第22話ヴァンルードの発狂
(あんなによれよれの服を着て、凄くやつれて…まるで3日も寝ていないみたい)
すっかり目窪が落ち込んだヴァンルード侯爵は言った。
「君を僕の側女として迎えたいんだ。どうかな?」
「は?」
なぜそうなるのだろうか。あの日、私を裸足で追い出したのは他ならぬ貴方だ。
全く光が宿っていない虚無を映した瞳で言った。
「だってカールライヒ伯爵が死んだのなら、フォレスティーヌはここで暮らしたいのだって。なら君はご実家に帰ることになるけれど、僕はフォレスティーヌと眠れないのは寂しいから、そんな日は君を抱いてやっても良いかなって最近そんな気持ちになったんだけど。まあ、いつもの湯たんぽ代わりだ。…しかし、まさか君にそんな男癖があったなんて。死んだ夫の家に愛人を連れ込むとは、君は意外と大胆だ」
旦那様は大きな瞳でしっかりとヴァンルード侯爵を見つめている。
私は唇を噛み締めてから言った。
「ヴァンルード侯爵、自分の妻が前の夫の家で暮らすなど、そんな妄言を聞き入れるのですか!?」
「だって、フォレスティーヌがそう望むんだから。君は変なことを言うね?彼女が望むことは絶対叶えてあげなくては。フォレスティーヌの気持ちが漣立つことなく、毎日微笑んでくれることこそ一番大切じゃあないか。それで君は僕のことを愛しているだろう?なら帰ってくれば良い。うん、実によく纏まった」
「あ、愛してなど…愛してなどいません!」
ヴァンルード侯爵は蕩けるような目で私を見つめる。しかし目線は合わない。
私を追い越してどこを見ているのか、だが確実に左手で私の顎を掴もうとした。
「にゃあと言ってみろよ。飼い猫でも幾つか家を渡り歩くというけれど、最後はきちんと飼い主の元に帰らなければ」
それで、なぜそうなったのかは分からないけれど、風のような速さで旦那様がヴァンルード侯爵の腕を掴んだかと思うと、次の瞬間にはヴァンルード侯爵は床に転がり、旦那様はその背中に跨っていた。
「人の妻を随分と侮辱してくれるじゃあないか、若造。うん?」
膝の上に腕をだらりと乗せて、長い足と足の間に、その若造の顔を覗き込む。
ここからは、ほとんど髪の毛しか見えないが、その髪の隙間から鋭い眼光がギラついている。
「つ、妻ぁ?お前誰だよ!血迷ったことを言うなよ!?リリアがまた再婚したなんて話は、聞かないッッ!」
ごすんと重たい音がした。
右手で、ほとんど叫喚に近いその言葉ごと頭を押さえつけたのだ。
軽い吐息を漏らして汗ひとつかいていない顔をゆっくり上げて、耳にかかるほど伸びた髪の毛を左手でかきあげる。サファイアの指輪が光った。
その仕草に見惚れてしまう。何故こんな時にと思う。そんな場合ではないのに、目が離せない。
旦那様は唇の片方だけで笑う。
「血迷ってるのはどっちだよ」
「お前…ぶ、無礼だな。手をどかせ!」
首をぎりぎりまで捻ってなんとか言葉を発していた。首筋に青筋が立っている。皮膚は真っ赤だ。
「無礼は貴様だ、ヴァンルード。それと、さっきから好き勝手に言ってくれるじゃないか、フォレスティーヌ」
お姉様は片眉を吊り上げて首を傾げた。
それから顔を赤くして、わずか震えた。
絶頂を迎えたような恍惚とした表情をしている。
「…あなた、私の愛人になったら良いわ。リリアの愛人なんて勿体無いわね。ねぇ、どおしていつもリリアちゃんはお姉ちゃんよりも良いものを持ってるんですか?ちょおだい?」
つう、と私の顎を人差し指で撫でた。
全員が目を疑ってその光景を見ている。
お姉様は軽やかに机にあったペンを取ると、旦那様の背中にササッと自分のサインを書いた。
「はい、これで、私の。ね、リリア、良いでしょう?私この人欲しいわ。まるで奴隷みたいに乱暴で粗野で野蛮だわ。良いなあ、リリアはこの人に毎晩何度も抱かれてるのね?そうなんでしょう?でも今日から私のものよ、良いわね?あなた、お名前はなんて言うの?」
お姉様はキラキラした目で見つめている。
旦那様は、眉根を寄せて立ち上がるとサインが入ったジャケットを脱いで床に叩きつけた。
ヴァンルード侯爵は唸りながらやっとの事起き上がっている。
「私の名前は、カイザル・カールライヒ。リリアは私の妻、私はリリアの夫だ」
「ん?この人頭がおかしい人?」
私の顎をなぞったその指を頭の横でクルクルと回した。
「頭がおかしいのはお前らではないのか?無礼なのはお前らだろう?人の家にズカズカと上がり込みやがって。誰がフォレスティーヌ、貴様の愛人になどなるものか。ヴァンルード、人の妻を側女にするだって?二度とその口を聞けないようにしてやる。もう一度太って乗っかってやろうか?圧死するかもしれないぞ」
お姉様もヴァンルード侯爵も呆けた顔をしながらも、思考している。
自分の理解の範疇を超えた時、人はこんな顔になるのだろう。
旦那様は、今まで椅子代わりにしていたその人に向き直って言った。
「そうそう、ヴァンルード侯爵殿、目眩は良くなりましたかな?」
「め、めまい?」
人差し指を突き立てて誦じた。
「ここのところ血の気が引いたり眩暈を起こす事があるのです」
ヴァンルード侯爵は尻もちをついたまま、じりじりと退がる。
「あ、まさか…ほ、ほんとうに?」
その声は震えている。
お姉様はそんな二人を交互に見て困惑しながら言った。
「うそ、嘘よ。か、髪の毛だってこんなに無かったし、なによりそんなに痩せてなかったし、仮にもし痩せたとして、そんなにいい男じゃないわよ!カールライヒは死んだんでしょう!?」
「ああ、死んだ。…だが地獄の底から舞い戻った」
やっとのこと立ち上がって、ふらつく足を叩きながらヴァンルードはほとんど吐息のような声で言う。
「世迷言を…」
「真実を伝えようか、確かに私の心臓は一瞬止まった。だが、リリアの機転によって止まった心臓は活動を再開したのだ。それから昏睡した。随分眠っていたが死ななかった。太っていたからな。目が覚めた時には、すっかり痩せこけていた。今では生活習慣を見直してこの通りだ。疑うのなら四十路を超えた貴族たちを連れて来たらいい。若い頃の私を知っている者なら、真実私はカールライヒだと証明してくれるだろう」
誰もが沈黙した。やがて、お姉様がその沈黙を破る。
「なァんだ」
「フォレスティーヌ?」
「じゃあ、旦那様、貴方もこれくらい身体を鍛えて、これくらい稼いで?」
「む、無理だよ、そんな。第一もううちには雇人の今月の給料すら捻出するのが難しいんだよ?僕も売れるものはほとんど売ったんだ。カールライヒ伯爵ほど稼ぐだなんて…」
「だってぇ、カールライヒが私の好きにさせてくれるか、貴方が鍛えて稼ぐかの二択しかないじゃない?」
「言っておくが」旦那様は良く通る声で続けた。
「私はリリアに関しては思いっきり好きにさせている。フォレスティーヌ、貴様と違うところは、彼女は慎ましいことだ。私は好きな女性に関しては投資を惜しまない。失敬な」
まるで激昂を奥歯で噛み潰しているような顔だ。
「……ねぇ、なんで?なんでリリアがいっつも欲しいものを持っているの?」
「全てお姉様が手放したものです」
「やっぱり返してよ」
「返しません」
そうキッパリ言い切ると、気が付いた時には、燭台を握りしめた拳が眉間の前にあった。
瞬きする間も無いと思われたが、衝撃はない。
でも、血が
血が滴っている。
何故。
違う、旦那様が私の目の前にいる。
「旦那様、ああ!」
私を庇って額に傷が。
でも目の前の人は何も気にする様子はない。鼻筋を伝って顎から何滴か血が落ちた。
「額の傷もお揃いだ、リリアは気にしなくていい」
それから、バタバタと足音が聞こえてきた。
マイロが制服姿の男性数人を連れて、こちらを指差す。
目視でお姉様とヴァンルードを確認すると、そのまま取り押さえた。
「何よ!私が何をしたって言うのよ!ここは私の家よ!」
「…『貴婦人ノ会』、君はそこの会員だろう?」
大きな瞳をこれでもかと見開いて、それから金髪の髪がだらりと垂れて顔を背けた。
旦那様は続ける。
「ヴァンルード、君は知っていたかな?この女は喜んで奴隷と男女関係を持っているんだぞ?」
「そんな訳ないだろう。フォレスティーヌはなんだって一級が良いんだから」
「言っておくが、私とフォレスティーヌは褥しとねを共にしたことすらないぞ。何故って?フォレスティーヌは太った私に触られるのを嫌がったからだ」
「まさか」
「お前は当然前夫とそういうことがあったと思い込んでいただろう?だが、処女を奪ったのは私じゃあない。さて、誰だろうな?」
「……ない」
「なんだ?」
「妻を侮辱するんじゃない!!!」
「……あの時、リリアに対しても、それくらい言ってもらいたかったな」
「あらぁ」と素っ頓狂な声が聞こえた。
「旦那様?私、旦那様に抱かれるよりも奴隷の男に抱かれる方が好きなの。私がそうしたいと言っているの。そうだわ、お気に入りの奴隷がいるのよ、異邦民なんだけれど、うちで雇って?それから彼の部屋を作って。ね、良いでしょう?」「ねえ、旦那様、ねえ」「旦那様ったら」「聞いてる?」「無視は許さないわよ」「聞いてよ」「彼を早く雇って。ねえってば」「1週間以内に着工して。ねえ、ねえ、ねえ、ねえ」
「ああああああああ!!!!!!!そうだね!フォレスティーヌ!そうだね!!雇ってあげるよ!その奴隷の彼のために素敵な部屋をつくろうね!!!」
ヴァンルードはふうふうと肩で息をして、それから
「げえええええ」
思いっきり嘔吐えずいた。でもきっと何日も食べていないのだろう。これ以上ないくらいに開いた口からは何も吐き出されてこない。
退出を促されて、血走った目をこちらに向けたまま連行されていった。
それに続くように連れて行かれるお姉様は扉の前で止まった。
「ずるいじゃない、何か一つくらい分けてよ」
憐れみの笑みで姉に答える。
「分けても、結局全部欲しがるでしょう?」
「だって私は特別なの。お父様とお母様だって、きっと私のことを怒らないわ?だって私、いつも…ねえ、お父様とお母様を呼んでよ!」
「お姉様?勘違いされているみたいですけれど、あの二人はお姉様に"気を遣って"いたのよ?」
お姉様は鼻で笑う。
「馬鹿ねぇ。私は評価されているの、100点の私と5点のリリア、同じようにドレスを汚しても怒られるのは貴方だけ。なぜなら、私は元々の評価が高いから。だって私、お父様にもお母様にも怒られたことがないの。リリアはいつも怒られてばかり。喧嘩をしても怒られるのはリリアだけ。私は評価されているから。奴隷の子を妊娠した時だって……」
と言って固まった。
口角をあげ固まった笑顔のまま周囲を見回した。
「ほおら、誰も私を怒らない。私ね、貴方がお父様から怒られている時だけ、ものすごく満たされている感じがするの」
頬に手を当てて、うっとりしている。
「歪んでいるわ」
「そうかしら?正しいのは私、正義は私。何をしても、私がすることなら間違いでも正しいことになるの」
「本当にそうだと言える?」
お姉様は嗤った。
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