意識のない者

キタハラ

意識のない者

 花島正志には三分以内にやらなければならないことがあった。

 意識を肉体に戻さなくてはならない。


 事務所の上で花島は腕を組んでいた。こんな場所から、いつものおんぼろ事務所を眺めるのは初めてのことだ。新たに発見した壁の汚れをのんきに見つけている場合ではなかった。

 裂けてしまいスポンジがはみ出ている、いつものソファーに花島は座り、客とにこやかに歓談している。

 寒かったけれど、やっと暖かくなったなあ。いやいやまだ油断はできないなあ。そんなつまらない会話をしている。

 自分が分離してしまったことを、助手の理子が気づいてくれたら、と思うが、気にせずお茶をだしたら奥に引っ込んでしまった。

 それにしても、このやろう。

 ドアを開けた途端、そいつは「人間ではない」とわかった。いや、「乗っ取られている」と。

 にこやかに「依頼をしたいのですが」とこの探偵事務所に飛び込みの客としてこいつはやってきた。

 乗っ取られたやつというのは、目が違う。一見ただ沈んでいるようにも見えるが、完全に光はなく、そして黒目が妙にせわしなく動いているものだ。

 世の中には、こんなふうに乗っ取られたやつ、は死ぬほどいる。それはどこかで呪いとしてスタートし、解かれることもないまま永遠に作動し続けている。

「多少なりとも能力を持った人間の意識を分離させる」

 それがこいつの能力だった。

 魂や心、そして記憶とは違う。だから、一見分離しても誰も気づきやしない。しかし、「意識のありよう」は能力を発動させる、能力者にとって、真の自分自身だ。

 にしても、俺のやつ、なんにも気づかないで呑気に会話してやがる。どれだけ人間が、意識などまともに使わずオートマティックに生きているのか。

 そしてこのクソ野郎め、なにが心霊調査だ。どうやら男は動画配信を生業にしており、事故物件や心霊スポットを紹介しているらしい。次回の撮影に同行してもらいたい、だと?

 その前にお前はどこかでやらかして、「呪い」に触れてしまったのだろう。だから、公表していない能力を持っている男をいともたやすく嗅ぎつけてやってきたんだろう。

「へえ、なんでうちを選ばれたんですか」

「インスピレーションですね」

 そんなわけない。

 人間がインスピレーションを活用できるようになるには、それなりの努力というものが必要なのだ。

 そして、俺のいない俺がまんまと心霊スポットにいってしまったら、素人よりもひどいことになる。今の俺は耐性が能力を持っていないやつよりも低い。むしろマイナス状態だ。

 このままではまずい。あと一分。身体に戻らなくては、このまま空気に紛れ、俺という意識は消える。どうする?

 男が「いいですか」といってタバコを取り出した。

 しめた。男は火をつけ、大きく息を吸い込み、そして煙を吐き出した。おっさんの吐いた煙に紛れるのは気分が悪いが。

 その煙に花島は同化した。そして、一瞬花島の鼻がその煙を少し吸った。

 よし。俺の意識の一部が戻った。

 これじゃラジコンみたいだが、動け!

 花島はポケットの中にあった手帳から一ページ引きちぎり、ライターで火をつけた。

「なにをしているんです?」

 男がびっくりしていった。

「本当はセージが一番いいんだが」

 燃える紙片を灰皿に落とした。そして、「◎◉▼▶︎◀︎*◽︎⬛︎◼︎」

「なんですか、急に、なにいってるんですか」

 男は花島の口から小声で漏れる謎の言葉……言語でもイメージも喚起されない音を聞いた。

「停止」

 やっと花島から、理解できる言葉が飛び出したと思ったら、男ががくりとソファの背もたれに倒れ込んだ。

 花島が右手でなにかを掬い取るような動きをした。

 男から煙が漏れる。

 男の「呪われた意識」だった。

「理子くん、窓を開けて換気してくれ」

 花島が呼ぶと、理子がかったるそうにやってきた。

「そんなの自分でやってくださいよ、なんですか、なにか燃やしたんですか?」

 理子が鼻を手で覆った。

 花島はテーブルにあった男のタバコから一本抜いて、吸った。好きでもない銘柄だが、致し方がない。

 大きく煙を吸い込み、吐き出した。そしてその煙を鼻で吸った。意識もまた、その煙に大きく乗り、体内に戻っていった。

「本当はこういうときは香を炊くもんだけどな」

 花島はいった。

「あ、禁煙するっていったのに」

 理子がいった。

「やっぱり無理だな。それに、なにが起こるかわからないからタバコは常備しておいたほうがいい。魔除けにもなるし、攻撃、そして煙を使って自分を取り戻すことだってできる」

「なにいってんですか。ていうか依頼者の人になにか悪さしたんですか」

 理子が花島を睨んだ。

「いや、依頼者の仕事をしてやる前に、ちょっと準備が必要だったからな」

「受けるんですか?」

 理子は白目を剥いて天井に顔を向けている男に近づいて眺めた。

「ああ、このまま心霊スポットに行くのなら、もうこいつに耐性はないからな。守ってやらないと」

 呪いはかき消えた。そしてこの男の「意識」もとっくの昔に消えている。

 つまりこいつは、ただの「生きているだけ」の生き物でしかない。

 街を歩いていたらたくさんそういうやつはいる。だから恥じることも特別だと思うことも、ない。



(連作『サイレンサー』5)

 #KAC20241

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意識のない者 キタハラ @kitahararara

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