【KAC20241】今日こそは……。

音雪香林(旧名:雪の香り。)

第1話 大仕事。

私には三分以内にやらなければならないことがあった。


電車のつり革につかまりながら、ドアの横に立っている彼をチラ見して確認する。

彼が降車する駅に着くまであと三分。


今日は二度寝しなかったし、メイクも上手く行っていつもより三割増し美人になってる……と思う。


駅までの道のりで赤信号にひっかからなかったし、テレビのニュースでおとめ座は一位だった。


運のいい日だ。


だから……今日は、今日こそは一か月前から鞄に忍ばせているラブレターを渡す。

そう決めた。


ごくり、と生唾を飲み込んだ瞬間電車がトンネルに入って窓の外が黒く塗りつぶされる。

ここを抜けたら彼の降車駅まであっという間。


私はつり革から手を放して鞄からラブレターを取り出し、ぎゅうぎゅう詰めというほどではないけどそれなりに人がいる通路を「すみません」と謝りながら進んで彼の元へ行く。


彼はボーっとドアのガラス部分の向こうを眺めていた。


「あ、あの……すみません」


我ながら小さな声だし、震えている。

それでも彼の耳には届いたらしく、訝し気な視線と共に「俺?」と問いかけられた。


私は大袈裟なほどに何度も首を縦に振り、すっと桜色の封筒を彼に差し出す。

瞬間、トンネルを抜けて色どりを取り戻した窓。


彼はぽかんと口を開けた。

その表情に私は心臓が止まりそうになる。


本当は突然すみませんとか、返事はいつでもいいので読んで下さいとか、言葉を添えるつもりだった。


でも無理。

とてもじゃないけど緊張でのどが絞まって声なんか出せない。


彼は口だけじゃなく目もまんまるにして封筒を凝視していた。

手汗で封筒がふにゃふにゃになりそうだから早く受け取ってほしい。


私と彼の間になんともいえない沈黙が横たわったが、もうすぐ駅に到着するというアナウンスが停滞した時間を動かした。


彼が「あ、ありがとう」と返事をしてくれて、封筒を受け取ってくれた。

その直後電車が彼の降車駅に到着し、ドアが開く。


彼は「じゃ」とだけ残し、逃げるように早足でドアの向こうに去っていった。

プシュッと音を立ててドアが閉まり電車が動き出すと、私はよろけて手すりに縋り付く。


ようやくだ。

やっと、長らく果たせないでいた「ラブレターを渡す」というミッションを終了させた。


体中から力が抜けて行って、まるでコンクリート塀にのびるナメクジのようになる。

今はもう返事が色好いものかなんてところまで考えが及ばない。


とにかく大仕事をやり遂げた。

その達成感しかない。


帰りはご褒美にコンビニケーキでも買って帰ろう。

まだ一日は始まったばかりなのに、そんなことを考えるのだった。




おわり

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