【第一章、コベロス村】

 そこからさらに進んで、景色は再び草原となった。風の匂いが少し変化し始める。

 長く歩いたことも理由だろう、体力的な疲労とは別に、体調はある程度快復した。

「少し休みましょう。これが最後の休憩になると思います」

 広葉樹を背にして腰を下ろしたルノアは、地図を見ながらそう言った。

「重力制御は難しいんだろうか」

 水筒を受け取りながらそう言うと、彼女は軽く笑いながら首を振った。

「あれは希少なアビリティで、あなたには備わっていません。あったとしても、利用価値がほとんどありませんが。現に、師匠はほとんど使ってなかったです」

「価値がなくはないだろ。その細い腕で、オレを長時間持ち上げることなんてできないわけだから、つまり、外部に対して、より強い力を作用させたことになると思うけど」

 現象からの単純な推論を口にすると、彼女は足を止めて、口を半開きにした。

「アビリティを腕力と比較するなどと、思いつきもしませんでした。ですが、なるほど、そうですね。確かにあなたの言う通りです。発想がとても斬新です」

 あごに手をあて、うんうんと二度うなずく横で、小石を投げる。途中で止めようとしたが、アビリティを発動する前に、地面に落下してしまった。

 それならばと、木を軽く蹴ってみた。

 葉が数枚、ひらひらと舞う。その中の一つに狙いを付けた。

 地面へと引かれる、その摂理は絶対ではなかったはずだ。

 どうしてそう思ったのか、気づいたとき、他のすべてが地面に落ちたあとも、一枚だけ、絵に描いたように、空中で静止していた。

 成功したのではと、急いでルノアに振り向いたとき、すでに彼女は口と目を大きく開け、驚愕の表情だった。

「それ、あなたがやったんですかっ?いったいどうやってっ?!」

「うまく説明できないんだけど、重力の気持ちがわかるというか、そこから解き放たれた経験があるような、ないような――」

 目を閉じ、とても届きそうにない、記憶の底を探っていると、彼女は「なるほどー」と感心したように息をはいた。

「無詠唱であることを含めて、それらが蘇生による副産物かもしれない、ということですか。説明としては大雑把すぎますが――今のところは、そういうことにしておきましょう。一度死んだくらいで、人はこうも変わるものなんですね」

「念のため言っとくけど、もう二度と死にたくないからな」

「いいじゃないですか。師匠が世の役に立つところを初めて見ました」

 彼女の師は、現役の頃は、国王直轄のソーサラー部隊を率いるほどの力があったらしく、引退後も部隊の顧問を務めていたそうだ。

「拙者も、本来であれば、殿下が十歳になったとき、教育係をお役御免になるはずだったのですが、あまりに不出来だったおかげで、引き続き、お仕事をさせてもらえることになっていたのです」

 明るくそう言った表情は、すっかり立ち直った、とまではいかなかっただろうが、雑談のせいで気が晴れたのか、初めて声を聞いたときと比べれば、ずいぶんと明るく感じた。

 その後も移動中、木切れや木の葉を操作しては、その精度にルノアは顔を歪めた。

「あり得ません。大木で米粒に字を書くより難しいはずです。いくら王族とはいえ、拙者より出来の悪かった人間に、追い越されるのは、不愉快です」

 やがて太陽は地平線に近づき、空は橙色のグラデーションを帯びてきた。

「目的地まであとどれくらい?結構、クタクタなんだけど」

「余計なことに、体力を使うからですよ。あと少しです。この先の海沿いに小さな漁村があるのです。戦略上、ほとんど意味をなさないところで、おそらく敵もまるで注目していないはずです」

「敵というのは、どういう相手なんだろう」

「それは……拙者にはわかりません。ただ、強力な武装集団であったことだけは確かです」

「王宮は、選りすぐりのソーサラーが護衛していたんだよな。つまり、物理攻撃はアビリティより強いってことか」

「いえ、それがそうではないようなのです――」

 続きがあるのかと待っていたが、彼女はそこで立ち止まり、大きく、背伸びをした。

「見えました!コベロスです」

 終着点が確定したとわかった瞬間、あっという間に体が疲労感に襲われた。

 一刻も早く、横になりたい。

 前のめりで進もうとした、レーヴの肩を彼女は強く掴んだ。

「何?」

「これから人に会うにあたり、一つだけ、絶対に守るべきことを伝えておきます。我々が王宮の生き残りであることはもちろん、ソーサラーであることも、絶対に、何があっても秘密です。敵の勢力がどこまで広がっているのか、見当もつかない。やつらは王族はもちろん、親衛隊や近衛も打ち破った殺戮者なのです」

 そう言われて、改めて着ているものに目がいった。なるほど、二人とも質素な衣類であるのは、そのせいか。

「わかったよ。見知らぬ人間は全員あちら側だと思えってことだな」

 コベロスは、山と海のはざまにある、小さな村だった。

 城壁などはなく、最初に目に入ったのは、木製のやぐらだ。

 骨組みそのものは朽ちかけ、強い海風に揺れている。おそらく、長い間使われていなかったのだろうが、半鐘の部分には真新しい摩擦のあとが見えた。

 村の中央にだけ、石畳の道が通っていて、ただ、それ以外の場所は土の地面で、水たまりがあちこちに見える。通りの両側には、しっくいの外壁の粗末な造りの家が全部で二十軒ほどだったが、不思議と、人々の活気はあった。

「変ですね。確かに、立地的には水と食べ物には困らないんでしょうけど――。こんなに栄えている村ではなかったはずなのですが」

「若い男がほとんどいない。いるのは軍人ばかりだ。あれは王国の人たち?」

「いえ、あの軍服は隣国のアントラーシュ帝国のものです。若い人がいないのは、徴兵されたせいでしょうが――」

 やがて中央通りの中ほど、比較的大きな建屋の前で、ルノアは立ち止まった。

「ひとまず、宿を取りましょう」

 彼女が建物に姿を消し、改めて周囲を見回した。

 家の多くは平屋だ。二階があるのは、宿を含めて数軒といったところ。道の端のところどころにあって、周囲を弱く照らしているのは油灯のようだ。人が水を汲んでいるのは井戸のようだ。それとは別に、細い用水路で、女がシャツを洗っている。

 レーヴたちが村に入ったのとは逆側の外れには、停車中の馬車が見えた。

 ずっとこの世界で生きていたはずなのに――そんな風景が懐古的に思えるのはどうしてだろう。

「お待たせしました。無事に確保できました。さあ、食事にしましょう」

 酒場へ向かう途中で、生活水準について尋ねてみた。

「どこもこんなものです。王都や帝都のような大きな街は別でしょうけど」

「重力制御のアビリティがあるのに、馬車を使うのは、そのスタイルを持つ人がいないから?」

「それ以前の問題ですね。ソーサラーはもちろんですが、赤燐光石の数が圧倒的に少ない。黒灰石こくはいせきを霊石として使えるようなれば――いや、それでも移動手段には永遠になり得ないでしょう」

「黒灰石?」

「獣鬼が気化したあとに残る、黒い石のことです」

「あー……。あれのことか。霊石として使うって――」

「二つの石は、似て非なるものなんですよ」

 黒灰石は、それ単体でスタイルが宿っているという。ただ、作用には大きな違いがあり、赤燐光石がスタイルを通してエーテルを外に解き放つのとは逆に、黒灰石は周囲のエーテルを取り込むのだそうだ。

「意味がよくわからないんだけど」

「ではこういう説明ではどうでしょう。猪や猿なんかの動物の死体に、黒灰石が融合したとき、獣鬼が生まれると言われています」

「つまり、死骸にエーテルが流れ込んで、鬼として生き返らせる。その媒介をするのが黒灰石というわけか」

 説明をまとめただけだったが、ルノアはうれしそうな笑顔を見せた。

「適当に話した内容を、あっという間に筋道立ててくれるなんて、便利すぎます。いつかエキスパートの試験を受けるときには、ぜひ殿下と一緒に勉強したいものです」

 目的地に着く頃には、日はすっかり暮れていた。空には星が瞬き始め、大きさの違う月が二つ、顔を出している。

 酒場は、村に一つだけのようで、盛況だった。

 ただ、いるのは老人と軍人ばかりだ。

 旅の人間は珍しくないのか、誰も二人を気に留める様子がない。

 端のテーブルに着き、板の品書きを見ながらルノアが注文をする。

「お金、あるのか?」

「正直、多くは持ち合わせていません」

 大柄で、無愛想な女の店員が去るのを待って、彼女は腰を持ち上げ、レーヴの耳元に口を寄せた。

「金貨、五枚だけです。師匠が最後に託してくれたものですから、大切にしないと」

 庶民に流通している貨幣は金銀銅の三種類らしい。銅貨五十枚で銀貨一枚。銀貨二十枚で金貨一枚。

「それ以外に、大金貨もあります。金貨百枚の価値ですが、国同士の交易で使われるもので、拙者たちが目にすることは、一生に一度もないでしょうね」

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