第19話指輪は薬指で光る
「まあ!」
ガーネットは旦那様の誕生石だ。
デザインも素敵だし、なんとなく目線を送っていたら、旦那様が「それを頂こう」と言ってから跪き、私の薬指にはめてくれたので、驚いてしまった。
旦那様は指輪がしっかりとはまった手を見て、ふっと微笑み、それから
「これと似たようなデザインでサファイアをあしらったものはあるかな?」
「対になっている指輪があります。これですね。石を変えて職人に作らせましょうか」
「ああそうしてくれ」
サファイアは私の誕生石だな、などと、ぼーっと考えていたがそれはつまり
「旦那様、まさか私の誕生石…」
「当たり前じゃないか。君の誕生石でもない宝石をつける価値などないとすら言える。君のそれだって私の誕生石だろう?」
「えっと…はい…」
私の手を再び取ると、薬指に口付けされた。
それからじっと私を見つめる。
「耳と、それから指。あとどこを辿れば唇を手に入れられるのかな」
「旦那様!人前ですっ!」
後ろを向いたまま、宝石商は「では私はこれで!出来上がり次第納品に伺いますのでッ!」と言って、そそくさと店の奥に引っ込んでしまった。
目線を合わせると、旦那様はにこにこしている。
私はどっと疲れたので(全く)と思いつつ馬車に乗り込もうとした。
乗り込む際、「ご婦人、手を」と差し出されたので、つい手を乗せると「うんうん、やっぱり良いなあ」と声がする。見ればその人は旦那様だった。
「何をしているんです?」
「薬指に指輪をしている、この美しい人は誰かの妻だ。誰の?私の妻だ」
あんまりにこにこして言うので、私はなんだか喜劇を観ている気分にさえなった。
「そんなに嬉しいもの…なのですか?」
「嬉しいさ。なにしろ私たちは結婚式も挙げていない」言いつつ旦那様も馬車に乗り込んだ。
隣に座って私を見つめると、またにこりと微笑んだ。
「今日は上機嫌ですね」
「うん?そうだな。私はずっと寝ていただろう。君もずっと私の世話をしてくれた。お陰で私はこの通り随分と元気になったし、外で倒れる心配もあまりないそうだ。どうせなら職人を家に呼びつけるより、外の空気も吸いたいだろう?今日は大いに気分転換してくれたまえよ。ささやかだが、君へのお礼だ」
「…お礼としては高価すぎます」
「私への労いでもあるから良いのだ。つまり私は君とデートがしたい」
「デート、ですか…私とのデートが旦那様の労いになりますか?」
「もちろん。それで君へのお礼に大いに散財したい」
「だから、なぜそうなるのです…」
「君が私に尽くしてくれたこと、我が家の全財産を投げ打ったって到底及ばないとすら思っているよ」
カールライヒ家の全財産…想像しただけで眩暈がしそうだ。
「いえ!もう!充分です!」
「ははは!これからドレスや髪飾りも買うんだぞ」
「そんな、私ごときに…もう、本当に充分ですから!夫婦なのですから支え合うのは当然のこと……」
西陽が僅かに翳ったのかと思った。違う。旦那様の顔が間近にあったのだ。
頬に口付けされていたと気づいた時には、もうすでに旦那様は目の前で微笑んでいた。
今回は不思議と、さほど驚きはなかった。むしろ、私の心は穏やかだった。
だから私も微笑み返す。それから新品の指輪についた石を指先で撫でる。
"作業しやすい"小ぶりのガーネット。
ちらちらと慎ましく輝いて、私を見守ってくれているかのよう。
旦那様が私に買ってくれたこと、それがこんなにも嬉しい。胸の前でぎゅっと握り込んだ。
「買ってくださってありがとうございます。大事にしますね」
「君の…そういうところが好きだなぁ」
「え?」
それから旦那様はしっかりと前を向いて沈黙した。
(もしかしたら、お姉様のことを考えている?)
旦那様の右眉頭に僅か嫌悪のような感情が籠っていることに気づく。
少しだけ想像する。次から次へと宝石類を強請ってはたいして感謝もせず、身につけることもせず、そしてまた新しい宝石を強請る。
(お姉様ならありそうなこと…)
真実何を考えているのかまでは分からないけれど、聞いてみるのは憚られる。
旦那様はふるっと頭を振って、それから髪をくしゃくしゃと掻き上げた。
(前髪を下ろしているのも、上げているのもとても素敵だわ)
共に馬車に乗ったのは、カールライヒ家に嫁いだ夜。
あの時の横顔からは想像もできないほど強い意志を持った、精悍な顔つきをしている。
しばしその横顔に見惚れた。
(…よく考えてみれば、これから社交界に戻った時が心配ね。ご令嬢たちが、この人を放っておくかしら。今のうちに指輪を用意して貰って良かったかも…)
などと思って、私はずっしりと重く自覚した。
情などではない、私はこの人のことが男性として好きなのだ、と。
今度こそは誰にも横取りされたくないのだ、と。
そこまで思い至ってぶわっと恐怖が襲来した。
(またお姉様が返せと言ってきたら…?ううん、きっと大丈夫。旦那様が跳ね除けてくれるわ…でも、もし…)
「リリア…リリア?」
声をかけられてハッとした。
旦那様が心配そうに私を覗き込んでいる。
「顔色が悪い。馬車酔いか?どこかで休憩していくか?」
「あ、いえ…ごめんなさい、大丈…」
「私の知り合いが営んでいる甘味の店が近くにある。寄っていくか?」
「甘味とあらば寄りましょう」
不安も吹き飛ぶ、魅惑の言葉だ。
今は、今日だけはこの不安をそっと仕舞っておく事にした。
馬車を停車して立ち寄ったのは『ラ・クレモーネ』という、ご令嬢たちが好きそうな小洒落た外観の店だった。
中に入るなり、「店主はいるか?」と言ったので、近くにいたウェイトレスが慌てて駆け寄り「奥の広い個室へご案内します。店主を呼んで参りますので、掛けてお待ち下さいませ」と言った。
それほど待つことなく、店主の女性が現れた。
「久しぶりだな、イーラン。元気にしていたか?」
旦那様が気さくに片手をあげて挨拶すると、50がらみのその女性はきょとんとしている。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたでしょうか?」
「カールライヒだ。カイザル・カールライヒ」
その言葉に、店主は口を開けたまま硬直して、それから私を見てさらに大きな口を開けた。
暫くして、吸い込んだ息をごくりと飲み下すと
「…まさか…本当に…」
「そう言っているだろう」
店主はへなへなとへたり込んで、顔を覆った。
「うっ心配したんですよ…世の中じゃあカールライヒ死亡説なんて噂は流れるし…ぐすっ…主人の墓前になんて、報告したらって…」
「すまないな…だが見ろ、ほら、この通り。二十代のそれだぞ」
旦那様はかなり威張ってそう言った。
「そういうところは相変わらずです。確かに、すっかりお若い頃の伯爵様が戻ってきたような出立ちですね何がおありに?」
「ふふん」と笑う旦那様を見て、店主は「はあ」とため息をついて立ち上がってから、ぐいと涙を拭いて私に向き直った。
旦那様はそれに気づいて彼女を私に紹介してくれた。
「この人はな、私の家臣の奥方で…もうアイツが亡くなって10年になるかな?以降、菓子作りが高じて店を出してな。なかなか繁盛しているのだ。私も時折懐かしい味を食しに来ているんだ」
「そうでしたか。私は甘味が大好きなので楽しみですわ」
私はその時初めて彼女に話しかけたので、頬が赤くなったイーランというその女性ははにかみながら私にお辞儀をした。
ごほん、と大仰な咳が聞こえる。
「それから、妻のリリアだ」
「リリア・カールライヒです。以後お見知り置きを」
「まあ!こんなに素敵な奥方を迎えられて、伯爵様もお幸せですね。死亡説は嘘だってお客に言って回らなきゃ」
そう意気込むのを旦那様が止めた。
「いや、良い。面白い魚が釣れるかもしれないしな」
そう言って片方の唇だけ吊り上げて笑った。
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