第4話

透明人間とピルグリム4


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 時間の感覚が狂う。どれほどの時間そうしていたのか。長くも短くも感じる時間の中で、僕は教室後方の扉の隙間から、彼女の歌を聞いていた。

 おそらく、数分。たった数分だが、彼女が一曲歌い終わって一息つくまで、時を忘れるほどに僕は聴き入ってしまっていた。

「人を呼んだ覚えはないけど?」

 大崎ひらぎがそう告げるまで、僕は自分が止まっていることに気付けないほどだった。大崎ひらぎがこちらに近づいてくる。

 逆光に照らされるシルエット。表情は、影になっていて伺い知れない。

「ねえ、こっちに来なよ」

 僕の前まで来た大崎ひらぎが、僕の手を取って教室の中に招き入れる。促されるまま、僕は整然と並ぶ机の列に紛れた。

 月明かりが、彼女を照らす。

 笑っていた。

「なんだ、不良生徒の宮藤くんじゃん。こんな時間になにしてるの?」

 大崎ひらぎは、パーカーにショートパンツという出で立ちで、大胆に露出した健康な足が光を反射している。

 僕が戸惑って黙していると、大崎ひらぎが顔を覗き込んできた。

「宮藤倖助だよね? たまにしか学校来ないから、あんまり覚えてないけど」

「……あってるよ」

 照れ隠しに頬をかき、目線を逸らす。

「大崎さんは——その、ここで何してるんだ?」

「何って、見ての通り歌ってるんだよ。誰もいないからね、歌い放題」

「夜の学校で?」

「そう。恥ずかしいからね」

 大崎ひらぎがクスクスと笑う。

「でも、初めて人に見つかっちゃった。ねぇ宮藤くん。アタシの歌、どうだった?」

 無邪気さと妖艶さ。そのどちらとも言えない笑みを浮かべて、彼女は僕を見る。

「僕は……歌の良し悪しなんてわからないよ」

 慎重に、言葉を紡ぐ。

「わからないけど——さっきのは、よかった、と思う」

「ふーん」

 くるんと回って、大崎ひらぎは窓の方を向く。

 月を見上げながら後ろに手を組んで、大きく深呼吸をした。

「あーあ、見つかっちゃったな」

「大崎さん」

 僕がその背中に声をかけると同時に、彼女がこちらを向く。

「アタシね、宮藤くんがどうしてここに来たか分かってるんだ」

「え」

「宮藤くんが普段何をしてるか、噂で聞いてたからね。アタシを探しに来たんでしょ? お母さんに頼まれて」

「……そうだよ。君が、家出してるって聞いた。その体質のことも」

「そっか。じゃあ、あの薬飲んでるんだ? 私も飲んだことあるよ、テスト前日とかに。頭痛いでしょ」

「すこしだけ」

 大変だねぇ、なんて他人事のように言って、大崎ひらぎは黒板の前に移動する。教卓の裏に回って、姿勢を低くして頬杖をついた。

「学校のみんなはアタシのこと忘れちゃったんだよね」

 その言葉で今日の昼間を思い出す。クラスメイトも教員も、誰も彼もが彼女を忘却していたことを。

「昔はさ、あんまり強くなかったんだよ、この体質。忘れてもアタシの顔見れば思い出してくれてたから。今はもうダメだね、困っちゃうよ。人間関係めちゃくちゃ。

 ——どうせなら誰も知らないとこで、独りで生きていこうかなって思ったんだけど」

 言葉とは裏腹に、あまり悲観的な雰囲気ではない。

 彼女の体質は現代の社会ではあまりに不適格だ。今後の人生を考えると、まともな生活を送れるとは思えない。けれど、そんなことは瑣末に過ぎない、と彼女は言っているかのようだった。

 僕は彼女の言葉に、肯定も否定もできないでいた。人ひとりの人生を、無責任に評価することは、僕にはできない。

 僕は話を逸らしたくて、本来の目的を告げた。

「……そうだね。とりあえず、一緒に来てくれると助かる。僕も仕事だから」

「わかったよ。お風呂入りたいし、一回帰ろうかな」

 なんてことないように、大崎ひらぎは了承した。やはり諦めとは違う印象に感じる。浮世離れした性格なんだろう。

「あれ?」

 そこで僕はふと、ここまで導いてくれたピルグリムの姿がないことに気付く。

 暗いから探しづらいけど、教室の中にはいない。廊下を覗くが、影も形もなくなっていた。

「どうかした?」

「いや、君を探すの、手伝ってくれた子がいるんだけど……どこに行ったんだ」

 ピルグリムにも礼をしなきゃいけない。見た目と言動は怪しいが、その能力は本物だった。でなきゃ、大崎ひらぎを見つけるのはもっと困難だっただろう。

「そもそもどうやって見つけたの? 宮藤くんは薬を飲んでるからいいけど、他の人は記憶ないでしょ? アタシがここにいることなんて、誰も知らないはずだけど」

「えーと、匂いで追跡してもらった」

「うそ。アタシもしかして匂う?」

 大崎ひらぎが、服の袖を嗅いでいる。流石にセクハラっぽくなってしまうので、僕は意識しないよう落ち着いて声を出した。

「……そんなことないと思うけど。なんか、犬みたいに鼻が効くやつなんだ」

「ふうん。まぁ、確かにちょっと臭いかも、アタシ。あはは」

 僕の周りに臭いやつが増えたということらしい。いや、大崎ひらぎの匂いは、僕には流石にわからないけど。

 さて、どうしたものか。

 見当たらないピルグリムを放っておいて、事務所に帰るのもなんとなく申し訳ない。彼女なら僕を探すのはなんてことないかもしれないけど、用事がおわったからといって放置するのも気が引ける。

「あ、とりあえず冬華さんに連絡しなきゃ」

 思い出して、携帯を取り出す。

 報告の文面を考えていると、

「誰かに連絡かい?」

「そうそう。僕の雇い主で、命の恩人なんだけど……」

「連絡されるのは困るなぁ。携帯、捨ててくれない?」

 ハッとして顔を上げる。男の声だ。

 大崎ひらぎが、教室前方の入り口を見ている。

 視線の先を見ると、大柄な男が立っていた。

「こんばんは。今夜は月が綺麗だねぇ。こんな時間にデートかい?」

「……誰?」

 大崎ひらぎが声を出す。明らかに学校の関係者ではない。派手な赤いシャツに、明るい色の頭髪。ヘラヘラと下卑た笑みを浮かべているものの、目は全く笑っていない。

「宮藤くん、知り合い?」

「いいや、知らない」

 僕は言いながら大崎さんの袖を引いて、窓際まで下がるよう促す。

「ありゃ、お邪魔だったかな?」

 男が教室に入り込んでくる。

「いやね、大崎ひらぎって子を連れてこいって言われててさぁ、下っ端使ってあちこち探してた、わ、け!」

 教卓を蹴り飛ばし、僕の前までやってくる。

「そしたら、おんなじように嗅ぎ回ってるガキがいるって聞いたから、後をつけてみたらどうよ? 超ビンゴ!」

 スラックスのポケットに手を突っ込みながら、上半身を前に傾けて僕の顔を斜めに覗き込んできた。

「お前のツレ、すごいのな。犬なの? あのくっせぇガキ。まぁこっちで預からせてもらってるからさ、ちょっと貸してね」

「あ?」

 その言葉を聞いて、僕は頭に血が昇るのを感じた。

 ピルグリム、いないと思ったら、こいつが。

「おーこわ。とりあえず、そっちの可愛い子ももらうからさ——ちょっと、どいてくれない?」

 衝撃。

 男に横っ面を殴られて、黒板へと強かに打ち付けられる。目に火花が散った。身体から力が抜けて、僕の身体が床に落ちる。

「宮藤くん!?」

「ぷーくすくす。かっこわる」

 男のおどけた声が耳に届く。僕の身体を跨いでいく影が見えた。

「さて。写真よりも実物の方が可愛いなぁ。ちょっとくらい味見しても、バチは当たらんねこりゃ」

「……当たると思うけど」

「うるさ。女は愛嬌だよキミ。ニコニコしてたら、痛くはしないから」

「サイテー」

「黙れって」

 叩く音。

「いった……はなして!」

 布の擦れる音。

「あばれんなよ。めんどくせぇな」

「——離せよ」

「あ?」

 辛うじて声を絞り出す。壁に手をついて、頭を押さえながら僕は立ち上がった。大崎ひらぎの手を掴みながら、こちらを見る男の姿が目に入る。

 男が口笛を吹いた。漫画みたいだな、と僕は思った。

「頑丈じゃん。絶対入ったと思ったけどなぁ」

 男が大崎さんを掴んだまま、こちらに近づく。

 まいったな。立ったものの、膝が笑っている。打開策も特に浮かばない。そもそも、暴力に対して慣れていない。何故か恐怖心こそ湧かないものの、力の差は歴然だ。

「彼女だけでいい、逃してくれ」

「話きいてた? 俺の目的はこっちなんだって」

 男の、拳が、腹にめり込む。

「ぐぇ」

 潰れたカエルみたいな声が出た。

 お腹を抑えてその場にうずくまる。

 そこに今度は、顎を蹴り上げられた。

 馬鹿みたいに仰け反って、仰向けに倒れ込む。

 口の中を切ったのか、血の味が広がった。

「もういい? 忙しいんだけど」

 男の声。

 僕は片手を上げて、中指を立てる。

「へえ」

「もうやめて」

 大崎ひらぎの掠れた声。

 横っ腹と顔を蹴られ、腹と顔を執拗に踏まれた。

「へ……へへ」

 不思議と笑みが溢れた。

「なにこいつ」

 困惑の声。少し心がスッとする。

 男が引く気配。

 僕はゆっくりと、再び立ち上がった。

 全身が痛むものの、思ったほどではない。

「大したことないな」

 思わず声が出た。相変わらず策はないが、これが続くだけなら、問題はない。

「もういいや。分かったから、解放してくれない?」

「んなわけねぇだろ、気持ち悪りぃ」

 男はついに大崎ひらぎを放して、指の骨を鳴らした。本気、というわけだろうか。最初からやれ。

 大きく振りかぶるモーションが、スローに見える。ああ、でかいのが来るなぁ、とのんきにそれを見ていると、

「——そこまでです」

 聞き覚えのある声が、横をすり抜けていった。

 ピルグリムは男の眼前に飛び出すと、宙返りをしながら蹴りを放った。

 綺麗なサマーソルトは、男の顎を正確に打ち抜いたようだった。さっきの僕はこんな感じだったのだろう。男が、仰向けになって倒れ込む。

「………………え?」

 それは誰の声だったか。


 気が付けば。

 男は気絶してるし、僕はボロボロで、大崎ひらぎは絶句し、ピルグリムは泣き喚きながら僕に抱きついていた。

 なんだこれ。

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うるう世界のラクリマ いちりか @9yanagi

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