ドラッグストアにて

石衣くもん

💊

 私には三分以内にやらなければならないことがあった。

 それは、目の前にある二つ長蛇の列のどちらに並ぶかを選択し、会計を済ませることであった。

 クーポン有効期限、 残り二分四八秒。

 私は覚悟を決めて、右の列の最後尾に並んだ。


 事の始まりは、いつも通うドラックストアのアプリがリニューアルされ、アプリリニューアル記念として「お会計総額から20%0FF」クーポンが配布された。

「20%0FF (対象1商品)」ではなく「お会計総額から20%OFF」なのだ。これはでかい。絶対使いたい。

 前者は、500円、200円、300円の商品を買って合計1,000円の支払いになっても割引は100円。

 後者は、同じ買い物をしても、200円の割引になるのだ。

 利用期限は五日間。

 配布日が月曜日だったから、今週の金曜日まで。

 土日しか仕事が休みでない、かつ、遅番勤務だとこのドラッグストアは帰りには閉まっている。つまり私は、最終日である金曜日、早番終わりの日に買いに行くしかなかった。

 ちなみに、遅番勤務の出勤前だと開店している時間なので行けるのだが、大量の購入品とともに出勤するのははばかられるので選択肢に入れなかった。



 そして、待ちに待った金曜日。

 早番十八時に退勤しようとしたところ、同じく帰る準備をしていた先輩に喋りかけられ、足を止めた。

 出鼻をくじかれた。

 しかも先輩は、


「プライベートでうまくいかないことがあって、仕事のモチベーションが下がっているので、辞めようか悩んでいる」


なんて、終わりが見えず、選択肢を間違えると今の業務を一人で回さないといけなくなるという、私にも災いが降りかかってしまう難題を、帰り際の立ち話の話題として選んできた。


 正直、今辞められるのは困る。

 しかし、モチベーション低下の原因は


「ちょっとプライベートなことで、ね⋯⋯」


と、ぼかされ、解決策を導きだすことはできない。

 というか、この話しぶりは解決を求めているのではなく、いかに自分が今、辛い思いをしているが聞いてほしいだけなのだ。

 多分、辞めない。

 でも、万が一がある。


 この精神状態の人に


「予定あって急いでるんで、じゃ!」


と言い放って帰るのは、


「一番近い後輩すら話を聞いてくれない、こんな職場辞めよう!」


などと決意させかねない。確率は低いとしてもゼロではない以上、慎重さを求められる。


 私は話題を広げないようにしながら適度に相槌を打ち


「いやあ、でも本当に先輩が辛そうで、こんな立ち話じゃなくて今度ゆっくりご飯食べながらお話ききたいです。美味しいもの食べるとちょっとでも元気出ますし、それに会社じゃ話しづらいこともあるじゃないですか」


と、やんわり別の機会に聞くということを伝えてみた。先輩は少し涙ぐんで


「ありがとー、本当に結構参ってて、そんな風に言ってくれて感動した……ごめんね、引き留めて。また今度ご飯付き合ってー!」


と、手を振りながら言った。解放されたのである。

 ある種賭けでもあった、「ご飯に行こう」は、


「じゃあ今から付き合って」


と言われる可能性もあった。こちらから提案しておいて、


「いやあ、今日はちょっと」


というのもなかなか言いづらい。けれど、私は賭けに勝ったのだ。

 電車に乗り、家の最寄り駅で降りた。店が閉まるまでまだ二時間もある。余裕で買い物ができるとほくそ笑みながら入店した。


 店内はクーポンのおかげなのか、いつもより混んでいた。レジは二つあるのだが長蛇の列だし、皆ここぞとばかりに買い込んでいるのでかごがパンパンだ。

 そんな彼らを彼女らを内心で


「同志よ!」


と、思いながら、ご機嫌に自分の買い物を進めていった。漏れなく買うものリストと照らし合わせながらかごをパンパンにしていく。三十分ほど店内をうろつき、リストのものもすべてかごに入れ、リストになかったものも少しかごに入れ、レジの列に近付いた。

 どっちの列が早いかなあと思いながら、何の気なしに件のアプリを起動し、確認するつもりでクーポンの「使う」ボタンをタップした。

 すると、ポップアップで


「ご使用の三分前に押してください『使う』『キャンセル』」


というメッセージが出てきた。

 この並びだとどちらも三分はかかりそうだし、『使う』を押すのはレジで会計が始まってからだな。


 そう思って、『キャンセル』を押そうとした時だった。

 神の悪戯か、それとも先輩を蔑ろにした罰なのか、突然手が滑ってスマホが手から離れてしまった。

 落ちる、と条件反射で手を伸ばし、無事キャッチできたのでスマホを落とすことはなかった。しかし、キャッチした時、がっつり画面を触ったのである。


 嫌な予感がして、画面を確認した。案の定、『使う』『キャンセル』の画面ではなく、バーコードと秒単位でカウントする画面に変わってしまっていた。

 咄嗟に掴んだ時に『使う』をタップしてしまったのである。


 どうにかキャンセルできないかと画面をみたが、赤字で


「下記の時間内にクーポンをレジで提示してください!」


と、無慈悲に出ている。

 迷っている暇はないが、三分以内にレジまで辿り着ける方に並ばないと。

 遥か先にあるように見える、レジに立っているのは三人。


 右のレジに一人、左のレジに二人。

 右の一人はいつも来る時に見かける人で、左の一人はたまに見かける人。もう一人は制服の色が違うので、恐らく薬の説明をしてくれるタイプの店員さんである。

 左はその制服がちがう店員さんが補助してる分、若干だがレジ打ちが早い気がする。

 ふらりと左に並びかけて、足を止めた。

 そう、あの人がこちら側にいるということは、薬の説明とかはこっちのレジでするに違いない。


 私は右に並んだ。残り一分五五秒で、四人の人が会計を終えた。後、私の前には五人。最早、同志ではなく障害である敵に見えてくる。

 今、会計が始まったお客さんは、説明が必要な薬を買っていたらしく、予想通り左の列で次の人を会計に呼ぶ前にかごを左の列に回された。このドラッグストアは、いつもそうするのだ。

 後、四人。時間は、一分四秒。

 微妙なラインである。ギリギリ私の会計が始まった時にタイムアップになりそうな。

 残り二人。時間は三十二秒。


 欲張ってこんなに買わなければ良かった。それなら間に合ったかもしれない。後悔の念が押し寄せて来て、クーポンが使えないなら商品を戻しに行こうと列を離れようかとも思った。その時だった。


「私、これ間違って店入った時に『使う』って押しちゃって時間切れで0:00って表示になったんだけど、まだバーコード出てるし、使えるわよね?」


 私の前のおばさまが、そう言ったのである。

 いつもの店員さんは、テキパキ手を動かしながら


「それねぇ! なんか時限爆弾みたいで焦っちゃうわよねえ! ちょっとバーコード読み取ってみるわね」


と言って、おばさまのスマホの画面をスキャナーでピッとした。


「読み取れたわね! でも次から気をつけて、使えなくなるかもしれないから」


と、無事おばさまの会計は終わり、私の番になった。


 私は何も言わず、0:00になっているバーコードの画面を店員さんに見せ、店員さんも特に何も言わずピッとしてくれて、無事支払額が20%OFFになっていた。


 レシートを確認したら、割引額は千五百円程で、それくらいのことに、私は真剣に悩み、血の気が引いて、頭が真っ白になったんだなあと、複雑な気持ちになった。


 いや、人は自分事であればきっと深く思い悩む生き物なのだ。そうであって欲しい。


 そんな願望とともに、次、先輩の悩みを聞く時には、本当にしっかり聞いてあげようと、心に誓ったのであった。

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ドラッグストアにて 石衣くもん @sekikumon

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