卒業に寄せて

伏目しい

卒業に寄せて

 高校生活は長いようで短く、あっという間に過ぎてしまったような気がします。

 この学校で学んだことは、きっと生涯忘れることはないでしょう。

 先生方、クラスのみなさん、三年間ありがとうございました。




 ここまで書いて提出したら、担任の中山先生から書き直すように言われました。

 理不尽です。全く納得がいきません。

 だって先生は原稿用紙を渡す時に、「一行でもいいから書け」と言いました。僕は三行も書いたのに、一体何がよくなかったのでしょうか。

 クラスの誰よりも早く書き上げたはずの原稿は、今、宿題として僕の目の前にあります。明日までに書き直さなくては、中山先生はさぞかしがっかりされて、僕を生活指導室まで呼び出すことでしょう。

 思えば、中山先生にはこの三年間大変お世話になりました。なぜか縁があって高校の間はずっと中山先生のクラスとなりましたが、先生はいつも僕を気にかけてくれました。体育が苦手な僕にとって、先生の授業はとても苦しく、つらいものでした。けれど先生は、こんな僕を根気強く指導してくださいました。持久走で立ち止まると頭を叩かれ、水泳でうまく進めないと水の中に沈められました。こんなこと、普通の教師にはなかなかできることではありません。

 二言目には「ふざけんじゃねえぞ」「俺を誰だと思ってんだ」と仰っていた先生は、僕がバスケットボールを顔面で受け止めると、いつも嬉しそうに笑っていましたね。体育祭の日に風邪で休んだ僕のことを「あいつが休んだから勝てると思ったのにな」と教室で話題にしてみんなを盛り上げてくれていたと、後にクラスメイトから聞きました。

 先生からの叱咤激励は、頬の痛みと血の味とともに、いつでも鮮明に思い出すことができます。

 ああ先生、あなたはかよわき大人の代弁者なのですよね。その身をもって、僕に理不尽とは何かを伝えてくれていたのでしょう。

 先生の心の内を思うと、僕はいつも胸が苦しく、涙があふれて止まらなくなってしまいます。


 ここまででだいたい八百文字くらいでしょうか。

 もう少し書かなくては、また先生に直すように言われてしまいますね。毎回、原稿用紙を破り捨てて怒鳴るのは、先生もさぞ大変でしょう。卒業間近になってまで先生のお手を煩わせるのは、大変申し訳なく思います。

 しかし、学校生活の思い出というのは、たくさんあるようですぐには思いつきません。仕方がないのでスマートフォンで〈卒業文集 例文〉で検索してみました。そのうちのいくつかを書き出してみます。


「体育祭ではクラスのみんなの笑顔が宝石よりも輝いていました」

「この三年間の思い出は、まるで夜空の星のようにきらめいています」

「ここで出会った仲間たちは、かけがえのない一生の宝物です」


 一体どれだけ輝いているのでしょう。

 この例文を考えた人は、きっと素晴らしい学校生活を過ごしたに違いありません。大変羨ましく思うと同時に、少し妬ましく感じてしまいます。星のようにきらめく思い出など、僕の三年間には存在しません。


 いいえ、ありました。

 きらめいているとは言えないけれど、こんな僕にも、一つだけ、心に残る思い出が。


 ああ、けれど、これは本来なら胸に秘めておくべきものでしょう。人前に晒せるような立派な話ではありません。ですが、僕は文集に残せるような思い出を、他には持っていないのです。

 仕方がありません。恥を忍んで、全てを書くことにします。この文集を誰かが読む頃には、僕はとっくに卒業していて、この学校にはいないでしょうから。

 ですから、最後に。


 ここに、僕の罪を告白します。


 あれは三年生に進級したばかりのことでした。

 僕は生物の授業で使うノートを忘れてしまい、慌てて教室へ取りに戻りました。机の上に置きっぱなしになっていたノートを手にした時、窓の外から声が聞こえました。僕の教室は二階にあります。窓の向こうは裏庭で、普段は人がいるような場所ではありません。それに、すでに授業が始まっている時間です。不思議に思って窓の外をのぞくと、そこには数人の生徒がいました。見覚えのある顔は、どうやら隣のクラスの人たちのようです。僕は合点がいきました。その時間、隣のクラスは自習だったからです。きっと彼らは先生の言いつけを守らず、教室を抜け出してサボっているのでしょう。

 サボりはよいことではありませんが、たいして珍しくもなかったので、僕はノートを持ってさっさと教室を出ようとしました。窓から離れようと足を踏み出した時、視界を白いものが掠めた気がして、僕は振り返りました。

 そして振り返った先、裏庭の集団の中に、ある男子生徒を見つけました。仮にFくんとしておきます。

 Fくんは明らかに暴力を受けていました。彼らは心から楽しそうに笑いながら、Fくんを取り囲んでいます。一見すると、仲良く遊んでいるようです。殴られ、踏みつけられ、唾を吐かれたFくんが悲鳴をあげるたびに、彼らの笑い声は大きくなります。

 僕はFくんを助けることはしませんでした。ここで止めに入れば、次の標的が誰になるかくらい、頭の悪い僕にもわかります。

 これは言わばクジのようなものです。いつ、どこで、誰にあたるかは、神様にしかわかりません。Fくんは運が悪かったのです。

 僕がFくんに同情したその時、裏庭を中山先生が通りかかりました。

 僕はほっとしました。先生がFくんを助けてくれると思ったのです。少なくとも、授業をサボっている彼らを注意して、教室に返すだろうと思いました。彼らの中には親が弁護士や教師をしている者もいたので、いくらなんでも教室で暴力行為はしないはずです。

 おそらくFくんも僕と同じように考えたのでしょう。顔を上げて、助けを乞う目で中山先生を見つめました。

 ところが、中山先生は現場をちらりと見ただけで、何も言わずに通り過ぎていきました。

 僕は失望しました。

 中山先生にではありません。

 暴力を振るっていた彼らにでもありませんし、もちろんFくんにでもありません。自分自身にです。

 あれほど先生が身をもって教えてくださっていたのに、僕はまだこの世界に、社会に、大人に、教師に、人間に、希望を抱いていたのだと思い知らされたからです。

「社会は学校の何倍も厳しい」

「そんな軟弱な精神では、将来この世界で生きてはいけない」

 先生は何度も何度も、学校という安全な檻の中で、僕らがいかに守られているかを語ってくださいました。そして世界がどれほど理不尽で悪意に満ちているのかも。それなのに僕は愚かにも、世界にまだ救いはあると信じていたのです。

 きっとFくんもそうだったのでしょう。世界の理を理解した彼の目から光が消えていくのが、僕にははっきりとわかりました。

 それから、僕はFくんの様子が気になって仕方ありませんでした。

 多分、僕とFくんは似ていたのでしょう。Fくんがいなければ、裏庭で殴られていたのは僕だったに違いありません。

 僕にはFくんの心がよくわかりました。だから彼が学校のトイレで首を吊っていた時も、僕はすぐに気付くことができたのです。

 その日、Fくんを殴っていた彼らは、揃って学校を休んでいました。理由は体調不良と聞きましたが、きっとどこかへ遊びにでも行っていたのだと思います。前日に某有名テーマパークの話で盛り上がっていましたから。

 ひと時の自由を手に入れたFくんは、それを人生最後の日と決めたのでしょう。邪魔が入らないうちに、彼らの手が届かないところへ行ってしまおうとしたのかも知れません。

 昼休みにふらりと教室を出た後、Fくんは戻っては来ませんでした。僕は学校中を探し回り、やがて三階の端のあまり使われることのない男子トイレの中で彼を見つけました。

 冷たいタイルの上に足を投げ出して横たわるFくんを見て、僕はとても悲しい気持ちになりました。閉じてしまった彼の人生は、もう二度と動き出すことはありません。これが社会の現実なのだと解っていても、Fくんの苦しみと絶望を思うと、痛みで胸が潰されそうでした。

 Fくんの亡骸を前に、僕は泣きました。泣きながら、僕は自分の内からあふれだす感情に気付いていました。

 僕は、Fくんの足元に残された一通の手紙から目を離すことができませんでした。

 それは、明らかに遺書でした。

 僕の心はこの遺書を読みたいと強く渇望しました。

 本来であれば、Fくんの御家族の手に届けなくてはいけないものでしょう。大切な息子や兄弟が何を思って逝ってしまったのか。せめて最後の言葉だけでも、御家族にとっては慰めとなるはずです。

 少なくとも僕のような赤の他人が軽々しく読んでいいものでないことはわかっています。

 それでも、僕は自分の衝動を抑えることができませんでした。

 僕は手紙に手を伸ばすと、それを掴んで一目散にその場から逃げ出しました。

 そうです、僕はFくんの遺書を持ち去ってしまったのです。

 勉強も運動も落ちこぼれで何の取り柄もない僕の、唯一の趣味と言えるようなものは読書です。なかでも、この世の不条理や人間の毒心を集めたような話に、僕は強く惹かれました。

 暗く湿った文章を読んでいると、自分が一体何のために生きているのかがわからなくなります。そうしてそのまま闇に溶けるように自分の輪郭が曖昧になり、世界と自分との境界がくにゃくにゃと歪んでくるのです。そしてその瞬間だけ、僕はこの世界を愛しく思うことができるのでした。

 この世に失望し、死を選んだ人間はどんな文章を書くのだろう。

 死んでなお、Fくんが伝えたかったことは何だろう。

 Fくんの目には、この世界がどのように映っていたのか。

 僕はそれを知りたいと思いました。

 好奇心が抑えられなかったのです。

 僕は愚かです。

 家に帰って開いた遺書には、Fくんがこれまで受けてきた暴力や脅迫の内容が細かく記されていました。日付や場所、誰に何を言われ、何をされたのか。まるで観察日記のように乾いた文で記されたその遺書には、自分をこんな目に遭わせた者たちへの恨みや世界への嘆きなどは、一つも書かれていませんでした。唯一、最後に書かれた家族への謝罪だけが、Fくんが遺した言葉の中で湿ったように熱を帯びていました。

 僕はFくんの遺書を何度も読みました。何度も何度も読みました。そして、Fくんが全てを理解して死を選んだのだということを知りました。僕と同じように、Fくんもずっと考えていたのでしょう。なぜ、世界はこんなにも苦しいのか。ただ生きているというだけで、なぜこんなに悲しくなるのか。寒くて暗くて痛いこの世界で、僕たちは何のために存在しているのか。

 そして、彼は答えを見つけたのです。

 この世界の適者生存の理を。

 世界が僕たちに冷たいのではなく、僕たちが世界に適していなかっただけだという、ただそれだけのシンプルな答えを。

 僕たちははじめから淘汰されるべき存在で、間引かれることを前提に生まれてきたのだという事実に、Fくんの遺書を読んで、やっと僕も気付きました。

 Fくんはずっと観察していたのでしょう。自分自身と、彼らと、この世界を。そして世界に適合しているのは誰なのかを理解し、自らを不要と判断したのです。

 Fくんが亡くなった後も、世界は何事もなかったかのように穏やかでした。ほんのわずかなさざなみすら立てず、Fくんの存在は消えていきました。

 彼らは変わらずに日々を謳歌し、Fくんに代わる世界不適合者を見つけては、裏庭で楽しそうに笑っていました。当然です。幸福な適合者である彼らは、いつも世界の中心にいるのですから。

 そんな彼らを見ていて、僕の頭には一つの考えが浮かびました。

 この幸福な適合者たちは、常に世界に適合し続けられるのだろうか。

 彼らは常に勝者で、世界から排除されることは決してないのだろうか。

 その考えを自覚した時、僕の身体はがたがたと震えました。考えてはいけないことだと解っていても、一度浮かんでしまったその考えは僕の頭を支配し続けました。それはまるで解かなくてはいけない数学の問題のように目の前にあり、僕に証明を求めているのです。

 僕は実験することにしました。

 まず、彼らを記録することからはじめました。彼らが何を話し、何をしたのか、観察できる限りを詳細にノートに書き記しました。書き方はFくんの遺書を参考にしました。それから、カメラやボイスレコーダー、スマートフォンを使って、映像や音声を集めました。記録には世界不適合者もたくさん映っていましたが、笑っているのは彼らだけでした。そうして集めた彼らの暴力と脅迫、恐喝と暴行について記録した観察レポートは、今、僕の手にあります。

 僕はこの観察レポートを、明日の朝、Fくんの遺書とともにFくんの自宅の郵便受けに入れておくつもりです。Fくんの御家族は、Fくんの身に何が起きたのかを知ることになるでしょう。そして幸福な彼らの存在をはじめて認識するのです。

 さて、それでも、世界は彼らを優しく守るのでしょうか。適合者たる彼らは、やはり勝者のまま、世界の中心で笑い続けるのでしょうか。

 大学推薦合格発表の日、教室で嬉しそうに話をしていた彼らの顔。父親と同じW大に行くのだと得意そうにしていたあの顔は、この先も絶望に歪むことはないのでしょうか。

 僕は、それが知りたくてたまらないのです。

 そうです、これこそが僕の罪です。

 淘汰されるべき存在である僕が、幸福な適合者たる彼らの適合価値を試してやろうというのですから。

 中山先生、裏庭の隅はとても良い場所ですね。

 どの建物からもちょうど死角になっていて、隠れてタバコを吸うのにはもってこいの場所です。ただ、煙が二階の窓から見えてしまうのはよくないですね。学校の敷地内は全て禁煙ですから、管理職に見つかるのは避けたいでしょう。裏庭で起きた暴力事件を報告するわけにはいかないのも納得です。なぜそんな場所にいたのか説明しなくてはいけないですし、万が一灰皿代わりの空缶が見つかっては困りますから。

 ああ先生、心配しないでください。彼らが先生を脅していた事実も、観察レポートには記録してあります。Fくんを見捨てるやむを得ない事情があったのだと、Fくんの御家族も理解してくださるでしょう。

 ずいぶんと長く書いてしまいました。

 今度は長過ぎると叱られてしまうでしょうか。ですが、全ての罪を告白した今、僕はとても穏やかで満たされた気持ちです。これで心置きなく、この学校を去ることができます。


 落ちこぼれの僕から、心を込めて。

 卒業おめでとう。

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