星が綺麗ですね。」

卯月なのか

第1話

 

 好きな子と喧嘩した。

 

 客観的に見れば、別に大した理由じゃない。昼休み、向こうが部活の相談をしてきたから、こうした方がいいんじゃないかと言っただけだったのに、文句ばかり言うなと言われた。相談してきたのはそっちなのに。私は何だか釈然としなかった。苛ついているお陰で、手元の数Ⅱのノートは一向に白紙のままである。

 でも、苛立ちと同じくらい、私は不安だった。

 嫌われて、ないかな。

 そう考えた途端に、私の胸の中に、言いようのない恐怖が溢れた。脳裏に、昨夜のくだらないメッセージのやりとりがちらつく。このまま、喧嘩したままだったら、仲直り出来なかったら、そんなこともできなくなってしまうんだろうか。私、やっぱり言い方キツかったかな。

 慌てて板書を写したら、チャイムが鳴り終わった。謝らなきゃ。心臓の鼓動が速まるのを感じながら、彼の席に向かおうとした。でも、彼は他の友達と話しているみたいだった。今じゃないな。そう思い、席についた。でも、その途端に、ほっとしてしまった。あ、そうか。私は、自分が悪いことにしたくないんだ。私は、いつだって、自分からは言えないんだ。謝りたいことも、私の本当の気持ちも。それに気づいてしまったせいで、私はもっと自己嫌悪に苛まれた。なんかもう、全部怖いや。

 気を紛らわそうと、お気に入りの文庫本を開いた。中学生の時から好きなミステリ小説。でも、彼のことが頭から離れなくて、ページを捲る手は止まったままだった。友達と話す気分にもなれなくて、心の中のモヤモヤが、どんどん積もっていくような感覚になった。

 案の定、次の授業も全く身に入らない。六限の生物。時間帯のせいか先生のせいか、寝ている奴も多い。私も、いつもはアフリカゾウ並みに重い瞼をなんとかこじ開けて、この50分を耐えるのだけれど、今日はいつもと違う理由で集中できない。先生が一人でタンパク質がどうこう言っている中、私の頭は謝罪のための言葉でいっぱいだった。何と言えば、許してくれるのだろう。そもそも、許してくれるのだろうか。謝って、許してもらえても、気まずくなったりしないかな。元の私達に、戻れるのかな。

 私は、それからそんなことばかり考えていたようで、気がついたら帰りのHRが終わっていた。放課後、英語のワークノートを持ってくるよう、先生に言われていたのを思い出せたのは、運が良かったと思う。職員室の前にあるロッカー(というか棚)にそれらを置き、係の仕事は無事終われた。こんなこと上手くいっても仕方ないんだけどな、と、心の中で愚痴った。今日は部活も無いので、彼に会えるタイミングがもう無い。完全に終わった。

 ふと、視界の隅で職員室の扉が開いた。背の高い男子生徒が、失礼しました、と、少し高めの、遠慮がちな声とともに、職員室から出てきた。

「あ」

二人の視線が、ふと交わった。どちらのものともつかない宙ぶらりんな高さの声が、いやに静かな廊下に消えた。

「あのさっ」

彼の声は、私に向けられたものだった。私は驚いて、強力な磁石に引きつけ合ったみたいにぴたりと固まった。きっと今、ちょっと滑稽な、間の抜けた顔をしていると思う。

「さっきは、ごめん」

彼の目が、まっすぐに私を映す。彼の瞳の中の私は、なんだか陽炎みたいに、不安定に揺れていた。

「私も……ごめん。あんな言い方、ないよね」

あんなに考えていた謝罪の言葉は、すっかり忘れ去られた。小さく震えた、自分の情けない声に、涙が出そうになるのを、私はぐっと堪えた。

「ううん、僕もごめん。ちょっと、ムキになっちゃった。気をつけなきゃって、いつも思ってるのに……」

「ほんとに、ごめんなさい!」

自分の小さな爪先を見て、泣きたくなるのをぐっと堪えた。不安とか、安心とか、自分から言い出せなかった後ろめたさとか、色んな感情を嘔吐してしまいそうになる。

「ねぇねぇ」

私よりもずっと背の高い彼を見上げると、私の瞳の中には、すっかり、いつもの彼がいた。

「僕さ、授業中ずっと考えてたんだよね。このまま、なんか気まずいままだったら、嫌だな~って」

身体から、不安のおもりが消えていくような感覚が走る。こんなこと、言えないよ。

 私も同じこと考えてた、だなんて。

「ふっ」

脱力感から、変な声が出た。強張っていた顔の筋肉が、無意識に弛んでいたみたいだ。

「え、急にどうしたの?何笑ってんの?」

そういう彼の声も、柔らかな笑い声を含んでいた。

「ううん、なんでもない」

「え〜?」

私達の小さな笑い声が、いつもより少しだけ静かな廊下に溢れた。

 それから私達は、いつも通り、くだらない話をしながら、人が少なくなってきた校舎を並んで歩いた。校舎の外に出るまでの廊下には、私達しかいない。そう思うと、途端に会話の内容が頭に入ってこなくなる。私、前髪変じゃないかな。心臓の鼓動が、彼に聞こえているんじゃないだろうか。時折、ほんの一瞬だけ触れ合う肩が、私の胸を高鳴らせるのと同時に、植物の棘が刺さったみたいな痛みを与える。

 この手に触れたら、どうなってしまうんだろ。

その小さな疑問は、曖昧な何かを、 いとも簡単に壊しかねなかった。私は、ほんの少しだけ彼の方に出しかけた不格好な手を、そっと紺色のブレザーのポケットに隠した。

 二人でいるときは、いつもより時の流れが速いみたいだ。 駐輪場、というよりは、自転車置き場という感じの、ボロい屋根のついただけの場所に吹く風が、すっかり冷たくなっていた。

「ヤバ、僕らどんだけ喋ってたんだろ」

自転車に跨っただけの彼が、スマホを見て、やっと気づいた。

「寒いし、そろそろ帰る?」

「そうだね」

まだまだ日の短い今日は、17時半だというのに、もう暗い。毎年こんなに寒かったかな。そんなことを考えていたら、自転車を引いて、のろのろと歩いていた彼が、私の隣で急に立ち止まった。

「彩衣あいっ」

彼が、私の名前を呼んだ。彼は、女子でも仲の良い人は呼び捨てで呼ぶ。いつからだっけ、彼が呼び捨てで呼んでくれるようになったのは。それが嬉しくて仕方なかったのは、いつのことだったんだっけ。

「見て。空、綺麗だね」

彼に言われて、空を見上げた。私達のちょうど真上に、黄金色の、優しい光を宿した満月があった。そして、その隣には、それに負けない存在感を放つ一番星があった。その星は、夜の帳から零れたダイヤモンドみたいで、私には何だか、特別に思えた。悠久の時を生きてきた星は、私達のあまりに刹那的な瞬間を、静かに見守っている。

「うん、そうだね」

言葉と共に吐いた白い息が、冬の澄んだ空に消えた。

今だったら、本当の気持ちも、言えてしまうのかもしれない。満足感ともどかしさがせめぎ合う。

「廉れん、あのさ」

何だかぎこちなくなってしまった声で、彼がこちらを見た。その表情には、少しだけ驚きの色が見えた。そうだよね。私、普段あんまり名前で呼ばないもんね。

 でも、彼の目を、私は上手く見れなかった。言いたくて仕方なかったはずの言葉が、喉の奥で、空気の抜けた風船みたいにしぼんでいった。やっぱり、またにしよう。ちゃんと自分から、謝れるようになったらにしよう。今は、その時ではないみたいだ。それに、やっぱり今はもう少しだけ、このままでいたい。だから。

 私は、ふっと息を吸った。そして、にっこり微笑んで、言った。今の私が言える、精一杯の言葉を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星が綺麗ですね。」 卯月なのか @uzukinanoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ