〖KAC20241:3分間〗扉が閉まる前に――sideB

月波結

第1話 折れた踵

 わたし、斎藤理世さいとうりせには3分以内にやらなければならないことがあった。


 ポケットにはSuica、電車はさっきホームに入ったところ、目の前に停車。

 プシューっとドアが開いて、ラッキー、ドア脇の席が空いてる。

 あとは自動改札を抜けるだけ――。


「あ!」


 身体が傾いて思いっきり滑るように転ぶ。運悪くかかとが折れた。

 どうしよう?

 わたしの街には悪いことにローカル線しか走っていない。次の上り電車は30分後だ。約束の時間に絶対間に合わない⋯⋯。

 電車は無情にもわたしを置き去りにし、いつもと変わらない調子で滑らかに走り去った。

 残されたわたしの膝には血が滲み、ストッキングは見られたものじゃなかった。

 どうしよう。

 もう適齢期のいい大人なのに、涙がぽとりとアスファルトを濡らした。


「あの⋯⋯、大丈夫ですか?」

 その声は遠慮がちに背中側からかけられ、青年が目の前に現れた。

「Suica、落としました」

「拾ってくれてありがとうございます」

 涙を見られまいと拭った手の甲にアイライナーが滲む。もうなんでもいいや、という気持ちになる。

「それからその⋯⋯」

「はい?」

 早く行ってほしいのに。

「足が、丸見えになってて」

 青年は目を逸らした。真正面からはとても見られない、といった具合だった。

 龍明りゅうめいは「うちの親はカッチリした方が好きだから」と言ったので、わざわざスーツを買った。そのスーツもあまり無事そうではない。

「とにかく立てますか?」

「自分で⋯⋯あっ!」

 片方のヒールだけ折れていて、バランスが取れずに身体が傾く。そこを彼が見事に支えてくれた。

 細身なのに、力があるんだなぁと思う。気がつくと、腕の中だった。

「あの⋯⋯もう大丈夫です」

「ですよね、すみません。なんとなく危ない気がして」

 彼は真っ赤になっていた。きっと女性とのこういったことにあまり経験がないんだろう。綺麗な顔してるのにな、と関係ないことを考える。

「とりあえず座りましょう。僕、そこの薬局で消毒薬とか少し買ってきます」

「あ、お財布持って行って⋯⋯」

 言い終わらないうちに彼は去り、わたしはひとり木製のベンチに残された。


 黙って座ってても、なにも解決しない。

 してしまったことの償いをしないといけない。

 わかってても、バッグから取り出したスマホの通話ボタンを押すのに勇気がいる⋯⋯。

『理世! 電車の中じゃないのか?』

『⋯⋯ごめん、乗り遅れた』

 電話の向こうで龍明の髪が逆立つ様子が手に取るように見える。

『乗り遅れたってどういうことだよ? うちの親、もうすぐ着くし、それより1万5千円の料理、どうすんだよ!?』

『⋯⋯ごめんなさい、ヒールの踵が折れちゃって』

『お前のヒールの話は聞いてない!』

 ⋯⋯スマホからはなんの音もしなくなった。

 わたしはしばらくそのを聞いていた。

「ええと、大丈夫ですか?」

「斎藤です」

「お友だちとは連絡取れたんですか?」

「⋯⋯いいえ。でも大丈夫です。心配しないで。それよりいくらかかりましたか?」

「仁科です。お金より傷の手当を」

 彼は器用に傷の消毒を始めた。手慣れてる。

 見つめていると、その長いまつ毛がかかった黒い瞳が上を向いた。

「痛かったですか?」

「いいえ、その、慣れてるなと思って」

 彼は不意に下を向いた。不自然な俯きだった。

「僕は看護学校の生徒なんです。医者志望だったんですけど要するに成績が足りなくて」

「でも、どちらにしても人命救助する尊敬できる職業だと思いますけど」

「⋯⋯そう言ってくれるのは斎藤さんくらいですよ。僕は負け組です」

 しょぼんとした姿がまるでウサギのようで、その黒髪を撫でてあげたいような衝動にかられる。でもその前にわたしのそのための右手は、大きなバンドエイドが貼られていた。間違いを起こす前に、躊躇った。

「いいじゃないですか! 誰が今、なんて言ったって、就職したら仁科さんはたくさんの人から感謝されるんです。今からしょぼくれちゃいけません!」

 仁科さんはくすりと笑った。

 両手を握りしめて説得するわたしの姿が滑稽だったのかもしれない。

「はい、これ、お節介かと思ったんですけど」

 袋の中にはストッキングが入っていた。

「スーツを着て出かけるってことは大切な日なんじゃないかと勝手に思って。いらなかったら捨ててください。ほら、電車来ますよ」

「いえ、あの、さっきの分もお金払わせてください。困ります」

 彼は頭をかいて少し照れた顔をした。黒いサラサラの素直な髪が揺れる。

「実習代です。本物の治療は学校じゃなかなか体験できませんから」

 ほら、と言うように彼はわたしの背中を押した。

 まだ少し早い春の風が、背中を押すように――。

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