3.ダニエルの提案


「そろそろ夜明けが来ますね。もう行かなくちゃ」


「……そうだな」


 コートを着てブラウを左肩に乗せたティアナは、ダニエルとともに外へ出た。夜明け近くに活動する鳥の鳴き声と北風が吹く音が、真っ暗な中の静かさをより濃いものにしている。


「ダニエル様、お体は?」


「おかげでもう何ともないよ。心配してくれてありがとう」


「けっ。ティアナ、心配なんてしなくていいよ」


「……ブラウには嫌われてしまったな」


 薄く苦笑いするダニエルの表情が、ティアナの魔法詠唱で出現した氷角灯アイス・ランタンの明かりでぼんやりと浮かび上がる。


「ブラウ、そんな言い方……。すみません……」


「いや……、気にしないでくれ」


 謝るティアナにダニエルは返答したが、胸を張っては言えず、小さな声になってしまう。


 そのまましばらく無言で歩き続け、もう東区域に到着するという時になってダニエルが沈黙を破った。


「……実は、魔力水を持ってきてるんだけど……」


「魔力水って、魔力を回復させてくれる高価なものですよね?」


「うん、魔法を使うかもしれないという心づもりで来たから。これがきみの髪の代わりにならないかな?」


「どうでしょう……、使ったことがないので」


 すると、ふとダニエルの視線がティアナの右肩に移った。


「きみの髪を入れてみるというのも、いいかもしれない」


 ダニエルが歩くのをやめ、つられてティアナも立ち止まる。


「髪を?」


「ちょうどここに、抜け毛が」


「あ、すみません。でも、一本だけで効果はあるかしら」


 ティアナの右肩に落ちていた栗色の抜け毛を指でつまむと、ダニエルは「やってみないか?」と言った。弱々しさはあるが、その中にティアナへの気遣いが感じられる言い方だ。


「え、ええ、いいですけど、効果があるかどうかは」


「試しにやってみるだけさ。じゃあ、魔力水に入れておくから、使ってくれ」


「は、はい、わかりました」


「あと、本当に危ないと思ったら、僕が炎魔法を……」


「それはいりません。みんな、心を持った人間だったんです。その魂を炎で焼くなんて……。腐敗防止に遺体を焼くのとは、わけが違うんです」


 ティアナはこの件に関してだけは、きっぱりと否定する。自分がこうと決めたことは絶対に譲らないのだ。こんなに優しくて愛らしいのに、柔らかく微笑んでくれるのに……そう思うと、ダニエルの心に少々の焦りが生まれる。そして、自分の周りの、ティアナと同じ年頃の女性の中に、こんな人はいただろうかとも思う。


「……そうか。じゃあ、十分に気を付けて」


 そう答えるしかない自分自身に苛つきを覚えながらも、ダニエルはティアナに魔力水の瓶を渡して軽く笑ってみせた。


「はい。ありがとうございます」


 こくりとうなずいてから口を引き結び、硬い面持ちで前を見つめるティアナが足を踏み出すと、右前方から悲しげな叫びが聞こえてきた。女性とも男性ともつかない湿り気を帯びた声は、ざらざらとした不快な質感でティアナとダニエルの顔を歪めさせる。


「……もっと、近寄らないと」


「ああ。ティアナ、気を付けて」


 一歩、また一歩と、ゆっくりながらも歩みを止めることなく、ティアナは声の方へと近付いていく。やがて闇にぼうっと浮かび上がったその姿を見ることができるようになり、二人は息が止まりそうなほど驚いた。


「……こん、な、に、強い思念を持つ、幽体は……初めて……」


「きみですら、初めてだというのか……」


 「ウアアアアアアァァー!」と発音しているように聞こえるが、実際には口から出ている言葉ではないため、はっきりとはわからない。不気味な音として耳が捉えるその声が近付くにつれ、空気はどんどん張り詰めたものになっていく。


「ティアナ! すぐそこ!」


 それまで黙っていたブラウが突然大声を上げる。その瞬間、ティアナの目の前に『悪霊』と人々が呼ぶ、大きな幽体が現れた。強烈な恨みや未練などの思念を持つその巨体は、徐々に男性のような形を現していく。


「……あなたは、何かを悲しんでいるのね」


 ティアナの声が震える。恐怖を感じているのだ。それでも、続けなければならない。一番辛く苦しいのはこの幽体なのだから怖がってはいられないと、早鐘を打つ心臓を宥める。


「この明け方の時間帯に、何かあったのかしら」


「コノ、ジカン……! アアアアア!!」


「あっ……、明け方……もしかして、火事か!? 町の南側の屋敷の……」


「アアア! アノ、オトコ! ロクデナシ、ムスメ、ワタサナイ! ツギ、ノ、ヒ、ホノオデ……ヤカレ……ヤカレ……! アケガタ! アノ、オトコ、ヒ、ツケタ! ムスメ、タスケ、デキナイ、デキナカッタ! ウランデヤル、ウランデ、ノロイ、コロシテヤル!!」


 ダニエルの声に反応した大きな思念の渦が、つむじ風のように幽体を取り巻き轟音を響かせる。一歩後ずさろうとする足を必死にこらえてその場に留まっているダニエルをティアナは横目で確かめ、「火事があったんですか」と尋ねた。


「……十日くらい前の明け方、火事があったんだ。建物内にいた家族は、全員……。放火の線で警備隊が調べてはいるが、犯人はまだ捕まっていないはず」


「アノオトコ! アノオトコ、ダ!」


「そう……。確かにそれは恨みを持っても仕方ないわね。助けられなかったことを、後悔してしまうのも。でも……、あなたのその姿を娘さんが見たら、悲しむんじゃないかしら」


「……ムスメ……カナシ……」


「そう、悲しむわ、きっと。だから私が、天へ送ってあげる」


「アノオトコ、ノロウ! ウラミ、ノロウ!」


「恨んでも呪っても、娘さんは喜ばない! あなたが天へ昇ることでしか、娘さんは笑顔になれない! ……清導せいどうの光と珠言しゅごんを、受け止めなさい」


 ティアナはそう言い放ち、魔力水を持った方とは反対の手で前髪をかき上げて瑠璃色の瞳を幽体へと向けた。だんだん金色の光を帯びていく瞳から濃い金色の光が広がっていくが、幽体が吸い寄せられる気配はない。


「……もう、本当はわかっているんでしょう? あとは、天へ昇るだけということを」


 濃い金色の光はどんどんと範囲を大きくしていき、ついに幽体をとらえることに成功した。光に照らされた幽体はその場を離れられず「イヤ、ダ、ノロイ、コロス!」と叫んでいるが、端の方から体が少しずつ金色の粒子に変化していく。


「呪い殺すと決意するほど、辛かった、苦しかった。今もそれは変わらない。そうよね? だから、楽になりましょう。あなたが苦しんでいると、家族は悲しむだけなのよ」


「カゾク……カナシ、ム……タスケ、タ……カッタ……」


「そうよね。助けたかった、愛しているんだものね。大丈夫、家族はあなたを悪く思ってなんかいない。……私が送るわ。安心して」


 そう告げると、ティアナは背筋を伸ばして体制を整え、静かな、だけどよく通る声で珠言を唱える。


「では、お伝えします。あなたが生きたことに、感謝します。あなたが次のせいで、もっと温かな光をつかめますように」


 ティアナが珠言を言い終え、幽体が少しずつ上昇を始める。その輪郭を縁取る金色の粒子は先ほどより増えてはいるが、全てが粒子に変化したわけではない。


「ムスメ、タスケ……タスケテ……カワイイ、ムスメ……ゴメン……アイシテ、ル……! アアアア!!」


 それまで何か話すたびに形をぐねぐねと変化させていた幽体が、突如人間の形になり、両手をティアナの方へ伸ばす。咄嗟にぴくりと体が反応するが、ティアナはその場から動かず、髪を差し出すために頭を下げようとした。


「……じゃなくて、今日はこれがあるわね。せめてもの慰みに……あなたの、次の生のために」


 自身の髪を入れた魔力水を幽体の手に持たせると、ティアナの目には、幽体が少しだけ微笑んだように見えた。ほんの少しだけ、穏やかに。


「……ア、アア、アアッ……!!」


「そのまま天へ昇るの。そうして次の生を、あなたは受ける」


「……アア、アアアア……ア、リ、ガト……」


 幽体は、確かにそう言った。ここまで会話が成立したことも初めてだったが礼を言われたのも初めてで、そんな初めて尽くしにティアナの頬が自然とゆるむ。


 金色の粒子が、きらきらと美しく輝きながら、上昇を始める。全ての粒子が見えなくなると、ダニエルが一言ぼそりとつぶやいた。


「……なんて、温かな光……」

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