彼は扉を開くと、わたしの姿をみとめ、微笑みかけた。

 背から手折った桜の枝が覗いている。

 雨が降っていたのだろう。今日のために拵えた燕尾服は、泥ですっかり汚れていた。

 月の光が、少年みたいなあなたを照らしている。


「調子はどうだい」

 ええ。あなたが見えるまでは、ね。

「桜が咲いていたんだよ」

 だからって、一張羅を汚してよい理由になりませんよ。

「君のいる春は、これで最後だというのに」


 彼はわたしに口づけをした。

 彼は熱くなっていた。

 だけど、わたしはひどく冷たいことに気づいてしまった。

 それからシーツのなかで抱擁をした。

 この温もりがすべて夢のような気がした。

 この温もりが消えないように強く抱きしめた。


 事を終えると、彼の髪を撫で、寝台から起き上がった。

 窓辺の青い硝子瓶に挿した、桜の枝を眺めている。

 月光に照らされた花びらが、影を落としながら散っていた。


 今夜は月がきれいよ。

「君もきれいだ」

 月が羨ましいの。

「月は孤独だよ」

 月はいちど隠れてもあなたに逢える。

「君は消えない。絶対に」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花かげ 花森ちと @kukka_woods

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る