バッファロー予報士

太刀川るい

バッファローはどこへ行く

 岸田には三分以内にやらなければいけないことがあった。予報を出すのだ。


 どこまでも続く緑の草原で、バッファロー予報官の岸田は双眼鏡から目を離すと、バギーのハンドルを握った。

 助手席につけられた小型端末には衛星からの映像が映し出されている。


 岸田には予感があった。

 バッファローがやってくるのだ。

 すべてを破壊するバッファローの群れがやってくるのだ。


 すべてを破壊するバッファローの群れが街を襲った日のことを岸田はまだ覚えている。最初は土埃だった。土埃が遠く地平線に見えていた。それから地響きだ。低い地鳴りが次第に大きくなり、大人たちの顔色が変わった。岸田たちは、高台の学校に避難した。


 バッファローは普段大人しい生き物だ。彼らは草原に生き、セルロースの塊を反芻することで日々を過ごしている。彼らの1日といえば、ただ草をはみ、それを咀嚼し、腹の中で微生物を増やし、消化するそれだけのことだ。

 だが、一度なにかの拍子に走り出すと、彼らは止まらなくなる。極度の興奮状態に陥ったバッファローは、決して止まることがない。眼は血走り、呼吸は粗くなり、生まれたてのウミガメの子供が不眠不休で海を目指すように、なにかに取り憑かれたかのように駆けつづける。昼も夜も、その身を削り、力尽きて倒れるまで延々と走り続ける。体に蓄えられた栄養を使い果たしてもまだ止まらない。自らの肉体そのものすらエネルギーに変え、最後にはやせ細った幽鬼のような姿で草原にその身をさらす。


 岸田が避難所から街を見ていると、それはやってきた。大地を揺るがし、大気をに轟音を響かせ、濁流のようにバッファローが押し寄せた。

 先頭を走るバッファローは、一切速度を緩めることなく、建物に突進した。そいつはコンクリートの壁に頭を打ち付けて死んだ。赤い血が真っ赤な花のように散った。

 だが、その後ろから機関銃から射出される弾のように次々と迫りくるバッファローが、すべてを終わらせた。


 すべてを破壊するバッファローの群れはまるで津波のような圧力で押し迫った。血と脳症にまみれた壁は一瞬身震いするように震えると、一気に崩壊した。

 まるで決壊するダムを見ているようだった。倒壊したコンクリートの建物を、バッファローの蹄が踏みつけ、大地に埋め込んでいった。

 岸田はたまらず悲鳴を上げた。岸田が助かったのはほんの偶然。バッファローの進路にいなかった。ただそれだけのことだった。違う建物に避難した人々は全員大地に帰った。

 すべてが終わった後、岸田たちが外に出ると、彼の生まれ育った街は、重機でならしたかのような更地になっていた。


「十分に巨大なバッファローの群れは流体として振る舞う」

 岸田が最初に手に入れた教科書にはそう書いてあった。

 バッファローの群れの動きを予測することはできるのか。岸田は成長すると、そのことばかり考えるようになった。

 そしてであったのは、流体力学を応用したモデルだ。

 液体の分子とバッファロー、サイズは違っていても、起こっている現象は同じだというのだ。分子同士の反発力は、となりの個体と距離を取ろうとするバッファローの習性と同じとみなすことができる。バッファローは進行方向に引き寄せられる一種の流体。風の力をうけて動く水滴や、ホースから飛び出る水のようなモデルとして表すことができるのではないかという理論だ。

 実際にいくつかの記録では、バッファローはそのように行動した。だが、1つ問題があった。バッファローの群れは坂をかかけあがって進むことがあった。なにかに導かれるように重力的勾配を無視して彼らは進む。液体の粘性や速度といったパラメータを調節すれば、そういった動きを作り出すことは不可能ではなかったが、岸田には、現象に対して無理やり適合するモデルを作り上げているように感じられた。


 流体論を拡張して、プラズマの流体として捉える考え方も出た。バッファローの群れは極度の興奮状態になっている。これは電子と原子核が独立して動くプラズマのような状態に非常に近いのではないかというアイディアだ。考え方の出発点としては、似ているものを無理やり当てはめただけの珍理論に思えたが、電場に引き寄せられて運動するプラズマは確かにバッファローの群れに似通っていた。数年のうちは、このモデルである程度の予想はできたのだが、結局現実との乖離が生まれて使い物にならないことが分かった。


 量子的な確率論に着想を得たモデルも出た。バッファローは前方に進む確率が最も高いが、左右にぶれる確率も僅かながらある。それらの確率をかけ合わせたのがバッファローの進む方向だというのだが、一匹の個体が左右にぶれる確率が同様に等しいとすると、個体同士のズレはお互いに打ち消し合い、群れとしては真っ直ぐ進むしかないことからこの理論は早々と棄却された。バッファローの群れの動きは概ね目をつぶって引いた直線によく似ていた。細かく震えながら概ね同じ方向に向かっていく。だが、突然理由もわからず、大きく曲がることがあり、この理論では説明できなかった。


 大量のエージェントを用いて問題を解こうとするアプローチもあった。バッファローたちはお互いを認識している。隣の個体と相互に影響を与え合うセルオートマトンのようなものを作り、バッファローの動きを予測しようというものだが、計算量の割に予測の精度は正しくなかった。


 最後に残ったのは、バッファローの群れはランダムウォークである。という理論だった。バッファローの群れがどこに進むのかは本質的には完全なランダムで行われるというのだ。バッファローたちの進む方向は、その都度コインを投げて決めているようなもので、予測することは不可能だというのがその理論の帰着であった。


 実際の所、バッファローの群れは明らかに方向性を持っているので、完全なランダムウォークという説は明らかに間違っていた。しかし、確率的に概ね直進するモデルにランダムウォークの考えを一部取り入れると、それとなくバッファローの動きに近いものが生まれた。


 だが、その理論が意味を持つことはなかった。ランダムウォークであるというのは、結局「わからない」と言っているのと同じことである。理論をこねくり回した結果、予測不能だということが分かって何になるというのだろう?理論の限界を目の当たりにするだけだ。

 岸田は何度も何度もモデルを作ったが、そのたびに現実との乖離に打ちひしがれ、結局それ以上のモデルを作り上げることはできなかった。


 結局どこかで割り切るしかなかった。これは天気を予測するようなものだと、岸田は自分にいいきかせた。概ねの方向はわかるが、詳細な予想はできない。だが、それでも実用的な精度が出れば、問題ない。学校を卒業すると岸田は予報官になった。


 岸田はハンドルを握る。今日のバッファローの動きは危険だ。画面には、予報円が表示されている。この円の中に収まるようにバッファローは移動するのだ。

 進行方向にはちょうど集落がある。間違いない。岸田はマイクを握ると、警報を出すように指示した。

 警報を出すときにはいつも緊張する。もし外してしまったら、もしバッファローの群れが突然方向を変えたら……岸田はいつもその悪夢に苛まれた。

 かつての自分たちのように多くの人が死ぬだろう。

 岸田は車を動かしながら視界の端で端末を見続ける。だが、次の瞬間、岸田の口から悲鳴にも似た声が上がった。


 バッファローの群れが方向を変えたのだ。


 街は無惨な様子だった。昨日までの人々の生活全てが灰燼に帰し、更地になっていた。

 いたるところに落ちているバッファローの躯は、踏みつけられ、土砂と混じり、ほとんど原型をとどめていない。

 岸田はそれ以上その光景を見ていることができなかった。行方不明者の数を思い出したのだ。ほぼ間違いなくこの血と泥の中には逃げ遅れた人間も混じっている。

 運良く地下室に逃げ込めた人間は生き延びているだろうが、舗装路のように踏み固められた地面を掘り返すのは骨が折れそうだった。酸素が足りなくなる前になんとか掘り出そうと、近くの街からやってきた救援隊が必死で鉄のように硬い地面にスコップを立てていた。


 岸田は吐きそうになる気持ちを堪えて車に戻った。

 群れの端にいたのだろう。首だけ踏み潰されずに残ったバッファローが、車の近くに倒れており、光のない瞳で岸田を見つめていた。

 その顔を見ていると、怒りと虚しさと悔しさが入り混じった感情が岸田の胸を締め付けた。

 なぜ、バッファローの群れは方向を変えたのだろうか。岸田はぼんやりとした頭でそれだけを考えた。何度モデルを作り直しても、それをあざ笑うように、バッファローの群れは被害を出し続ける。すべてを破壊するバッファローの群れに挑むことなど、そもそも無謀なのだろうか。


 その時だった、岸田に突然、前触れもなく1つの疑問が湧いた。

 なぜバッファローは走りだすのだろうか?


 いくつかの説はあったものの、バッファローたちがなぜ走り出すのかは誰も答えられなった。

 ウイルス説、寄生虫説など様々な理論が考えられたが、どれもこれも決定打にかけた。進化の過程で、なぜこのような死の突進が発生するのかすらも分からなかった。

 例えば、取り憑かれるように川を遡るシャケは子孫を残すためという理由があるが、バッファローはそうではない。

 レミングというネズミのように、種の保存のために自殺しているのだという説は一時期主流だったが、そもそもレミングの自殺行動は捏造であったこと、また種の保存というオカルトめいた目的論は現代ではすでに誤りと認められた古い考え方であることなどから、間違いと言ってよいだろう。

 ウイルス説も寄生虫説も、病原体が見つかっていない以上、決定打に欠けていた。

 となると、有力なのはポジティブ・フィードバックであった。


 バッファローには、周囲に合わせて移動するという習性がある。人間だって一緒に歩く時には足並みが揃うのだ。

 ある個体が偶然なにかの調子で足を速めたとしよう。隣の個体はそれに合わせて足を速める。すると、それが、段々と群れ全体に広がっていく。大抵の場合、ランダムな挙動はお互いに打ち消し合って、さほど広がらない。しかし、偶然に偶然が重なり、臨界点を超えなら、群れ全体が疾走を始める。そうなると、彼らは全力で走りだす。パニックがパニックを呼ぶように、極度に興奮したバッファローたちは、すべてを破壊しながら平原を疾走するのだ。


 岸田はバッファローが走り出す確率をモデル化してみた。現実のバッファローの群れが疾走を始める確率に合わせて、計算をすると、パラメータの取り方によっては確かにそのような事象が発生することが分かった。さて、岸田は目を閉じて考えた。こんな計算式に意味はない。実測値から、理論に合うようにパラメータを調節しただけの可能性だってあるし、それを証明することは非常に難しい。だが、大切なのは証明することではない。もっと別のことだ。


 岸田はその考えに身震いした。恐れ多く、そして罪深い考えだと思った。だが、その考えは岸田に取り憑いて離そうとはしなかった。寝ても覚めてもそいつは岸田の耳元でささやき続けた。ある日目が覚めた時、岸田の覚悟は決まっていた。自分でもどうしてそうなったのか分からなかった。バッファローの群れが臨界点を超えて走り出したように、岸田の脳細胞も臨界点を超えたのかもしれない。そうして、岸田は予報官を辞めた。


 それから数十年の月日が流れた。


 検証はもう十分だった。岸田はデータをまとめると、罪を告白する準備に取り掛かった。


 岸田の告白を聞いた検察官は目を見開いた。

「つまり、あなたはこうおっしゃるのですか。バッファローの群れを操る方法を見つけたのだと」

「正確に言うと違います。一度走り出したバッファローの群れを操ることはできません。しかし、バッファローを走りださせることはできるのです」

 岸田のアイディアは簡単だった。バッファローがポジティブ・フィードバックによって走り出すのであれば、その臨界点を作り出せば良い。

 理論はあっても実行は難しかった。何年もかけた。毛皮だけを貼りつけた偽バッファローを動かすことで、群れをある程度動かすことはできたが、なかなか臨界点に達することはできなかった。

 だが、何度も理論を修正し、ついには高い確率でバッファローの群れを走り出させることができるようになったのだ。


 それは、神経細胞の発火によく似ていた。バッファローを巨大な脳細胞だと考えると、1つの細胞の発火がさざなみのように周囲に伝わり、やがて全体が発火して止まらなくなる。一種の脳の発作のようなものだ。または小さな燃えさしから広がる山火事だった。

 岸田がやったことは、言ってみれば、簡単なことだった。山火事を制御することはできないなら、定期的に山火事を引き起せばよい。定期的に小さな山火事が起こるのであれば、結局全体の被害は少なくなる。


 だが、それは紛れもない放火だった。人命を無視した実験だった。


「あなたの施行が、失敗し、多くの人に被害が出る可能性は考えなかったのですか」

「考えました。その上で実行したのです」

 迷いのない返答だった。


 岸田はデータを提出した。この数十年で、バッファローの群れが暴走する頻度は極めて大きく上がっていた。岸田によるものだ。だが、それに反比例して、被害は少なくなっていった。

 結果だけを見れば、岸田のやったことは正しいように見えた。だが岸田はそうではないと裁判で自らの非を糾弾した。

「例えば……地震があるとします。小さな地震を起こして、大きな地震を避けられるのであれば、そうするべきでしょうか?

 ただし、地震のメカニズムはまだ分かっていないし、小さな地震が破局的な地震を引き起こすこともあるかもしれない。私がやったのはそういうことです」

 裁判所は岸田を有罪とし、岸田はそれに従った。


 護送車の窓から、岸田は草原を見た。青い空と、どこまでも続く緑の大海原の中で、バッファローが草をはんでいる。

 なんとも落ち着く光景だった。

 岸田は満足げに目を閉じた。後悔などどこにもなかった。

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バッファロー予報士 太刀川るい @R_tachigawa

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