思うけど」


 なんて不謹慎な会話だ。だけど、どこか安心する気持ちが私の中にはあった。

 彼女が私の家の前まで呼びに来た時、私はきっと、出迎えてくれるのがいつもの九條イサナであってほしいと思っていたんだ。思いつきと好奇心で無自覚に私を振り回しながら、躊躇いなく前へ引っ張って行ってくれる、そんな彼女であってほしいと。

 だから今、私は安心している。こんな時なのに。本当にしょうもないやつだ、私。


「これでさ、終わっちゃうのかな、世界って」


 いつもの屈託のない口調で、イサナが問いかける。自転車を飛ばしながら、よくもまあ普通に喋れるものだ。どう返そうかと一瞬迷ったけど、彼女はきっと気休めとかそういうのが欲しいわけじゃなく、ただ知りたいのだろうと思った。

 私はペダルと同じくらいに脳を回転させてから、言葉を選びつつ答える。


「人間の世界は、終わるかもね。こんなの、恐竜が滅んだ時と同じでしょ」

「人間の、って?」

「彗星が落ちて、地球がどこもかしこも滅茶苦茶になっても……ほら、深海魚なんかは生き残るんじゃない? 恐竜が絶滅しても、シーラカンスは無事だったみたいな」 

「それじゃ、これからは深海魚の世界だ」

「一万年くらい経ったら、深海魚の文明ができてるかもよ」


 私がなんの気無しにそう言うと、イサナはおかしそうに笑った。


「やっぱりホタルのそういう、ロマンチックなとこ大好き」

「うっさいな、もう」


 本気で言ってるんじゃないからね、と思わず言い返しそうになる。いつもの会話。今まで何千何万と繰り返してきたはずなのに、今はその一瞬一瞬がいとおしい。


 軽トラの荷台に家財道具を載せようと四苦八苦している老夫婦を横目に、私達は自転車を飛ばしていく。高台に近づくにつれ人通りは減って、おかげで走りやすくなるのはいいのだけれど、登り坂はただでさえ少ない私達の時間を奪っていく。

 何度も通ったはずの見慣れた道が、こんなにも長いものだったなんて。

 私を息を切らせながら、彗星衝突のタイムリミットまでの猶予を計算する。


 このまま無事に、高台へたどり着いたとしても。

 私達に残された時間は、せいぜい三分くらいしかないんじゃないだろうか。

 その三分間で、私に何ができるだろう。何を、伝えられるんだろう。


 わずかに前を行くイサナの、ペダルを踏み込む動きに迷いはない。

 後ろの私が何を思い悩んでいるかなんて、想像もしてないんだろうな。そう考えるとなんだか無性に腹立たしくなってきて、でもその身勝手さがイサナだとも感じる。

 どうか最期の瞬間まで、私の考えが及ばない九條イサナであってほしいと思う。

 身勝手なのは私のほうか。まったく。


「ペース落ちてるよ、ホタル! 間に合わなくなっちゃう!」

「私は、生物部だし、インドアだから! あんたとは、違うの!」

「へへー、こんなこともあろうかと、日々テニス部で鍛えてましたから!」

「別に、褒めて、ない!」


 なんで嬉しそうなんだよ。私にまで気持ちが伝染るから勘弁してほしい。

 でも、こんなことになるなら、もっと日頃から運動しておいたほうがよかったのかもしれない。そうすれば三分といわず、もっと長い時間を一緒に過ごせたのかも。

 今更言っても仕方がないか。私にとっては息を上がらせながら無心に自転車を漕ぐこの瞬間だけがすべてで、その等身大の自分で少しでも悔いなく生きるしかない。


 ガードレールに沿ってハンドルを切ると、鬱蒼と茂る木々が見えてきた。

 ここまで来たらあと少しだ。悲鳴を上げる両足に鞭打って前を睨みつける。

 ブレーキもかけずに山道へ入ると、程なくして高台に続く石段が目に飛び込んでくる。その最下段ぎりぎりで自転車を乗り捨てて、私たちは階段を駆け上がった。こんな世界最後の日に、路上放置なんかでとやかく言う人もいないだろう。

 両側から大きくせり出す木々の枝に遮られて、まだ夜空は見えない。

 見えるのはてっぺんまで続く白い段々と、一歩先を行くイサナの背中だけだ。

 あと少し、ほんの少し。

 私たちに残された時間もまた、あと少し。


「着いた……!」


 イサナが口を開き、直後に視界が開けた。

 いつもと変わらない星空の真ん中で、世界を滅ぼすほうき星が輝いている。



                ▼  ▼  ▼


 イサナは空を見上げながら、上着を脱ぎ捨てた。

 下に着ていたのは体の線が出るニット地で、形の良い大きな胸が強調されている。いつもの私なら苦言のひとつも言ってやる場面だけど、今はそんな時間も惜しいし、何より私も暑くて仕方なかった。後を追うようにコートを投げ捨て、深呼吸する。


「彗星、赤くなってないね。ほら、摩擦熱でさ」

「あれ摩擦熱じゃないよ、断熱圧縮。押し潰された空気が発熱してるの」

「ふーん、さすが生物部」

「いや関係ないし……」


 彗星が大気圏に突入してから地球に衝突するまで数秒くらいだろうから、どのみち赤くなっているところを呑気に眺める余裕はない……なんて、そんな話がしたくてここに来たわけじゃない。もっと話したいことがあったんだろう。しっかりしろ、私。


 私たちはどちらともなく、彗星が見える方角の手すりまで駆け寄った。

 高台の下はコンクリートで固められた崖みたいになっていて、身を乗り出したら転落してしまいかねないけど、どのみち最期の時が三分早まるかの差でしかない。

 私たちは並んで手すりに指をかけて、ふたり一緒に天の光を見つめた。


 あの彗星までは、よく知らないけど数百キロくらいは距離があるのだろうか。

 隣のイサナまでは、肩が触れるか、触れないかくらいの距離しかない。

 だけど今の私にとっては、彗星よりも彼女までのほうがたまらなく遠く感じる。


 何か言わなければいけない。そのためにここに来たんじゃないか。

 こうしている間にも、刻一刻とタイムリミットは迫り続けている。

 私たちが私たちでいられる時間は、もうわずかしか残っていないのだ。

 なのに、それを分かっているのに、喉がひりついて何も言葉が出てこない。


 自棄になりかけて大きく息を吸ったその時、イサナの手が私の手に重なった。

 心臓が跳ねる。そんなはずはないのに、私の心が見透かされたと錯覚してしまう。


 だけど私を見つめるイサナの瞳は、今まで見たことがないほど揺れていた。

 いつもなら思わず惹きつけられてしまう、その唇が動く。

 きっと聞きたくないことを言うに違いないのに、それでも私は耳を塞げない。


「ほんとはさ、怖かったんだ。世界が終わるかもって時に、独りぼっちなのが」


 やめて。やめてよ。なんでこんな時になって、弱い自分をさらけ出してくるの。

 そういう感じじゃなかったでしょ、九條イサナは。ちっぽけな凡人の私とは違って、いつも自信満々で私を振り回して、それを少しも悪びれる様子がなくて。

 そんなあんたが私には眩しくて、憎らしくて、なんでこんなやつに気に入られてるんだろって思って、でも嫌じゃなくて、だからこうしてついてきたんじゃない。


「嬉しかった。ホタルが、何も言わずにあたしと一緒に来てくれたこと」


 今までもずっとそうだったでしょ。私が今更、あんたの誘いを断るわけないでしょうが。何を特別なことみたいに言ってるの。そんなんじゃ、そんなんじゃない。

 突然しおらしくなるな。今までみたいに身勝手なあんたでいてよ、お願いだから。


「ごめんね、迷惑だったかもしれないね。でも、それでもあたしはホタルと――」


 謝るな、謝るな、謝るな!

 私が人生最後の瞬間に見たかったのは、そんな弱々しいあんたじゃない。

 まるで無敵みたいに笑って、地を這う凡人に格の違いを見せつけて、私はそんな姿を見て呆れながら、やっぱりイサナは特別だって、そう誇りたかったんだ。

 これ以上彼女に言葉を続けさせちゃいけないと思った。でもどうしていいか分からなかった。こんな時に限って私の口は回らなくて、悪態のひとつも出てこなかった。


 だから、これはもう、本能だった。

 私の利口ぶった頭ではなく、烏間ホタルという体が、考えるより先に動いていた。

 今の自分が力一杯イサナを抱き寄せていると気付いたのは、一瞬後のことだった。


 彼女が息を呑むのを、耳元で感じた。

 どうしてこんなことをしたのか、自分でも分からなかった。

 ただ、熱を伝えたかった。

 あの彗星がもたらす数千数万の灼熱よりも、今あなたを抱きしめている私の心の奥底のほうが遥かに熱を持っているってことを、思い知らせてやりたかった。

 彼女の胸の膨らみ越しに、その鼓動を感じる。同調して、解け合うような感覚。

 同じように私の鼓動の高鳴りも、彼女に伝わっているのだと信じる。


「イサナ」


 睫毛が触れ合うほどの距離で、私は名前を呼んだ。

 彼女の潤む瞳がまっすぐに私の瞳を見つめて、その奥へと吸い込まれそうになる。

 考えてきた言葉は、すべてどこかへ行ってしまった。それでも私は口を開く。


「来世はさ。ふたり一緒に、深海魚になろうよ」


 声に出してから、自分の顔が耳まで赤くなるのを感じた。

 この最後の瞬間に、何を言っているんだ、私は。馬鹿なんじゃないか。

 イサナは虚を突かれた様子で何度か瞬きして、それからぷっと吹き出した。


「なにそれ、プロポーズ?」


 憮然とする私の顔が余計におかしかったのだろう、イサナは涙をこぼして笑う。

 こんなことを言うつもりで来たわけじゃなかったのにな、と私は内心でこぼす。

 でも、多分これでよかったのだろう。気取った言葉なんかよりは、ずっと。


 悔しいけれど、たぶん私はイサナの言う通り、どうしようもないロマンチストで。

 最期に見るのがいつも通りの彼女の笑顔であることが、たまらなく嬉しい。


 永遠のようで一瞬だった三分間が、もうすぐ終わる。

 イサナの細い両手が私の背中に回され、力を込められるのを感じる。

 私も負けないくらいに強く強く、どこへも行かないように彼女をつなぎ止める。


 夜空が、一瞬、赤く染まったように感じた。

 ついにその時が来たんだなって、そう思った。


 ぐっばい、天に召します何とやら。

 世界で一番綺麗に光るこの魂は、私が深い海の底へと連れていきます。

 もう二度と私たちは、空の光が届くところへ行くことはないでしょう。

 願わくば、次に見るのが深海に降り注ぐマリンスノーでありますように。



 世界に光が迫る。膨れ上がる力が、世界の終わりを告げる。

 だけどそんなものよりも、私たちには今ここにある鼓動のほうが力を持っている。

 人ひとりの命では、とても地球の重さとは釣り合わないかもしれないけれど。

 私と彼女が混じり合ったふたり分の命なら、あの彗星よりも輝くものだと信じる。


 閃光。


 彼女が私を抱きしめる。私も彼女を抱きしめ返す。


 ああ、あたたかい。






 

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