冬のブランコ

梅林 冬実

冬のブランコ

覚えのある小さな影。


何故私があなたを知っているか。

まずその疑問に答えねばならない?


あなたはかわいい子。素直で優しく愛らしい笑顔のかわいい子。あなたのことを好ましく感じていたのは多分、私だけじゃない。滑り台で楽しそうにしているあなたを眺めていたあの人、桜の花びらを小さな掌に載せ、ふぅっと息を吹きかける様を微笑んで見つめていたあの人。

そう。きっとあなたを知る誰もがあなたの愛くるしさを、微笑ましく思っていた。

いつもおばあちゃんと一緒にいたあなた。弟をとても可愛がっていたあなた。聞き分けのいい子なのは一目で見てとれた。

かわいいあなたを抱きしめておけばよかった。


どんなに後悔しても、もう遅いけれど。


 木枯しが悲鳴をあげる。薄曇りの空の下、乾いた靴音を立てて私は歩く。

見慣れた街の歩き慣れた道。信号の位置、街路樹の本数、コンビニの名前、公園前の一風変わった邸宅の屋根。


全て知っている


目新しい何か、新鮮な驚き。そんなものとは全く無縁の住宅街。ここにあなたは間違いなく存在して、私はあなたの姿をこの目に捉えた。柔らかそうな黒髪、黒目の大きな優しい瞳。


知らなかったの。あなたがあんな目に遭っているなんて。

そういえば姿を見なくなったと薄く感じていたくらい。

元気なあなたの姿を見なくなったと気付いたとき、出来たこともあったかも知れない。

そんな風に考えると苦しくて堪らなくなるけれど、あなたの苦しみはこんなものじゃなかったものね。だから私はそれから逃げない。あなたのことを知っていたのに、それを知らなかったからといって知らん顔していた者として、逃げるわけにはいかないの。


公園なんて年でもないけど、でも入ってみる。北風吹きすさぶ砂場にも脇の滑り台にも誰もいない。私はひとつ溜息を吐いて鉄棒の横に設置されたベンチに座り、冷たい風に揺らされるブランコをじっと見つめる。

コンビニで購入したカフェラテに口をつける。喉元でごくりと音を立て気管を通る。体内に温かな流れを感じた。


最期は胃に何も残っていなかったってね。

体に付けられた無数の傷に、30年のベテラン刑事が目を背けたってネットで見たよ。

「可哀想に。どれほど辛かっただろう」

刑事が呟いたという言葉に強く共感した。あなたのことをよく見かけていた、可愛い子だなと思っていた私の胸に、あなたの最期はきっと抜けない冷たい刃となって食い込んだ。


3年の人生に何を見たの?

楽しいことはあった?幸せに感じることはあった?

おばあちゃんと一緒に滑り台で遊んでいたあなたの姿を思い出すたびに、そんな時も少しはあったと思ってあげたいなんて考えてしまう。

あなたのことを、あなたを生んだだけの女も、女と共にあなたを痛めつけた男ももう、忘れようとしているみたいだから。せめて私だけでもあなたを覚えていたいと思うんだ。

悪い人はお巡りさんが捕まえてくれたよ。2人とも20代は棒に振ったって。でも30代の頭に出てくるなら、やり直せないことはないって誰かが言ってた。


そうなんだね。やり直せるんだ、あの2人。

「まだちっちゃい子もいるのに!あんまり悪く言わんで!!」

あなたを可愛がっていたはずのおばあちゃんは、あなたが初めからいなかったことにしたいみたい。信じられないけどね。娘と幼い孫と。大切な2人を守っていくんだってマスコミ相手に啖呵切ってバッシングされてるけど、痛みを感じることはないんじゃないかな。あの人は。

あんな風に割り切れるものなのかね?不思議で堪らないよ。

私は子供がいないからよく分からないこともあるんだけど、あなたみたいに可愛い子をもてたなら何よりあなたを守って愛して慈しんで、育てると思うんだよね。理想と現実の違いを私は知らないから、勝手なことを語っているのかも知れないけれど。でも、これが正直な気持ち。


もしあなたと一緒に暮らせたならって、考えてしまう。幼稚園バスに乗るあなたを見送って、ダッシュで会社に向かって。

学童に預けたあなたを迎えに行ってさ。先輩みたいに

「1分遅れただけで30分延長料金かかるから!」

って、大慌てで職場を出てさ。うおーっ!と叫びながらあなたを迎えに行くの。

帰りにスーパーに寄って夕飯のお買い物。

「何食べたい?」

なんて聞きながら。あなたは好き嫌いがなかったってね。だから子供が嫌う食べ物でも栄養価が高いなら普通に食卓に出したろうな。

一緒にいただきますして食事して。食べ終わったらあなたはテレビを観て、私は食器を片付けて。

食休みしたらお風呂に入って。

お風呂がとても怖い場所になってしまったあなたの心を、ゆっくり解せたらと思った。湯船のお湯は熱くないよ。大丈夫だよ。ほら、お姉ちゃんは普通に入ってるよ。熱くない。ちょっと触ってみる?ちょっとでいいから。なんて声かけながら。いい子のあなたは怖くて堪らない気持ちを必死に堪えて頑張って、お湯にちょっと触れたんじゃないかな。熱くないって分かるまで。

シャワーのお湯も熱くないよ。とても気持ちいいよってお話ししながら体を洗ってあげて。

一緒に湯船につかって10まで数えて、お風呂からあがったら

「気持ちよかったね」

なんて話して。うん、と頑張って頷いてくれたんじゃないかな。


歯ブラシはね、歯を清潔にするために使うものなの。お口に意地悪するための道具じゃないんだよ、って何度も教えて使って見せて。

怖いって泣くかもだけど怖くないよって。ちょっとずつ磨いてあげて。

あの恐怖から逃れるために、どれほどの時間を要するものだろう。

「あんな傷は見たことがない」

医師の言葉にあの子の凄絶な日々を思う。おばあちゃんはもうあなたから離れてしまって随分経ってたってね。心配しなかったのかな。あんな女と、あんな女が連れ込んだ男と一緒にいるあなたのことを。


この寒気だ。半分飲んだ頃にはもうすっかり、温かかったカフェラテは冷めてしまった。

手袋なんて持ってない。かじかむ指先に感覚はあまり宿らない。でも我慢する。

あの子をあいつらは平然と外に追い出した。泣いて許しを乞うあの子を腹の底からあざけ笑い、死ねと吐き捨てたという。

何も悪いことなんてしていないのに。

おもちゃを片付けなかった罰だなんて、3歳の子供に何を言うのよ。あんたなんて自分の感情さえ満足に片付けられなかったくせに。

2人とも裁判では罪を互いに擦り付け

「娘を大切に思っていたのに、男が怖くて助けられなかった」

と産んだだけの女がほざけば男は

「付き合い始めは庇っていたけど母親がすることに他人が口を挟むのもどうかと考えてしまって」

と抗弁したとニュースで知った。怒りとか憎しみとか、そんな生っちょろい表現は一足飛びに越えて、あの子と同じ目に遭わせてやりたいと気持ちを迸らせた。こういう人に限って自分の傷にはギャーギャー騒ぐのだ。こんな酷い目に遭わされた!私は!俺は!悪くないのに!って。


しねよ


口走りそうになるからいけない。あの子のためにもそんなこと、絶対に言ってはいけない。

ただ、命の重さを説くならあいつらより、あの子の方が遥かに大切だったという気持ちを抱くのは、私以外にもたくさんいるんじゃないかと思う。これからの人生なんてたかが知れている男と女より、何にでもなれたあの子を助けてあげたかったと切望することは何も、悪いことではない。


あの子のことを思う毎日を過ごす間に、あの子が夢に出てきた。

降り積もる雪。一面の銀世界。向こうに見えるブランコ。向かって右のそれに座るあの子。

 私はあの子に近付いた。やっと会えた、よかったと。

「迎えに来たよ」

声をかける私に俯いていたあの子が顔を上げた。純真だった瞳は真紅に染まり、顔のどこにも表情を浮かべない。

報道で知った名前を呼ぶ。その子は微かに頷く。

「どうしたの?」

目覚めて、あれほどの愚問もないと臍を噛んだ。あの子は何も語らず何もせず、ただただ凍えたブランコに腰掛けていた。じっとその目を見つめてみる。何かしら伝わってくるものがあるのではないかと期待して。


けれど


真っ赤な瞳はじっとその色を湛えるだけで、想いを一切見せなかった。小さな手の平は両側のチェーンを握ったまま動かない。

「寒くない?」

最後にかけた言葉。あの子は何も言わなかった。


あの日から1年が経とうとしている。冬枯れた街にあの子の影を探そうと試みた。

見知ったコンビニでいつものカフェラテを購入して、あの子が遊んだ公園のベンチに腰掛け、じっとブランコを見つめる。


自分を慰めたいだけね


そう気付くまで、私はそこにいた。

あなたの影を探してもあなたはもういない。

あなたの毎日をもし私が知ったなら、きっと助けたのに。あんな冷たい雪の中に独りぼっちにさせるような真似は、絶対しなかったのに。

あなたという大切な存在を失ってしまったことに、私は喩えようのない苦しみを味わっている。

逃げないけどね。あなたが味わった難儀とは比較にならないもの。

あまり雪の降らないこの街がもし銀色に染まったなら。

私はもう一度ここに来てあなたの名前を呼ぶね。舞い散る雪の白に、あなたの魂が浄化されるときっと信じて。

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