ミートパイ

 どのカフェが良いかなとか調べてはいたんだけど、そんなことを口にする余裕が私にはなく、近くにあったカフェに吸い込まれるように入店する。

 空席はそこまでない。タイミングが悪ければ満席だったかもしれない。タイミングが良かったのか、悪かったのか。


 「じゃあ、す、す、座りましょうか」

 「そうね」


 自分自身でも自覚するくらいにぎこちなく座る。一方で小野川さんはスマートに座った。こういう細かい所でも格の差が現れる。慣れていそうなんじゃなくて、こういう雰囲気のお店には慣れてるんだろう。だから躊躇も緊張もない。一方で私はガチガチだ。ガタっと机の脚につま先をぶつけて音を鳴らし、それにびくついて今度は下腹部を机の甲板にぶつける。惨めだ。

 カフェの中には学生らしき人が沢山いる。私たちのように同性で来てる人もいれば、異性もいる。初々しいカップルとかが目に入る。それに隣に座ってる女の子なんか超可愛い。その向かいに座ってる女の子もかなり可愛い。場違い感がすごい。美男美女専用店だったのかもしれない。うう、すみません、こんな私が来てしまって。

 一人でうじうじしてると、小野川さんはつんつんと私の二の腕を突っつく。

 視線を小野川さんの方へ向ける。そっか。そうだ。小野川さんがいるから私もセーフだね。美女の付き添いだからセーフ。超謎理論を展開し事無きを得る。


 「ねぇ」

 「はい」

 「こっち見てくれる?」


 小野川さんに促され、彼女の方に目線を向ける。とんとんと人差し指を頬に当てていた。

 もう片方の手で鮮やかな桃色の髪の毛を指先でくるくると丸める。すーっと伸ばしてまた丸める。

 目をしっかりと合わせると深々としたため息を漏らしゆっくりと目線は逸らされる。


 「どうしました?」


 私はこてんと首を傾げる。なにかしてしまったのかもしれない。実際小野川さんは不満そうなわけだし、なにかしてしまったと考えるのが妥当である。ただ思い当たる節がない。

 思い当たる節がないものを考えたって答えは出てくるわけがないので、素直に問うた。


 「私って彼女だったわよね」

 「え、あ、あ、はい。そ、そのつもりでしたが」


 すっと肝が冷える。すっからかんな心に冷水を注ぎ込まれたような感覚。

 やっぱり無しにしようよ。きっと一時期の気の迷いってやつだから。と、振られるのかもしれない。それは嫌だ。

 けど、そう言われてしまえば私としてはもうどうしようもない。はい、そうですね、その通りだと思います。と受け入れるしかないのだ。諦めの悪い面倒な女と小野川さんに思われるのはもっと嫌だし。


 「どうかしましたか」


 小野川さんは続きを言わない。ただ私の心臓がバクバクと鳴り続けるだけ。

 続きの言葉を聞きたいような、でも聞きたくないような。やっぱり聞きたくない。聞きたくないけど、でも耳は傾ける。そんな複数の感情が私の中を駆け巡って交錯する。ぶつかって、弾けて、また纏まって走り出し、思考回路を混乱させる。


 「あのさ、デート中くらいは私だけを見て欲しいのだけれど。彼女は目の前にいるのよ」

 「はい、その通りだと思います……って、え?」


 振られるものだと思って反射的に頷いてしまったけど、これって振られてない? ないよね。


 「さっき隣の女の子見ていたから。私はあんなに可愛くないのかもしれないけれど、これでも努力しているつもりだし、もっと可愛くならなきゃとも思っているし。ずっと見て欲しいとかそういう面倒なことは言うつもりさらさらないのだけれど、デート中くらいは私のこと見て欲しいなって」


 えぇ。

 なにこれ。私の彼女、めっちゃ可愛いんだけど。もう……好き。

 指もじもじさせて、恥じらってる姿とか、ちらりと視線をこちらに向ける仕草とか、もう最高。あんまりにも最高過ぎて語彙力全部吹き飛んじゃったよ。私の語彙力は「可愛い」と「超可愛い」と「ヤバいくらいに可愛い」しか存在しなくなってしまった。あぁ可愛い。

というか、そもそも小野川さんは狂い咲いた桜みたいに美しいのに。もしかして本人はそんなに自分のこと可愛いと思ってないのかな。その辺のモデルに太刀打ちできるくらいには可愛いよ。少なくとも今私が見てた二人よりも可愛い。贔屓目に見なくてもそう言い切れる。


 小野川さんを見ていたら悶絶してしまいそうだ。叫びたい。叫んでも良いですか。ダメですか、そうですか。


 「ダメかしら」


 小野川さんはさらに追い打ちをかけてくる。

 やめてください。これ以上は死人が出ますよ。ほら、私なんてもう息絶えそうなんですから。


 「あぁ……すみません。私が悪かったです。全面的に私が悪かったです」


 荒い息を整えてから謝罪する。緩みそうな頬を無理矢理引き締める。


 「やだ、私は別に謝ってほしいわけじゃないのよ。そもそもなんで謝っているのよ?」

 「あ、あ、謝りたい気分だったので」


 降伏宣言です。とは言えないのであははははと笑いながら誤魔化した。


 「と、とにかく。見ます。小野川さんを見つめますね。ジッと見ます」


 じーっと凝視する。

 こうやってじっくり見ると、小野川さんの可愛さが際立つ。

 筋の通った鼻に、長い睫毛、しっかりと整えられた眉毛に、白くてすべすべそうな肌。雪見大福みたいに白い肌はすーっとピンク色に染まっていく。三月の桜みたいだ。


 「や、ちょ……そんなに見つめられるとそれはそれで恥ずかしいのだけれど」


 小野川さんは声量を尻すぼみにしながら、両手で顔を覆う。

 俯くと「うぅ……」と愛らしい声を漏らす。

 私の中で眠っていた嗜虐心が目を覚ましそうになる。うん、良くない。


 「で、でも、小野川さんが見つめてって言ったじゃないですか。だから見つめてるんですよ」


 私は声を弾ませながら、彼女を見つめ続ける。


 「じゃあ、見ないで」

 「えぇ、どっちですか」

 「私のこと見ながら見ないで」


 無理難題を押し付けられる。見ながら見ないって矛盾も矛盾だ。矛盾し過ぎて最早わけがわからなくなっている。


 「無理そうなので、見ることにしますね」


 挑戦することすらせずに、私はじーっと小野川さんを見つめる。

 また顔を覆う。指の隙間からさっきよりも朱くなった頬がちらりと見える。あぁ意図せずに見ながら見ないを遂行してしまった。

 しばらくすると、ふぅと疲れたように息を吐く。

 そして立ち上がった。


 「なにか注文しましょうか」

 「そういえばそうですね」


 席を確保してそのまま座りっぱなしだった。注文することを忘れるくらい小野川さんが可愛かったということで。

 私も彼女に着いていこうかなと思ったけど、荷物もあるしここで待機しておくことにする。私ったら気遣いのできる女ね。


 「あ、平戸さんはなににする? 一緒に注文してくるけれど」

 「カフェラテが良いです」

 「わかったわ。そこで待っててもらっても良いかしら」

 「元からそのつもりです」


 ぽんっと胸を叩く。小野川さんの背中を見送った。背中は列に紛れ消えていく。

 可愛かったなぁだなんていう余韻が私の心の中で徐々に広がる。

 私の彼女、めっちゃくちゃカワイイ。

 少し待ってると小野川さんは戻ってくる。それなりに大きなトレーにカップを二つとなんかの食べ物を一つ乗せていた。


 「それは?」


 机にトレーを置いた小野川さんは私の視線を追いかける。

 食べ物に目線を向けて、あー、と声を出す。


 「ミートパイよ」


 端的にそう答えた。ふーん、ミートパイね。ミートパイ? 実物を見るのは初めてだ。

 こんなしっかりとパイなんだね。ミートパイって。なんか響きがエッチだね。ミートパイって。


 「ミートパイ美味しそうですね」


 カフェラテを受け取りながら言及する。

 大きさはそこそこある。一人で食べるには明らかに大きい。もっとも、小野川さんがとてつもない大食いって可能性も捨てきれないけど、一緒に食べようとか考えて買ってきてくれたのだろう。


 「そうね。美味しそうね、ミートパイ。けれど、一人で食べるにはちょこっと大きすぎるわね」


 芝居掛かった口調。露骨過ぎて思わず苦笑してしまう。小野川さんは私の笑みに気付かないようで続ける。


 「大きすぎるわね」

 「ですよね」

 「立派なものよね」

 「そうですね」

 「一人で食べるには大きすぎるのよ」

 「そうですよね。一人で食べるには大きすぎますよね」


 意地悪したくなってしまうのが恋人としての性。

 このままずっと同じようなやり取りをしてからかっても良かったのだが、小野川さんはむっと頬を膨らませて不満をアピールしてきたのでやめておく。

 初心忘るべからず。

 そもそも小野川さんとは住む世界が違う。偶々こうやって付き合って歩調を合わせているが、いつ牙を向けられるかわからない。

 小野川さんは肉食動物で、私は草食動物。いつ殺されてもおかしくはない。

 からかった時の小野川さんは死にそうになるくらいに可愛いんだけど、やり過ぎは怒らせる原因に成りうるので自重しておこう。


 「大きすぎますし、なによりそのミートパイ美味しそうなので、少し貰っちゃっても良いですかね」

 「そうね。半分こしましょうか」


 嬉々とした様子でもうミートパイを切り分けている。

 私の目の前にミートパイが差し出される。


 「ミートパイって食べたことないんですよね。でも本当に美味しそうです」

 「奇遇ね。私も食べたことないのよミートパイ」

 「え、な、え? ミートパイ選んだの小野川さんですよね」

 「そうよ」


 さも当然みたいな顔をしている。


 「食べたことないのにミートパイ選んだんですか」

 「ダメなのかしら?」

 「い、いや、そういうわけじゃないですけど。てっきりミートパイが大好物なのかと勘違いしてました」

 「美味しそうに見えたから手が出てしまっただけよ。欲に負けたとでも言えば良いのかしら」


 恥ずかしそうに微笑む。

 すぐに笑顔は消えてその代わりにむぅと頬をふくらませる。


 「食いしん坊とか思っているでしょう。悪かったわね」

 「そ、そんなこと思ってないですよ。本当に思ってないです。むしろそういうところも可愛いなと思っていたと言いますか、食べるのが好きっていうのは人間味があって良いなと思うわけでして……」


 手をアワアワさせて、持ち上げた。

 そんな私の様子を見て、彼女は微苦笑を浮かべる。


 「とどのつまり、小野川さんの大好物はなにかなと気になるわけです。えぇ、はい」


 こくこくと頷く。


 「そうなのね。ちなみに大好物は麻婆豆腐よ。辛さが強め麻婆豆腐だとなおのこと良いわね」

 「そうなんですね。庶民的過ぎて使い所があるかわからないですけど、一応覚えておきますね」


 誕生日とか、節目に麻婆豆腐をご馳走する……ってビジョンはどう頑張っても浮かばないな〜。手料理を振る舞う機会があったらその時にでも作ってみようかな。麻婆豆腐。書けそうだけど書けない漢字ランキング第十五位の麻婆豆腐。

 私調べ。


 「た、食べても良いですかね」

 「うん、どうぞどうぞ」


 冷めてしまいそうなので、早速手をつける。

 サクッと音を立てながらフォークが突き刺さる。思ったよりも重たさがある。てっきり軽いのかと思っていた。思い込みって怖いね。こんなか弱い私でもサクッと奥までフォークをさせてしまうのだから。

 くくく、これが……肉の重たみ、か。


 「んん〜、想像よりもうんと美味しいわね、これ」


 小野川さんが感嘆を上げてから、私もパクリと頂く。

 もしゃもしゃと食べる。

 ジューシーでサクッとした食感もあってその上で口の中で肉の旨味がじゅわりと広がる。その旨味を包み込むようにパイが顔を出す。と、それっぽいことを並べてみた。うーん、しっくりこない。言葉にしなくて良かったと一人で安堵した。


 「ですね」


 心の声を無視して、そう簡素な言葉を口にする。


 「あーん」


 小野川さんは小さな口を精一杯開ける。開けて、愛らしい声を出して、じっと私のことを見つめながら待つ。

 淡々と、主人に待てと言われている子犬のように。くーんという声が聞こえる気がする。ぶんぶんと尻尾が揺れてるような気もする。あぁ小野川さんが可愛すぎてついに幻聴と幻覚が現れ始めた。ドーパミンがドバドバ出てくる。


 「なんですか」


 小野川さんはとんとんと唇を指で叩く。

 一度ミートパイに目線を落とし、また私のことを見つめる。


 「ひぃあふぁいよ」


 舌だけが器用に動く。

 流石にわかる。そこまで私だって鈍感ではない。これはあれだ。あーん、だ。ミートパイを求めている。

 フォークにミートパイを突き刺して、小野川さんの口元へ持っていく。小野川さんはすっと瞼を閉じて、顔を突き出す。

 綺麗な舌を見つめながら、その上にミートパイを置いておく。

 フォークとミートパイは私の視界から消える。小野川さんは前に突き出していた顔を元に戻す。そうするとフォークだけが顔を出す。ミートパイは消滅した。

 小野川さんは瞼を閉じたまま、満足感溢れるような表情でむしゃむしゃと口を動かす。

 私はフォークを見つめ、邪な考えが過る。いかんいかん。いくら彼女だからって、恋人だからって、それは一線を超えてしまう。少なくともまだ私は変態になるつもりはない。


 「どうですか。私が食べさせたミートパイは」


 邪な考えを吹き飛ばすためにおどけたことを口にしてみる。


 「そうね。あまり変わらないわ。愛情が足りないのかしら」

 「た、たしかに。愛情は入れ忘れたかもしれません」

 「それでも美味しいわね。これがミートパイの実力と言ったところかしら」


 なにはともあれ満足してるのなら良しとしよう。


 「本場だったらもっと美味しいのかしら」

 「じゃないですかね」

 「本場ってどこなのかしら」

 「ミートパイってたしか、発祥の地がイギリスで、国民的料理として振る舞われてるのはオーストラリアとかじゃなかったでしたっけ」

 「そうなのね」


 つーっと意味ありげな視線を送る。

 私はこてんと首を傾げる。


 「というか妙に詳しいわね。ミートパイ専門家なのかしら」

 「ミートパイの専門家ってなんですか」


 くすくす笑う。少し間を置く。ミートパイの専門家ってなんなんだ……。

 困惑に困惑が重なりそうだったので考えるのをやめた。


 「一応これでも地歴公民の成績だけはトップ走ってますから。これくらいは予備知識としてもってますよ」


 えへんと胸を張る。


 「知らなかったわ」


 へー、と言いつつも肩を落とす。


 「平戸さんのことまだなにも知らないのね、私って」

 「そんなもんじゃないですか。まだ関わり始めたばかりなんですし」


 関係としては恋人だ。カップル。これだけ聞けば付き合いの深い二人に思えるかもしれないけど、蓋を開ければそんなことはない。決してない。

 実情としては、関わり始めて数日の知り合いだ。私だって小野川さんの好物……はさっき聞いたけど、どこに住んでるのかもわからないし、趣味がなんなのかもわからない。

 でも……いいや、だからこそ。


 「これから色々教え合えば良いんじゃないですか」


 と思う。

 私にしてはかなりポジティブな思考だ。


 「そ、それもそうね」

 「で、いつか本場のミートパイ食べに行けるくらい仲良くなりましょうよ」

 「うん? 今の関係じゃダメなのかしら」


 目の前の彼女は不安そうに私のことを見つめる。潤んだ瞳。そこまで不安になる必要ないと思うのは私だけなのだろうか。


 「高校生のうちにイギリスとかオーストラリアには旅行に行けないじゃないですか。お金とかその他諸々の問題がありますし」

 「それは確かにその通りね。未成年だもの。私たち」

 「そうです、そうです。やっぱり海外旅行となると、しっかりと自立してからになるんじゃないかなぁと思うんですよ」

 「真っ当なことも言うのね」

 「しっかと自立して、お金を貯めて、大人になって、その時にも一緒に旅行しようと言えるくらいには仲良くしてたいですねって話です」


 その時に私たちはどうやって関わってるかなんてわからないけど。このまま恋人かもしれないし、親友として関わってるかもしれない。高校卒業を線にして、一切関わらなくなってるかもしれない。

 色んな未来がありえる。

 付き合い続けたいなんていう傲慢で強欲な願いは持たないけど、仲良くし続けられたら嬉しいなという願望は持っておく。

 それくらいは許されると思うし、許して欲しい。

  というか、さっきスルーしてしまったけど「真っ当なことも言うのね」って言ってた?

 私頭がおかしいヤツとか小野川さんに思われてるのかな。そうなら普通に悲しい。


 「そうね。仲良くしていたいわね」


 頬杖を突く。


 「仲良くしたいのは私も同じ気持ちよ。それにこれからもっと仲良くなるべきだとも思うわ」


 小野川さんもそう思ってくれてるんだと嬉しい気持ちに包まれる。感情が一方通行じゃなくて良かったという安堵も混じってる。


 「だからね」

 「は、はい?」


 流れが変わった。

 私にはわかる。これはあれだ。なにかしらの要望を押し付けられるのだ。

 リモコンは元に置いてあったところに戻してとか、お風呂で歯も一緒に磨かないでとか、トイレしたら蓋まで閉めてとか、ドアの開閉の仕方だとか、そういう些細な要望だ。これが積み重なると、相手へのイライラを貯め込むことになって、いつしか大きな喧嘩に発展して、修復不可能なところまで突き進むことになる。

 って、ショート動画で言ってた。

 なにを言われてもできる限りのことは受け入れようと思う。というかそうするべきなのだ。だから私はそう覚悟を決める。


 「仲良くなりたいのだけれど、思うのよね」

 「は、はぁ……」

 「少し私と平戸さんには距離があるんじゃないかなぁと思うの」

 「そうですかね」


 距離があると言われたがあまりしっくり来ない。そうかなと考え込んでしまう。

 多少の距離感があるのはまぁその通りかなとは思うけど、異常な距離感かと言われればそんなことはないんじゃないかなぁ。まだ密に関わり始めて数日なわけだし、ある程度は距離感があるべきだとさえ思う。距離感はあるけど気になるほどじゃない。ましてや指摘されるほどじゃない。というかこのくらい離れているのが適切な距離感じゃないだろうか。

 「そうよ」


 自信満々に胸を張る。胸は小さいけど、そこまで堂々とされるとそうなのかも……と不安になる。


 「具体的にどんなところがですか」

 「そうね」


 唇に指を持ってきて、じーっと私を見つめる。悪いことなんて一切してないのに、背筋を伸ばしてしまう。


 「そういうところとかかしら」

 「え、あ、あ、あ、あ、はい?」


 自覚がない。そういうところと言われてもなにもわからない。自覚がないなにかをしてしまった時が一番怖い。どうしようもないから。

 「どういうことです?」

「それそれ、それよ」

 小野川さんはピシッと指差す。

 「は、はい? ちょっと、すみません。私にはわからないです」

 スマホのAIみたいなことを口にする。でもわからないものはわからないし。

 「そういうのなのよね」

 小野川さんは苦笑いを浮かべる。

 「その敬語。なんだかすごく距離を感じるのよね」

 「敬語……」

 たしかにこれは距離感があるかもしれない。一理どころか百理くらいある。

 もっとも意識して敬語のようなものを使っていたわけじゃない。

 怖いという潜在意識がそうさせているだけ。言ってしまえば無意識だった。癖とでも言った方が良いかもしれない。うん、こっちの方がしっくりくる。

 私と小野川さんじゃ立つ場所が違う。立場が上の人。そう無意識のうちに思い込んでしまって、どうしても敬語が出てきてしまうのだ。

 「私たちって同い年なわけだし、お互いにもっとラフな感じが良いのかなと思うわけよ」

 「ま、まぁ。それはわかりますけど」

 「なんだか後輩と喋っている気分になって距離感が生じちゃうのよね。だからもっとため口で話して欲しいわ」

 「わかりました」

 「じゃないでしょ」


 つんつんと私の頬を突っつく。


 「わ、わ、わかった……」


 ぞわぞわと駆け巡る違和感。

 小野川さんには敬語を使うものだっていう意識があるせいで、違和感しか残らない。背徳感に近しいものもある。


 「うん、恋人っぽいわね」


 しかし小野川さんは目をキラキラさせて、満足そうだ。

 ちょっと大変だなぁとは思うけど、これを小野川さんが望むのなら頑張ろうとは思う。良い機会だし。


 「が、頑張るよ」


 ニッと笑う。ぎこちないであろう笑顔を見て、小野川さんはさらに表情を明るくする。この顔が見れるのならいくらでも頑張れるなぁなんて思った。


 「で、でも友達っぽくない?」


 私の胸の中にぽつんとあった不安というか疑問をぶつける。

 小野川さんはうーんと唸る。


 「それが良いんじゃないかしら。恋人っぽさ全開だとなんか馬鹿っぽくなりそうじゃない。それなら友達っぽい方が良いと思うけれど」

 「まぁ、それはそうですね」

 「あ、ほら、また」

 「す、すみ、すみま……ご、ごめん。これ慣れないから」

 「大丈夫、大丈夫。一緒に頑張ろう?」


 ね? と弾けるような声とともにニコッと微笑む。


 「善処する」

 「無理し過ぎて言葉が硬くなっているわね」

 「そ、そうかな……わかんない」


 小野川さんは私の反応を見てくすくす笑う。

 そしてにへらと私と目を合わせて笑い、小さく握り拳を作って見せる。


 「がんばろー」


 小野川さんは軽く拳を上げると、そのままの勢いでコーヒーを呷った。そしていつの間にか最後になっていたミートパイの欠片を頬張った。

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