第55話【ああ、やっぱり彼女は素晴らしい】
この人はまるで、物語の主人公みたいだ。
そんなことを思ったことはないだろうか。
物語の主人公のようだと言わなくとも、あの人は大それた存在で、比類出来ない何かなのだと、別世界の人、別次元の人──そんな風に考えてしまう相手と、出会ったことはないだろうか。
運命、因果、必然、因縁。
生きている上で避けられないそれら振り回されつつも、振り回される者達の中で上位に位置している──そう思える人物と出会ったことが、一度くらいはある筈だ。
彼はある。
たった一度だけだが、あるのだ。
「箸にも棒にも掛からない、お前のような
彼女から投げ掛けられた言葉を、今でも一言一句、覚えている。そのときの声も、そのときの眼差しも、そのときの表情も、何もかも。
忘れられるものか。
忘れるものか。
ずっとずっと忘れない。
ヴォルデコフツォ家が主催の社交界で、うっかり彼女のドレスの裾を踏んでしまったときに言われた言葉だ。
公衆の面前で叩きのめされ、皆の前で蹲った後に賜った言葉。
これがヴォルデコフツォ家の支配者の姿か。
これが人の上に立つ者の振る舞いなのか。
皆を目八分に見る彼女は、かなりの器量人らしく、三年間従順な振りをしながら、水面下で乗っ取る準備をし、ヴォルデコフツォ家の
三年。子供とっては膨大な時間だ。七歳から一〇歳までの期間を使った遠謀だ。長計といってもいい。
陰に居て枝を折ることすら平然と行い、膨大な権力と財力でそれを許さざるを得ない状況にする──高嶺の花であり、雲の上の人物である彼女を間近で見ることが出来、罵倒という形であっても言葉を投げ掛けてくれたことに狂喜乱舞し、そんな彼女に近付きたいと願った。
彼女の尊大な振る舞いを自ら体験した日から、彼女をもっと知りたいと思い、彼女の傍若無人さに呑み込まれたいと思うようになった。
きっと、彼女は、自分のことなど忘れているだろう。
いや、これは案外結構な暴論かもしれない。
こちらが覚えているのだから、向こうが覚えている可能性は存在するだろう。少し前の発言ならまだしも、一年くらい前ともなければ、何気ない発言ならば、平気で忘れていることもあるだろうが、しかし言われた側は覚えていて、ひょっとしたら強い影響を与えてしまっていることもあるかもしれないのだ──ウテナにとってはいつもの通りの発言でしかないが、彼にとってはそうではないのと同じように。
彼女に影響を与えたのだとしたら、歓喜に震えると同時に、恐怖のあまり、体を震わせたくなってしまう。
彼女の心ない言葉が年月を重ねても、鋭くこの身を貫き続けているように、彼女の傍にいたラインハイトの存在が目に焼き付いているように──自分の存在が彼女を貫いていたとしたら、焼き付いていたとしたら、ああ、やはり、嬉しくて、恐ろしくて、情緒が狂いそうだ。
──高嶺の花であり、高慢で高貴な華である、高飛車な彼女に、覚えて貰える存在になりたい。
──そう思う反面、彼女には自分のような糟糠の存在など、一生気に掛けないでいて欲しい。
彼女の一生の存在になりたい気持ちと、一生の存在になりたくない気持ち──心が二つある。
「ああ、やっぱり彼女は素晴らしい」
彼はニンマリ微笑んだ。
彼女の前に立ち塞がる日を楽しみにしながら。
ドレスの裾を踏むという
Easy love disappears easily.
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