改善

 「へ?」

 「ねぇ、平戸さん。笑わないで欲しいのだけれど」


 小野川さんは私のことをグイっと引っ張って、腕を絡ませた。

 彼女の体温が私の腕に直接伝る。彼女の鼓動も感じる。

 連動するように私の脈も速くなる。止まらない。いや、止まったらダメなんだけどね。


 「ダメなのよ」

 「ダメ?」

 「そうダメなのよ」


 小野川さんはちらりと私を見て、すぐに俯く。


 「私……高いところがダメなのよ」


 小刻みに震えながら、縋るように私の腕を掴む。産まれたての子鹿のようにぷるぷると。


 「高所恐怖症ってやつ?」

 「そうよ、それよ……」


 足を竦ませ、眉間に皺を寄せる。


 「怖い……怖いわ」


 震えた声でつぶやく。


 「なんだそういうこと……」

 「ひぃっ、ねぇ、ちょっ、まっ、ひ、平戸さん。動かないで。勝手に動かないで。お、お願い。お願いだから。私このままだと死んじゃうから」


 ジェットコースターに乗ってるんだっけというくらいに絶叫している。

 怖がってる小野川さんを見るのは新鮮だ。

 いつもはなんだかんだ気丈に振る舞ってるからね。

 こうやって弱々しい小野川さんを見る機会はめったにない。

 若干周囲から奇怪な目で見られてるのだけど、小野川さんはそんなこと気にしてる余裕はないらしい。むしろもっと私にくっつく。そんな小野川さんが愛おしくてたまらない。もう私はとっくに小野川さんの魅力に引き寄せられているのだろう。

 「それじゃあ降りようか。知らなかったとはいえ、配慮が足りなかったね。ごめんね」

 小野川さんの可愛さと、小野川さんからの信用。天秤にかけたら後者が勝る。だからとりあえず謝っておいた。


 「ううん、言わなかった私が悪いし。お金が勿体ないからもうちょっとだけ居るわ」

 「え、ほんとに?」


 たしかにすぐ降りるのはもったいないなぁとは思うけど、怖い思いしてまで居続ける必要はないんじゃないかな。精神的にも辛いはずだ。無理してこの場に留まる必要はない。とはいえ、本人がそれを望むのならば私はそれ以上なにも口出しはできない。


 「うん」


 震えながらも頷く。

 本人が望んだ。それなら私はやめた方が良いとかそういう否定的なことは言わない方が良い。過剰なお節介は嫌われる要因になるからね。


 「それに高所は克服しておきたいもの」

 「そうなんだ。でもまた、なんで」


 そんなに震えて怖いんだったら無理に克服しようとする必要ないでしょと思う。お節介ではない純粋な疑問だ。

 どうせ高い所が怖くて困ることなんてまぁないんだし。私が深く考えてないだけで実は困ったりするのかな。ちょっと考えてみるけど、パッとは見当たらない。


 「飛行機に乗れないのは困るもの」

 「そういうものかな。飛行機なんて乗れなくても生きていけると思うけど。現に十数年って生きてきて、片手で数えるくらいしか飛行機に乗ったことないよ」

 「とにかくそういうものなのよ。だから克服するの」


 震えながら顔を上げる。ちょっと私が動くとひぃっと声を出してまた俯く。少し顔を上げたと思えば私のことをジロリと睨む。殺意すら感じる。気のせい。うん、気のせいだよね。


 「高いところだと思うから怖いんじゃない?」


 恐怖に怯える私はそんなことを提案する。小野川さんのためみたいな雰囲気を醸し出すが実際は恐怖を見て見ぬふりしてるだけ。それはそれとして克服したいと挑戦するのなら手を貸してあげるべきなのだろう。と、正当化してみる。あと震えて、私の腕に縋る小野川さんが可愛いからもう少しだけこのままで居たい。こっちは本音だ。えへへ。


 「というと?」

 「目の前に広がる光景は高いところじゃなくて、一つの芸術作品ってさ。そう思ってみたらどうかな」

 「芸術作品……」

 「そう。芸術作品。実際、作品に負けず劣らずな光景だとは思うし」


 この夜景がぽんっと美術館に展示されてても、ほうほう綺麗なものだなぁと見入ってしまうだろう。それほどに綺麗だ。ただ高いところにいる。立っている。その意識が綺麗という感想を上回ってしまうから、恐怖心を掻き立てしまう。であるならば、その意識を捨ててしまえば良い。まぁそれが難しいから高所に対して恐怖を抱くのだろうけど。

 小野川さんの力は一層強くなる。


 「平戸さん。離れないでね」

 「離れないよ」

 「本当に? 本当に離れない?」

 「うん。離れないよ、離れない」

 「絶対ね」

 「うん」

 「約束よ」

 「わかってるよ」


 私って信用ないのかな。ないから何回も念押しされるんだろうな。

 言葉だけじゃどうしようもない。離れないよっていうのを行動で示すしかないかな。

 私は小野川さんの手を握り、そのまま指を滑らせて、絡ませる。

 腕を組んで恋人繋ぎをしてる。周囲からどういう目で見られてるんだろうか。恋人に見えてるのかな。それとも仲良い友達だと思われてるのかな。

 さっきとは違う意味で奇怪な目で見られてるような気もするけど。まぁどうせここに居る人たちなんて今日初めて出会って、これから二度と出会うことはない人たちだ。どう思われようが知ったことじゃない。その人たちにどう思われるかよりも、私がどう思って、小野川さんがどう思うか。その方が大事だから。


 「もう離れられないよ」


 これだけ絡ませたら、まぁするりと抜けるのは難しいだろう。

 お互いに離れたいという意思がなければ離れることは不可能に近い。

 これが私なりにできる証明だ。微力かもしれないけど、小野川さんの力になれるのなら嬉しい、と上から目線でどやってみる。


 「そ、そうね」


 俯きながら困ったような声色でそう答えた。

 しばらく無言が続く。もしかしたらなにか言ってるのかもしれないけど、私の耳にその言葉が届くことはない。

 だから私にはただ見守ることしかできない。直接力になれないもどかしさは少なからずある。支えることしかできないもどかしさ。

 けどしっかりとした高所恐怖症の治し方なんて知らないし。

 せめて、克服できなかった時の慰めの言葉くらいは考えておいてあげようかな。


 「わぁぁぁ……」


 あれこれ考えてると、隣から感銘を受けたような声が聞こえる。その声はスッと空気に溶けて消えていく。

 視線をそちらに移すと、小野川さんは顔を上げてガラスの向こう側をジーっと見ていた。凝視だ。しっかりと見て、瞳を輝かせてる。恍惚とした表情を浮かべて、口を開けたまま閉じない。夜景よりも芸術作品のようで、額縁に飾りたくなる。それほどに美しい。

 感動しているのが伝わる。言われなくてもわかる。


 「綺麗ね。本当に綺麗」

 「でしょ」

 「輝いてるわね。それに広いのね、東京って」

 「そうだね」

 「本当に……本当に綺麗ね」


 さっきまで健康器具かなって思うくらいぶるぶる震えていたのに、もう震えはなくなっていた。


 「空も光っているのね」

 小野川さんは夜空を指差す。

 「星……ではないか」


 燦然と輝く星々を指差してるのかと目線を指先に向けたがどうも違う。星のように光る小さなそれは点滅しながら素早く動く。まるでUFOだ。未確認飛行物体。もちろんそんなの信じていないけど。


 「飛行機じゃない?」

 「飛行機ってあんなに高いところを飛ぶのね」

 「低い所飛んでても困っちゃうけど」

 「それもそうね」


 彼女はふふと一笑する。


 「この夜景が見れるのなら、飛行機も大丈夫そうね」


 克服したのか、否かは本人に直接聞かないとわからないけど、少なくとも今は怖くなんだろうなってのはわかる。じゃなきゃ、こんな悠長に会話なんてできないし。まぁ克服できてたら良いね。なにはともあれ私の中で温めていた慰めの言葉は出番なさそうだ。


 「じゃあ私が離れても大丈夫かな」


 流石に暑苦しくなってきた。そっと小野川さんから抜け出そうとする。

 しかし力が強く、抜け出そうにも抜け出せない。

 指すらもがっしりと掴まれてる。どうすることもできない。ただ苦笑するだけ。


 「それは無理」


 ぶんぶんと横に顔を振る。


 「平戸さんが居るから安心しているだけなのよ。居なくなったら……また怖くなっちゃうもの。きっと。ううん、絶対に」


 ちろりと私を見る。目が合うと唇を噛み締めながら軽く口角を上げる。


 「怖くなっちゃうんだ」

 「そうよ。なにか悪い?」

 「可愛いなぁと思っただけ」

 「そういうことさらっと言わないで欲しいのだけれど」


 ガラスの向こうでは無数に輝き続ける光がある。それに負けないくらいに美しく光り続ける光が私の隣にも居た。

 ピンク色に光る彼女の頭を撫でる。温かな温度が掌につわっと広がる。体温が移ったのか、徐々に熱くなってくる。暑苦しさとは違う熱さ。苦しさを伴う熱さではない。居心地の良さを感じるような熱さだ。

 だから私は抜け出すことをやめた。


 「そうだねぇ」

 「理解してないでしょ」

 「そんなことないよ」


 あははははは、と笑いながら答える。

 わかってるとも、理解してるとも。

 小野川さんはこういうさらりとした態度に喜びを覚えんだって。そんなことは言えないなぁと思って終始誤魔化し続けた。

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