乳白色の水滴

りりぃこ

土星の衝の日


 空に散らかった乳白色の水滴を眺めていると、胸に空いた巨大なに、その小汚い水滴が入ってきそうで気持ちが悪くなる。

 だから僕は星空が嫌いだ。星が瞬く夜に空なんか見上げたら吐き気を催す。

 天体望遠鏡は星空が見えない。星しか見えない。星空を見ないために、僕は天体望遠鏡を使うのだ。


 ※※※※

 天体望遠鏡で見ていた土星が逃げた。

 軌跡を追おうとして、望遠鏡を動かしていると、君は暇そうな声を上げた。

「ねえ、もういいんじゃない?帰ろうよ」

 ねっとりとしたその声は、乳白色の水滴を思い起こさせて胸焼けがする。

「まだ来たばかりだ。それに今日は土星の衝の日なんだぞ」

 僕はそう言い放って、君を無視するように望遠鏡を覗いた。

「しょうって?」

「土星が地球から見て太陽と反対になる日だ。とてもキレイに見える。というか、この説明は何度もしたはずだ」

「あたし馬鹿だから何回も説明されなきゃわかんないもん」

 文句を放つ君は、多分今口を尖らせていることだろう。

 僕は君の姿を見ないように、望遠鏡から目を離さなかった。


 君のいま着ている真紅のワンピース。その姿を、僕は見たくなかった。

 そのワンピースを君に買ってあげたのは、君の大好きな彼氏で。君はそのワンピースが大のお気に入りで。


 だから今日も、ここに来るのにそんな格好をしてちゃいけないのに、馬鹿な君はそんな格好で僕に着いてきたのだ。

 短いスカートで。胸に真紅の薔薇を携えているかのような、そんな格好で。



「でも土星の衝って、当日だけじゃなくても前後一週間くらいは同じように見えるって前に言ってたよね?別に明日また来ればいいじゃん」

 彼女はつらつらとそう主張した。

 なんだよ、僕が教えた事、ちゃんと覚えてたんじゃないか。

 僕は望遠鏡から目を離す。

「今帰って、その後どうするんだよ」

「いいことしよ」

「いいことって……」

「一緒に来てよ」

 君は悲しそうに笑う。

 そして、そっと僕の体にわざとらしくその小さな胸を押し付けてきた。

「性的嫌がらせだ」

「セクハラの事?あたし女だから大丈夫だもん」

「セクハラは男女問わない」

 僕の言葉に、君はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「さすが弁護士、詳しいよね」

「僕は弁護士じゃない。まだ試験にも受かって無い、ただの学生だ」

 僕は素っ気なく答える。


「自首って、ちょっと罪軽くなるんだっけ?どれくらい軽くなるか分かる?」

 僕の話を無視して君は続ける。

「セクハラの自首?」

 僕はわざととぼけてみせた。

「違うよ」

 君はティッシュみたいに優しく、でも少し苛立っているようだった。

 僕は小さなため息をポッと放ち、機械的に答えた。

「自首は、犯罪発覚前、もしくは犯人判明前に申告することだ。多分もう君の彼氏が刺された事は事件になっているし、警察も君を犯人だと断定して行方を追っているはずだ。今からの警察に行っても自首にはならない」

「あはは、そうなんだぁ。残念」

 そう乾いた声で笑う君に、僕は顔をそらしたまま言葉を凍らせた。


「ねえ」

 またねっとりとした声で君は僕に近づいてきた。

「あたしの弁護、してよ」

「だから、僕はまだ弁護士じゃ……」

「してよ」

 ねっとりとした声ではなかった。

 ようやく僕は君の顔を見た。暗くてよく見えなかったが、多分君は、メイクも崩れるくらい、びちゃびちゃに泣いていたんだと思う。

「どうして、あと数年待てなかったんだよ」

 意識はしていなかったが、責めるような口調になった。

 あと数年待ってくれれば、僕が君の弁護をしてあげたのに。僕はまだ学生だから何もできないんだぞ。

 いや、あと数年待ってくれれば、法的知識でデートDVを重ねる君の彼氏から君を守ってあげて、君が馬鹿な事をしないですんだのかもしれないのに。

 いや違う。




 僕は嫌いな星空を見上げた。

 空に散らかった乳白色の水滴。それは僕が隠していた君への薄汚い欲望そのものだ。



 「あたしを彼からはなさないでよ」

 怖い顔でそう言っていた君。

 でもいつだって、無理矢理でも君を彼氏から引き離すべきだったんだ。

 あの日、顔を真赤に腫らしていた君を見た時にすぐにでも。

 無理矢理君を彼氏から奪い去って、逃げて、もしかしたら君はまた戻るかもしれないけどまた奪って、逃げて、甘やかして。彼氏じゃなくて僕に依存するようにひたすらに甘やかして。

 そうしていれば、今日、君は彼氏を刺したりなんかしなくてすんだかもしれないのに。


 君が僕のアパートに、あの彼氏の心臓からの真紅の体液にまみれたワンピースで現れた時。

 君が、抵抗した彼氏に引きちぎられて短くなってしまったワンピースのスカートを抑えながら現れた時。

 どうしてすぐに一緒に警察にいかなかったのだろうか。

 すぐに行けば、まだ事件の発覚もしていなくて自首扱いになって、君の罪は軽くなったかもしれないのに。

 僕は何も見たくなくて。星空を見ないために望遠鏡を覗いていたように、君のしでかした事を見ないために、今日は土星の衝の日だから今から天体観測に行こうと、誘ってしまった。着替えてから行こうと。

 僕は証拠隠滅と逃亡を図ろうとしたのだ。




 僕は天体望遠鏡を勢いよくなぎ倒した。満天の星空の下、望遠鏡はガチャリと大きな音を立てて壊れた。君は一切の動揺も見せなかった。




 僕は着替えを勧めたのに、君はその時、ワンピースを脱がないと言ったのだ。急にそれを今思い出した今、僕の次に言うセリフは決められてしまった。



「そうだね、一緒にいいことしよう。一緒に警察に行こう。」

 それは降参のセリフだった。

 証拠隠滅も逃亡も、しようとしていたのは僕だけだ。君は最後まで、彼氏から手を離すことはしないのだろう。

「弁護、してくれる?」

 刑事事件は弁護士資格を持ってないと弁護はできない。そう言おうとしたけどやめた。

 僕は君の血みどろな手を掴んで言った。

「そうだね。手、繋いであげるから」

 僕の言葉に君は嬉しそうに頷いた。




 土星が少しだけ大きく見えるはずの夜、しかし望遠鏡を壊してしまった今は土星も乳白色の水滴の一部である。

 吐き気がする。

 君のことも、僕も。



END






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