第5曲

 久し振りに触れた牙は鋭く、いとも容易く指の腹は切れ、赤い雫が溢れていくのが分かる。


「味は、変わってない?」


 訊ねた瞬間、やけに柔らかな温もりが、傷口の上を滑った。


「……昔よりも甘くなったかな」


 私の顔に触れていた彼の手が離れていく。それに淋しさを覚える間もなく腕を優しく掴まれて、彼の唇は、口内にあった人差し指から親指の下辺りへと移動していき、そこを噛みつかれる。

 思わず目蓋を閉じそうになったけれど、この瞬間をこれまでずっと望んできたんだ、じっと、自分の血が吸われる様を眺めた。


「あとね、旨味が増したよ」

「……っ!」


 自分の血の味なんて分からないけれど、いつかこうして吸血してもらえた時に、美味しいと喜んでもらえるように、日々に余裕ができたら食生活に気を遣うようになった。ちゃんと効果は表れていたらしい。


「もっと飲んで」

「そんなことしたら死んじゃうよ」

「──いっそ殺して」


 ほんのり彼は目を見開いたけど、これもまた本心だ。

 私の手から顔を離し、彼はじっと私を見つめる。


「……それは駄目だよ、アンナ・ローズウッド。君の歌を求める人はたくさんいるんだ、その人達が悲しむ」

「貴方は悲しんでくれないの?」

「……」


 彼の顔から笑みが消えた。

 次の言葉はなかなか出てこない。彼は小さく口を開閉するばかりで、焦れったくなった私は、レグルスと名前を呼ぶ。意図したわけでもなく、すがるような声だったせいか、彼は語りだした。


「……本当はね、君をずっと覚えていた。昔、少しの間共に暮らした同居人を。その素晴らしい歌声を。物悲しい中に温かみのあるその声は、きっと聴く人の心を救ってくれる。僕が独占するのは、絶対に許されないことだからと、君を舞台に捧げたけれど……ピアノを弾くたび、物足りなさを感じたよ」


 君の活躍は知っていたよ、と告げる彼の声に、暗いものが混じる。


「アンナは、アンナ・ローズウッドとなり、街一番の歌姫となった。君の歌声は、ちゃんと僕の耳に届いていたよ」

「……っ!」

「僕が言った通りになった。素晴らしい歌姫には直々に曲をプレゼントしたい。いつもしてきたことだ。……でも、君と別れてどれくらい経ったか、数えていないから分からないけれど、僕のことを覚えているか、急に不安になってね。君はまだ、小さかったから」

「──覚えているに決まってるでしょう! 誰の為に歌姫になったと思ってるのよ!」

「……ごめん」


 柵が邪魔で仕方ない。これさえなければ、彼の懐に飛び込めるのに。


「レグルスお願い──檻の中に入れて。貴方と一緒にいたいの」


 できる限り近付けば、レグルスは目を丸くするばかりで、返事をしない。その内、柵に頭を寄せた。


「好きよ、レグルス。もう歌えなくてもいい、ただの血袋でもいいから、私が死ぬまで貴方の傍に置いてほしいの」

「そんな……君の歌を待っている人達に恨まれるよ」

「恨めばいい。私から貴方を奪った人達を、私はずっと恨んできた」

「……君は本当に、僕のことが好きなんだね」

「当たり前のことを言わないで」


 彼は軽く笑うと、両手で掴んでいた私の腕を離し、そのまま、私の頭を再び撫で始める。


「本気?」

「本気よ」

「……そっか」


 どこか諦めたような彼の声に、妙に不安を覚えたけれど、次の言葉でそんな気持ちも消えた。


「じゃあ、ずっと一緒にいようか」


◆◆◆


 ──この日、歌姫アンナは死んだ。


 世間ではどうやら、毒殺された、事故で、いや駆け落ちしただけ、だの色々言われていたらしいけれど、私にはどうでもいいこと。


「レグルス」


 ピアノを弾く彼の隣に、昔のように座り、曲に合わせて歌う。私がずっと求めてやまなかった日常だ。

 これが終わればロールパンを食べて、次は何をしよう。考える時間はいくらでもある。──私は彼に、永遠を与えられたのだ。

 黒々としていた私の髪は、彼と揃いの純白に変わり、目の色も血を思わせる深紅になった。

 これでもう舞台に上がらなくていい。私はずっと、彼の傍にいられる。まさかここまでしてもらえるとは思わなかったけれど、十分幸せだ。


 なんせ、永遠だもの。

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歌姫アンナ・ローズウッドの懇願 黒本聖南 @black_book

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