カフェ・クラムジイ~最後の来客~

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 最後の来客

 三月一日夜九時五十七分、東京・多摩モノレール沿線の閑静な住宅街にある「カフェ・クラムジイ」の店主・曽我部冬樹そかべふゆきには、三分間でやらなければならないことがあった。それは、三年間一人で切り盛りしていたこの店を閉めることだった。


 大学卒業後長く勤めていた地方公務員を辞め、念願だったカフェのマスターになったものの、開店当初から客足は鈍かった。コーヒーマイスターの資格を持つ冬樹は、自家焙煎のコーヒーにこだわり続け、食事メニューはコーヒーに合う小ぶりなケーキや菓子ばかりで、ガッツリ食べる学生や作業員が多いこの土地では受け入れられなかった。さらには駅前に大手コーヒーチェーンが進出したことで、一気に客足を奪われた。赤字は膨らみ続け、いつしか自分の生活すらままならない状態となり、悩んだ挙句、ついに店を閉める決断を下した。


 最終日となった今日も、客が一人も来ないまま閉店の時間を迎えようとしていた。壁にかかった古時計の短い針は「10」を、そして長い針はまもなく「12」の数字に差し掛かろうとしていた。店を閉める時間は刻一刻と迫っていた。閉店までまだ三分残されていたが、さすがにもう客は来ないと判断した冬樹は、少し早いけれどこのまま店のシャッターを下ろしてしまおうと思った。テナント賃料が払えず、ビルの貸主からは早々の立ち退きを求められており、早めに店を閉めて少しでも早く片付けを終えたかった。

 ドアノブを回し、北風が吹きつける表通りに出た冬樹は、シャッターに手を掛け、ゆっくり降ろそうとした。

 ずっしりと重いシャッターをゆっくり降ろすうちに、三年間のことが走馬灯のように頭の中を過った。思い返すと、そのほとんどは一人カウンターで寂しく過ごした日々だった。何も思い残すこともなく、シャッターを下ろす手は徐々に地面に向けて下がっていった。


「あの……」


 その時、冬樹の真後ろからかすかに若い女性の声がした。どうせ自分に掛けた声ではないと思い、冬樹はシャッターを再び下ろし始めた。


「中に、入りたいんですけど……」


 再び女性の声が聞こえた。それはちょうど冬樹の真後ろから聞こえてきた。

 ふりむくと、そこには一人の少女が立っていた。

 少女は厚手のダッフルコートを着込み、何重にも巻いたマフラーで頬の辺りまで覆っていたが、長い髪の毛とマフラーの隙間からあどけない顔つきがちらほらと見えた。

 寒さに震えながら、すがるような目つきで必死に何かを訴えようとしている姿を見て、冬樹はシャッターを下ろしていた手をぴたりと止めた。


「申し訳ないですが、もう閉店の時間ですので」

「そうですか……わかりました」


 少女の言葉はこの辺りと違う訛りがあった。白い肌に浮かび上がるくっきりとした輪郭を持つ大きな瞳は涙で潤み始め、強く握りしめられた拳は小刻みに震えているように感じた。

 その様子を見て冬樹は観念したのか、シャッターを下げる手を止めると、ゆっくりと真上へ持ち上げて行った。


「中へどうぞ。ただ、食材も食器も大分片付けてしまったので、まだ棚に残ってるコーヒーしか出せないですけど」

「はい!」


 少女はさっきまでの悲しみに暮れていた顔が嘘であるかのように、満面の笑顔を見せた。

 店に入ると、古時計が「ボーン、ボーン」と時報を知らせる音を立てていた。針はちょうど十時を指していた。

 少女はカウンターの前に並んだ椅子に座ると、冬樹は丸い眼鏡の縁をいじりながら気難しそうな表情で小さなコップに冷水を注ぎ込み、少女の目の前に置いた。

 少女は冷水を一気に喉の奥に流し込むと、両手を頬に当てながら、物珍しそうに店の中を見渡していた。


「あの、どんな味が好みですか?」


 冬樹が尋ねると、少女は、冬樹がたまたま手に取っていたフレンチプレスの器具を指さした。


「それ……フレンチプレスですよね」

「え? ご存知なんですか?」

「はい。私、フレンチプレスのまったりコクのある味が好きなんです。豆はお任せするので、それで作って下さい……あ、豆は中煎りぐらいでお願いします」


 慣れた口調で注文を伝える少女に驚きつつも、冬樹はフレンチプレスの器具に中煎りの豆を入れ、じっくりと抽出し始めた。フレンチプレスは、ポトポトと音を立て、香ばしい香りが徐々にさやかの周りを包み始めた。


「わあ、この香り……懐かしいなあ」


 少女は両腕と顔をカウンターに乗せながら、徐々にコーヒーの液体が抽出されていく様子をじっと見つめていた。


「はい。出来ましたよ。キリマンジャロのフレンチプレスです。この器具からカップに注いで飲んで下さいね」


 冬樹は少女の目の前に、可愛らしい紫の小花をあしらったカップとフレンチプレスの器具を置いた。少女はカップに少しずつコーヒーを注ぎ込むと、目を閉じながらゆっくりと飲み始めた。


「おいしい……」


 少女はカップを手にしながら上を向き、幸せそうな顔で感嘆していた。その後何度もカップに入ったコーヒーを口の中に注ぎ込むたびに、恍惚の表情で「おいしい」という言葉を連呼していた。

 冬樹は床に置いた段ボールに食器棚に入っていたカップや皿を詰め込みながら、時折横目で少女の様子を見つめていた。すると少女は突然、カップを見つめながら「お父さん……」と呟いた。


「あの……今、お父さんっていいませんでしたか?」

「はい。数年前に亡くなった父がコーヒー大好きで、自分でサイフォンとかペーパードリップでコーヒーを淹れていたんです。私も中学の頃から、父の淹れてくれたコーヒーを飲んでました」


 少女はカップをカウンターに置くと、スマートフォンを開いて写真を見せた。そこには、ポットでコーヒーサイフォンに湯を注ぎ込みながら微笑む初老の男性の姿があった。


「父の死後、就職してこの町に引っ越してきたけど、チェーン店のカフェしか見つからなくて……でも私は、父が淹れてくれたような本格的なコーヒーが飲みたかったんです。仕事が休みになるとあちこち出歩いて、やっとたどり着いたのがこのお店なんです。お店から漂ってくる香りを嗅いで、きっとここならば美味しいコーヒーを出してくれるんだろうなって思って」

「それは嬉しいですね。でも、そう思うならばどうしてすぐ店に入らなかったんですか?」

「だって私、岩手から出て来たばかりだし、そんな私が一人でここに来てもきっと身なりとかしゃべり方とか馬鹿にされるだろうし。そう考えると、入りたくても入れなくて……。今日もどうしようか迷って、マスターが出て来るまでずっとここに立っていたんです」


 冬樹は少女の言葉に驚き、少女の方を振り向いた。

 眼鏡にかかるほどの長さの真ん中分けの髪を掻き分け、鼻に手を当てながら、しばらく無言で立っていたが、その後ようやく口を開いた。


「そんなこと、気にしなくてもいいのに。ここではコーヒー好きならば、どこの誰であろうと関係ないですよ」

「そうでしたか! なあんだ、余計な心配なんかしなきゃよかった」


 少女は舌を出して苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、さっき僕が外に出なかったら、最後まで入れずじまいだったわけですね」

「はい……」


 少女は大きく頷くと、カップに残っていたコーヒーをゆっくりと口の中に注ぎ込んだ。


「このコーヒー、父が淹れてくれたのと同じ味がします。懐かしくて、そしてすごく飲みやすくて」


 少女はフレンチプレスの容器に入ったコーヒーを全て飲み終えると、椅子を降り、冬樹の前で一礼した。


「わがまま言ってごめんなさい。本当ならもう閉店の時間ですよね?」


 そう言うと、少女は財布から小銭を取り出し、レジの小皿の上に出した。


「いや、お金は結構です」


 冬樹は皿に置かれたお金を掴むと、少女の手の中に戻した。


「このお金で、ちゃんと器具を揃えてください。今度はあなたが、お父さんのように自分で美味しいコーヒーを淹れられるようにね」


 少女は目を潤ませながら冬樹の方を見つめていた。


「お代、貰わなくていいんですか……?」

「良いんですよ。何というか……あなたを見てると、応援せずにいられなくてね。まるで、自分自身を見ているみたいだから」

「私が……ですか?」

「僕もあなたと同様に中学の頃からコーヒーが大好きで、いつかは自分で喫茶店を開きたいという夢を持ち続けていました。でも、いざ大人になったら、自分の夢から目を逸らし、親の期待に沿おうとして公務員になってね。五十歳目前になって、やっと素直になったんです。それから慌ててこの店を立ち上げたんですよ」

「本当だ! 私と同じですね。どことなく不器用というか……」

「でしょ? この店の名前の『クラムジイ』って、僕自身の不器用な性格から取ったんですよ。まあ、こんな不器用な奴だから、経営がうまく行かなくて、開店からたったの三年で閉めることになっちゃったんですけどね。ハハハハ」


 冬樹は笑いながらそう言うと、少女も釣られるかのように笑い出した。


「あ、ちなみにあなたのお名前は?」

及川緋色おいかわひいろっていいます。緋色って真紅とか茶色に近い赤色って言う意味で、父が付けてくれたんです」

「へえ、ひいろか。さすが、コーヒー好きなお父さんがつけただけあるね」


 冬樹は緋色を入口まで見送ると、緋色は顔を紅潮させながら「がんばってください」と言い、両手を振った。

 緋色のはにかんだ笑顔を見て、冬樹はハッと目を見開いて緋色を見つめた。誰かの笑顔を見て、こんなに心を動かされたのは初めてだった。しかし、緋色の背中は既に視界から見えなくなり、冬樹は北風が吹く中一人路上に残されていた。

 冬樹はため息をつくと、中途半端な所で止まっていたシャッターを手で掴み、ゆっくりと地面まで下ろした。そして、シャッターの上に「三月一日をもちまして当店は閉店しました。長らくのご愛顧、ありがとうございました」と書かれた張り紙を貼り付けた。


これでもう、店のことで頭を抱える日々から解放される……冬樹は張り紙を見ながら、安堵した表情を浮かべた。

 しかし冬樹の心の中は全く穏やかではなかった。さっきから「おい、本当にこれでいいのかよ?」と、もう一人の自分が心の奥底から何度も問いかけてきているのだ。冬樹は、その問いかけを必死に無視していた。

 そう、「カフェのマスターになりたい」という夢から必死に目を逸らし、公務員の道を選んだあの時のように……。

(了)

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