第20話噴水で
「月に照らされた君の美しさは例えようもない」
旦那様の賛辞を受ける。その度にそわそわしてしまう。
噴水の淵に腰掛けていると、飛沫が少しだけ髪を濡らした。
気になってつい髪を触ると
「奥様、あまり動かれませんよう」
と絵師が慌てて、それから
「うーむ…この輝きはどう表現したものでしょう…とても絵では表現しきれません」
と言った。
「どれ、見せてみろ」
旦那様が近づいて絵師と共にキャンバスに向かって「ああでもないこうでもない」と言って、やがて「なるほど!それは妙案です!」
絵師は大いに張り切って一気に描き上げていった。
しばらくして、大満足の顔で旦那様にキャンバスを渡すと、旦那様も笑顔で頷き、それを見た絵師は脱力して帽子を胸に当てて深々お辞儀した。
「旦那様に言われた通り、仕上げをして納品いたします」
「楽しみにしている」
旦那様は今日一日中ずっとあんな調子で機嫌が良い。
私もつられてふわふわと雲の上を歩いているみたいで不思議な気分だ。
旦那様が手を取ったので立ち上がると、月明かりに煌めくその睫毛が、よく見える距離に近づいた。
伏し目がちな瞳はうっとりしているようにも見える。
「美しい人、このまま口づけの許可をもらえないかな」
「えっ…」
唇が触れるか触れないか、少し言葉を発するだけで、くすぐったい。
私が答えられずにいると
「こんな野暮なことは聞かない方が良かったかな」
「っ…」
吐息が混じってどちらのものか分からない程だ。
旦那様は顔をあげてそれから、
おでこに
おでこに唇を
だから、私は、
「やめて!」
旦那様を突き飛ばした。
鍛えている成人男性を突き飛ばしたところで、高が知れている。
けれど、そのまま二歩三歩と下がった。
「マイロから、聞いている」
なにを
「ヴァンルードは夜寝る前に、唯一君に口付けを落とした。それが」
すっかり生えそろった髪をかき上げて言った。
「額だ」
「あっ…」
動悸がする。
旦那様は私に近づいて一束髪を掬い上げた。
「濡れているな。湯浴みをして今日はもう休むと良い。風邪をひいたら大変だ」
(こんな時でも私を思い遣ってくれる旦那様になんてことを。私はなぜあんな…)
くらくらする。天と地とが逆さになってしまったよう。
ヴァンルード侯爵の声が頭の中で反響した。
『愛しているよ、お や
す
み』
ぐわんと歪む。
吐きそうだ。
「ひあ」
小さな絶叫。
私はそのまま噴水まで駆けて行き、その縁に向かい額を打ちつけた。何度も何度も何度も何度も
「こんな思い出!いらない!いらない!」
赤い雫が宙に舞っている。その雫が落ちることの、なんとゆっくりなことか。
(思い出も、この雫と共に消えてくれないかな)
肩を思い切り引っ張られる。
目に血が入ったようだ。前がよく見えない。
旦那様が抱きしめてくれている感覚を頼りに、その背中にぎゅうと腕をまわした。
「仕方のない女で申し訳ありません」
返事はなく、ただ小刻みに震えているのが分かる。
力が緩まると、ハンカチで額を抑えられた。ハンカチを抑えるその手はぶるぶると震えている。
「れ、あ、あ…れん…ぐっ…レンダーを…レンダーを…」
「何を仰るの?貴方を傷つけた罰を受けなければ」
「どうして君は…」
「どうして私はこんななのでしょうね。価値のない女に価値をつけたらいけないのです」
「ああ…君は…君は…」
「未だ元夫のことを思い出すなんて、私はどうしようもない女なのです」
旦那様は袖で顔を拭ってそれから大声で叫んだ。
「レンダーを呼べ!!!!!」
✳︎ ✳︎ ✳︎
「出血の割に傷は浅いですから、跡に残ることもないでしょう」
「もう休むところだったのでしょう?ごめんなさいね」
「いえ…そんな…」
老齢の医師は私をじっと見た。
「それにしても無茶をしましたなぁ」
「自業自得なのよ。私は私が許せないの。…ごめんなさい、こんなこと言われても困るわね。忘れて」
「おいたわしや…私は…奥様の心が心配です」
「私の、心?」
「ふむ。その心の傷はどうやったら癒せますかなあ」
ごほんと咳がした。
「私がリリアを回復させる」
扉の前に立っていた旦那様がこちらに来て言った。
レンダー医師は一礼して「では」と言い残し退室した。
「旦那様…もうお休みになってください」
「怪我をした妻を放って寝られるか」
強く手を握られた。
「ごめんなさい、大きな騒ぎになってしまって」
「それ」
「はい?」
「君はどうにも自分を低く見がちだ」
「だって…私は…おでこの思い出が…」
「では聞くが、それは"今の君にとって"良い思い出と言えるか?」
「いいえ!私の心はもうヴァンルード侯爵にはありません!…なのに…」
視線を落とすと、「ふむ」と声がする。
「では、"今では思い出したくない"思い出に触れた拒否反応ではないのか?」
ハッとして旦那様をまっすぐ見た。
「えっ私…そうなのでしょうか…」
いらない!確かにそう叫んだ気がする。
発狂するほど頭を打ち付けたい衝動に駆られた。
あんなに愛したヴァンルード侯爵を、この短期間でそんなにも嫌悪しているのだろうか?
私は私の心がわからない。自分のことなのに、時折自分の気持ちが分からなくなる。
「今は分からなくても良いじゃないか。そのうち分かる時が来るんだろう」
「でも…モヤモヤして…とても」
「私はな、君の倍は生きているのだぞ。長い人生の中ですぐに答えが見つかることの方が少ない。だが、ある時、すとんと腑に落ちる瞬間というのがある。それは経験、知識、その時の立場色んなものが交錯して得た天啓のようなものだな」
「…旦那様は嫌ではありませんか?私がこんな…」
「嫌だね」
(やっぱり…)
そして彼ははっきりと言った。
「私は君を傷つける者は許せない。誰であろうと。それが君であってもだ。…だから君に罰を与えよう」
血の気が引くのが分かる。
ごくり、と唾を飲み下して「なんなりと」かろうじてそれだけ言った。
「これから私が長い人生をかけて君に与える全ての物に対して、遠慮するのをやめたまえ」
「えっ」
「わかったら返事をしろ」
「は、はい。謹んでお受けします」
ふふん、と悪戯っぽく笑うと
「君にはそれが一番難しいと知っているからな、私は。せいぜい努めなさい」
(確かに…!)
少し考えただけでも、とっても難しそうだ。
けれど、なんて甘い罰なんだろう。
「旦那様、それだけですか?」
「うん?」
包帯が巻かれた額を優しく撫でてくれる。
腰を下ろしたベッドが軋んだ。
「そうだなあ、口付けの許可をもらおうかな」
「えっ…あっ…」
何かを言う間も無く、唇が重なった。
「リリア」
止まっていた呼吸を再開するだけの間があって、続けて何度も口付けされる。
それが次第に首元へと落ちていく。
はあ、とため息をついてから旦那様は離れた。
「君は怪我をしているし、今日は別々に寝ることにしよう。また明日…おやすみ」
「旦那様…一緒に眠らないのですか?お身体が冷えませんか?私は暖かいですよ」
「っっ!!!!」
頭を抱えて、そのまま髪をぐしゃぐしゃしている。
真っ赤な目を向けて、涙目で言った。
「私も男だ。これ以上は耐えられんのだ。白状すると、今までだって限界だった。でも君が待ってくれと言うから、我慢していたんだぞ。こんな雰囲気になってしまって…君の隣ですやすや眠れるか!簡単に言うんじゃない。君を傷つけるようなことは死んだってしたくない」
ふうふう肩で息をしている。
「ごめんなさい、私…」
「謝らないでくれ。私はどうかしている」
扉に手をかけると、振り向きもせずに旦那様は言った。
「今日はありがとう、久しぶりに楽しい一日だった。おやすみ」
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