第3曲

 最初は劇場で働かされた。


 床拭きに便所掃除、劇場内の清掃に開演前の売り子と、色々とやらされて、歌のレッスンはろくにさせてもらえなかった。

 まずは下積みからだと。

 私にそんな暇はない。雑用の合間に、歌手達の発声法を盗み見て、寝る間を惜しんで歌い続けた。

 小娘が一人外に出て、酔っぱらいに絡まれることや、妙な大人に目を付けられることもあったけれど、私の逃げ足は速く、そこまで酷い目に遭うことはなかった。

 ひたすら腕を磨いていき、劇場支配人にも歌声が届くと、知り合いがやっている酒場を紹介されて、そこで歌わせてもらうようになる。歌で連日、客を満足させられるようになったら、舞台に上げてやると言われたから、頑張って日々歌ったけれど……。

 どれだけの酒を頭に掛けられ、罵声を浴びせられたことか。下手くそ、なんてまだ優しかった。鋭利な酔っぱらい達の言葉に、もう無理かもしれないと追い込まれて、酒場に向かおうとすると道でよく吐いてしまった。それでも諦められなかったのは……。


 歌姫になって、彼に会いたかったから。


 暗い石造りの道を進んだ先には牢があった。私の顔も入らないような隙間の柵に阻まれた先に、誰かが暮らしてそうな、普通の部屋がある。

 テーブルにベッド、クローゼットにピアノ。ないのは窓くらいか。

 ──彼は、柵のすぐ傍にいた。

 冷たそうな地面にしゃがみこんで、血のように赤い瞳を私に向けている彼。いや、一見しただけではと分からないかもしれない。地面に着くほどに長い白髪、柔和な顔は、女性にも見えた。

 それでも彼が男だと分かるのは、知っているからだ。


「──


 歌うように彼の名前を紡いでいた。

 傍まで駆け寄ると柵を掴む。本当は、手を伸ばして彼の顔に触れたかった。


「……おや、お嬢さん。僕が誰か知っているのかい?」

「……当たり前でしょう」


 酒を飲んでも怒られない歳になったはずなのに、私の口から溢れた声は、どこか幼く聴こえた。


「アンナ・ローズウッドは僕のことなんて……知らないのかと思ったけれど、君は彼女じゃないのかな?」

「周りは私をそう呼ぶわね。私も今はそれに慣れたけど、。私はただの私、誰でもない私だったわ。そんな私を、まずはただのアンナにしてくれたのは──貴方だったはずよ、レグルス」


 私の言葉に、彼は静かに微笑んだ。

 そして私のいる方へと手を伸ばし、子供にするみたいに頭を優しく撫でてくる。


「──ああ、ああ、僕のアンナ、君は君の望みを果たせたということか。……そんなに僕のことが好きなのかい?」


 恥ずかしげもないその言葉に、照れることなく頷いたと同時に、私の目から涙が一滴溢れ落ちた。

 柵から手を離し、私の頭を撫でる彼の手を取って、涙に濡れてきた顔に触れさせる。


「好きよ、ずっと好き。離れたくなんてなかったのに」

「いやいや、君には歌姫になれそうな才能があった。僕のとして終わらせるのは惜しかったよ」

「──私は! それで良かったのよ!」


 声を上げれば、彼の微笑みに影が差し、何かを言おうとしたのか、口を開ける。

 ──牙が見えた。

 鋭く尖った牙が、彼の口の隙間から見えた。

 それを目にしたらもう、何も考えられなくなって──彼の牙へと手を伸ばしていた。

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