PILL

電磁幽体

誰かが言ってたんだ。人生を危険に晒せってさ。


 深夜の鉄道高架橋は都会から隔離された純粋な一本道で、愉快なレースコースだった。

 ひとときの月光に照らされ真夜中の線路は廃墟と化す。


 ロングジャージとスモークグラス。肌色以外を黒に染めて、深呼吸する。


 ……小学五年だったっけ、俺はインフルエンザで全身沸騰して病院に連行された。

 そのときの看護婦がかなり不器用でさ、血管に点滴の針刺すだけの作業を八回も失敗しやがった。

「フザケンナヨ」って六文字が茹った脳ミソ掻き回したけど、俺はあのハズレ看護婦を許すことにした。


 左手首の黒いリストバンドを噛んでめくる。猿みたいに突き刺した穴の痕。きったねえ。

 今ではもはや手馴れたもので、俺は右ポケットから抜いた注射器ポンプをプツリと静脈に差し込んで穴をまた一つ増やしてやった。


 ドラッグに儀式なんて要らない。

 ヤるヤーヤらないナインの二択だけ。

 だから俺は何も考えずにピストンを押し込んで、中の液体を無造作に注入して――――




 どこかの廃倉庫で高校をサボっていたガキの群れがいた。

 そいつらは刹那的な遊びに興じていた。危ないお薬の掛け合わせ。

 ガキどもには金が無い。良い薬は金が掛かる。だから安い薬を掛け合わせて良い薬を作り出そうってわけ。馬鹿みたいだろ?


 そうして混ぜ合わせた液体は出来損ないだったけど、何事も挑戦と失敗トライアンドエラー

 笑いながらジャンケン、負けた奴がありがたく腕にブスリ。

 さて、どうだ? 感想? そのガキに起こった出来事は――それどころでは無かった。

 

 なのに、腕を振る、空を蹴る、その速さだけはスローモーションじゃ無かった。

 世界が遅くなったわけじゃない。ガキが速くなったんだ。


 これは大発見。

 飲むと超人化して加速する薬。

 その場のガキどもはすぐにその調合比率で同じ薬を作り出し、腕に刺す。


 ……超人にはならなかった。

 でたらめな速度の暴走。視覚がメリーゴーランドして胃の中全部吐いたり、前立腺が暴れ出してポンプみたいに射精したり。

 その他色々様々に、感覚がでたらめに先行し暴走する。


 後で分かったこと。

 薬の加速を制御出来るのは適合者だけ。肝心の適合率はたったの〇,三パーセントで、それ以外にとってはタチの悪い感覚暴走剤。


 それでも誰もが超人を夢見た。

 薬の利権でガキどもは金を稼ぎ、目立った奴が警察にしょっ引かれるも、管理のずさんさからレシピは流出。

 そんな感覚暴走剤に付けられた名は『エア』。


 由来は一番最初に加速したガキの一言。「風になったみたいだ」。まあ俺なんだけど。

 あの日、薄暗い廃倉庫を飛び抜けて走り出したんだ。

 鬱陶しいほどの日差しが心地良かった。

 俺は走った。馬鹿みたいに走った。街を走って。道路を走って。線路を走って。




 ――――本来ならば列車が走るべきレールの上を俺は走る。等間隔に敷かれたマクラギを飛び越えて踏み締めて――夜空には月があった。幼い頃は月に向かって走ってなんだか届く気がしたよな――視界の端を高速で流れるフラクタルな街並み。送電線は夜空に泳ぐリュウグウノツカイを幻視させた。空気抵抗の壁をぶち抜いて走る。気化した世界は俺の輪郭を掠れて流れていた。どこまでも変わらない夜を馬鹿みたいな全速力で突き進む。? ちがうナイン。体は熱いのに俺のどこかが冷えていた。月を見た。空虚さでパンクしそうだった。いつの間にか俺は走るのを止めていた。急速に落ちるスピード。気化した世界のまどろみに俺は溶け込んだ。人間様の速度にただいま。足が絡んで倒れこむ。転がってぶつかってあちこちが痛い。伸びて仰ぐ夜空はよく見れば星空だった。満天の星空。感覚暴走剤『エア』はあらゆる身体機構を過剰にする。たとえば都会で星粒が見えてしまうぐらいに。なんとなく空に手を伸ばせば流れ星が月を溶断していた。光は夜に焦げ付きを残した。流星があまりにも遅いから走り屋たちは願い叶え放題でさ。笑える。俺は代わりに中指を突き立ててやった。我が上なる星空と我が内なる道徳に告ぐよ。「クソ喰らえファック」――――




 そうやって俺はいろんなものに中指を突き立てていった。

 学校とか、法律とか、社会のシステムとか、家族とか。

 否定するってのは麻薬みたいだ。そのたびにいろんなものを失って、転がり落ちて、クソみたいな掃き溜めで満足した。


 俺は底に背を重ねた。

 底から見る空は格別だと思っていた。何かが見える気がしたんだよな。


 全部気のせいだった。

 マトモな頃でもイカれた今でも、空の景色は変わらない。



 一人列車に揺られながら、霞んだような朝焼けの空を眺める。

 窓枠に肘を置いて、甘ったるい缶コーヒーを口に運ぶ。


 この三ヶ月間はいつもこんな感じ。

 『レールラン』を終えた後は始発が来るまで待合室で睡眠補給。

 三時間あればそれでいい。あそこの椅子は寝心地が悪くて起きやすいから重宝してる。


 朝一のホームは駅員一人だけ。

 俺はふらりと窓口に近づいて、ポケットから取り出した二個めの缶コーヒーを机上の奥に滑らせた。

 アクリル越しの駅員の声。

「おい、サロ。お前いい加減『レース』に参加しねえのか?」

「スランプってやつ、ここ走ってるの内緒な」

「……早く復帰しろよ。ネジの一人勝ちで賭けになんねえ」

 俺は後ろ手を振って、改札の跳ね起きたビラビラを膝蹴りでパスした。




 痩せた顎野郎のシャクレに飛び膝蹴りをいれた。歯と歯が噛み合う透明な音がして、そいつは後ろに吹っ飛んで失神した。


 見渡せばあと三人。

 俺は一人一人を適切にノしてゆく。

 ナイフを避けて側頭部に回し蹴り、ダウン。

 メリケンサックを靴裏で受けて胸板に肘骨を突き刺す、ダウン。

 有無を言わせず腹の中に拳を叩き込む、ダウン。


 ――あらましを言えば簡単だ。

 昼飯時に俺の働く店でガキどもが喧嘩しやがったので、そいつらを店外に連れ出して仲良く両成敗。

 喫茶『ヴェルヴェット』は今日も平和だ。


 木製の洒落た扉を蹴り開ける。

 そこではこの街のあらゆる不良どもがお行儀よくコーヒーを啜って談笑してた。


 マスターが淹れるコーヒーの美味さのお陰で、未成年たちはアルコールを入れる気が起きないらしい。

 退廃した室内には不安定さが癖になるノイズミュージックが響く。

 I’m Waiting For The Man、Run Run Run、Heroin、そしてSister Ray。


「マスター、四人とも寝かしつけときましたよ」

「そこのソファに転がしとけ。あとでそいつらに美味いもの食わせてやる」

 右目が白濁したマスターは左目だけで俺を見て厳しく笑った。

「さて、サロも給料分しっかり働けよ。その後で新作のパフェはどうだ?」




 夜八時になって仕事終了。朝六時からってことを考えるとなかなかブラックじゃね。

 なんて冗談を、俺は新作のパフェを食いながら目の前に座るミウに語っていた。


「ブラックというよりはお先真っ暗ですね。自給低いですし、割と肉体労働な所とか」

 ミウは可愛いというより綺麗といった理知的な女の子だ。

 こんなクソみたいな掃き溜めの中でミウの存在はかなり異質。

 実際コイツは名門高校の三年で、志望大学もすごくアレ。


 ……これも三ヶ月前だっけ。

 店外で不良に絡まれてるところを助けてやったら、いつのまにか割り勘でマンションの一室をルームシェアするまでの関係になった。

 一人暮らしの必要経費で困っていた俺にとっては、とてもありがたい。ただ浪費しまくってただけなんだけど。


「いいんだよ。俺は俺のためにココで働いている。

 ココの空気が好きだし、ココに来る人間は面白いし、ココのコーヒーとパフェは美味い。何より俺はココ以外で働けそうにない」

「それはそうですね。。私は自由人が好きなんですよ」


 ミウはいつも難しそうなことを言う。

 部屋には哲学書がどっさり。

 ゆったりとカフェオレをかき混ぜながら語る。

「あらゆる人間は奴隷と自由人に分かれます。自分の一日の三分の二を自分の為に使わない人間は奴隷なんですよ。

 


 そんなことを言うミウはとても厭な顔をしていた。

 自分に厳しいなんかじゃなくて、自分のことが嫌いなヤツの顔。

 現代社会のエリート、ミウ。俺はイイと思うけどな。


「それ、今で言うといわゆるニートってやつにしかほとんど適応されないんじゃない?」

「彼らは奴隷ですよ。自由に束縛された哀れな奴隷。あの人達の方がずっと素敵ですね」


 横を見れば昼過ぎにノした四人がマスターと盛り上がっている。

 あいつら全員退学済みで社会のレールを大脱線。

 ……人のこと言えねえがな。


「で、俺は自由に生きてるように見える?」

 ふとミウにそんなことを聞いてみた。


「言いましたよね。面白い自由人が好きと。それはもう、将来私が有効的な名前の大学を卒業して、大企業に勤めるようになったら、サロをヒモにしてあげてもいいくらい」

 面白い自由人、か。

 なんてことを考えていると『ヴェルヴェット』の扉が開いた。




 扉を開けて入ってきたのは同じ走り屋のネジだった。

 ジャージとグラスを灰色で統一したキザ野郎で、頭の緩い不良たちを抑える猿山のボス。

 だけどおめかしすれば甘いマスクの御曹司にもなれる。本当のところネジはこの街の大病院の一人息子なんだけど。

 そんなヤツが『エア』をヤって超人になる。〇,三パーセントの選ばれたガキの特権かもな。


「マスター、ブラック一つ。……それとサロ、おひさ。元気かよ?」

「……いつも通り。そういうそっちこそ調子はどうなんだ? 

 聞いたぞ。こないだの『シティラン』で優勝したって」

 『シティラン』は街を横断する障害物競走だ。

 建物から建物へ飛び移るアクロバットなパルクール。


「まあな。サロが居ないと『シティラン』はオレの天下だし」

「賞金はいつも通り?」

 『シティラン』は人気の競技だ。人気があるということは、賭けに動く金額も大きい。


国境なき医師団M・S・Fに匿名送金。これ以上金いらねーし」

「これだから良いとこのお坊ちゃんは。俺にも少しくれよ」


「勝利は自分で掴む物だぜ。それにお前、この三ヶ月間一度もレース出てねえじゃねんか。

 サロは優勝賞金でバカみたいな浪費を賄ってんだからよ、

 そこに麗しのお嬢さんが居るとはいえ」ネジはミウに微笑んだ。「いい加減迷惑かけるよな?」


「分かってーよ。スランプがしつこいんだ」

「噂は聞いてるぜ。夜な夜な一人線路を走ってるって」

「…………」


「それはサロにとっての儀式か? 儀式は大切かもしんねーけど」

 ネジはアドバイスのように言う。嘲笑っているようにも見えた。

、さ」


「…………帰るわ。またな、クソッタレ」

 俺はネジに中指を突き立てる。

 ぶっきらぼうにミウの手を引っ張って、『ヴェルヴェット』から飛び出した。


「……いきなりどうしたんですか?」

 答える余裕はない。

 ただ、三ヶ月前のことがストロボのように脳裏を瞬いた。




 ――――回転するコインが地面に弾かれた刹那。チャリンと音がして。二人は同時に急加速した。深夜の鉄道高架橋は往来二つのレースコース。俺とネジは『レールラン』のワン・オン・ワンでをしていた。二つの軌条ラインを弾道にして。俺は一つの銃弾となりひた走る。気化した世界を引き裂いた。左右にたなびく送電線を見て線路が曲がっていることに気づいた。変わり映えのしない夜空には月が浮かんでいる――『レールラン』は孤独な『レース』。一対一の完全な実力勝負。ゴールの駅にはギャラリーが待ち構えている。しかし道中は観客不在でただ一人。だから『レールラン』は地味過ぎて全く人気が無かった。というか今では走り屋同士が喧嘩がてらにタイマンを張るぐらい。でも『エア』をヤってる奴らはみんな『レールラン』が好きなんだ。スピードジャンキーどもがその速さを純粋に競えるただ一つの『レース』だから。――横を見ればネジが居る。いつもそうだった。俺とネジはライバル同士で勝率はコイントスの裏表。いい加減決着をつけたかった。温存していた体力にブーストをかける。風は更に激しくなった。マクラギを踏み飛ばす。もっと速く。もっと風に――微かな音が聞こえた。遥か彼方の暗闇から音がする。音は次第に騒音になり俺に近づいてくる。俺が音に近づいているとも言えた――そいつはだった。『レールラン』で俺が遭遇する最悪で初めてのアクシデント。おまけにかなり速い。後何秒でぶつかるか。俺は考えていた。交わる二つは相対速度二〇〇キロ。ぶつかれば全身がミキサーで抉ったトマトみたい飛散する。きっと笑えるくらいにグチャグチャさ。適合者で無くても見える距離まで列車が来ていた。避けないと死ぬ。。二つのラインから外に出ないといけない。――横の線路を見た。ネジが眼を剥いてる。俺は首を振りそのまま走れと促した――簡単な事だ。列車を飛び越えれば良い。何でって? 飛ぼうぜヤー無理だろナイン一か八かヤー自殺かよナイン臆病なのかナイン? 死が怖いかナイン? 自分が可愛いナイン? 衝突寸前。自分の命なんてどうでもいいと思っていた。俺のどこかの冷めた部分が俺をレールから脱線させた。横を過ぎる列車。加速した世界で全てがひどくスローモーションだった。風の振動が俺を叩きつける。列車は何事も無く去っていった。全身黒ジャージのお陰か夜に紛れて気づかれなかったらしい。俺はその場に突っ立ったまま。「クソ喰らえ!ファック」消えた列車に中指を突き立て叫んでいた――――




 何をやってもクソッタレだった。

 は一九年間ずっと網膜の裏に焦げ付いている。

 俺のヤること成すことその全てを九九,七パーセントが空っぽにしていった。


 高校では陸上部に所属した。

 超初心者。

 なのに自分で言うのもアレだけど、大抵のノウハウは見て覚えたらすぐ出来た。

 センパイとやらの努力の壁を片足で飛んで突き放す勢い。

 短距離中距離長距離走り高跳び棒高跳び障害競走、県内のメダルをほとんど掻っ攫ってやった。


 なのに、ちっとも面白くない。

 俺と張り合えるヤツがいないから?

 ちがうナイン

 そんなスカしたことぼやいてる訳じゃない。

 ただ、なんにも満たされなかったんだ。


 いつまで経っても味のしないガムに飽き飽きして、ありふれた青春ごと吐き捨てた。


 とある夜。

 センパイたちと暴力沙汰になり全員病院送りにして、色々あって俺は退学処分を食らった。

 ドラッグがバレたりとか。


 全員をノした後……確か俺は、ずっと月を見上げていたっけ。




 幼い頃は月に向かって走ってなんだか届く気がした。

 物心付いた日から俺は、夜になると家を飛び出していた。


 下劣に光る看板の群れ。

 母親と同じ匂いを振り撒く女と油切ったおっさんの組み合わせが、薄汚れたビルの中に食われてゆく。


 ――きもちわるい。


 ここではない場所ならどこでも良くて、それがたまたま頭上にあった。

 最初はただそれだけだったんだ。


 夜空に浮かぶ月を見据える。

 方角なんて関係無い。

 ただ月がある方向に向かってがむしゃらに走る。


 街の景色が厭に鮮明だった。

 排気ガスの臭いに安心感を覚えた。

 車に轢かれる寸前は数え切れない。

 死と隣り合わせの体験なんてデパートに陳列出来るくらい豊富さ。


 体はいつもクタクタで、俺はそんな体に無視を決め込んだ。

 筋肉の悲鳴なんて聴く気が無い。

 不思議なことに走り続ければそのうち疲れにくくなった。なんでだろうな。


 道中のコンビニで紙切れを渡して、走るためだけのエネルギーと交換した。そうやって月を目指す。


 でも俺だって睡眠欲には勝てない。

 限界が来れば公衆電話で迎えに来てもらう。タクシーに。


 開いた扉から入ると、俺はいつもの空間転移の呪文を呟いた。

 タバコ臭いふかふかの揺り篭が俺のベッド。おやすみ。


 眼が覚めると、俺は布団の中に居た。

 魔法なんかじゃなくて、わざわざタクシーのあんちゃんが玄関のピンポンを押してくれていたのだろう。

 そうしないないと運賃貰えないしな。


 ――ここは地球で、あの丸いのは空を隔てた向こう側。

 ハムスターのように球体の上を空回りしていることに気づいたのは小学五年のときだった。


 

 それを知ったとき、俺は家の中をむちゃくちゃに壊しまくった。




 俺のたぎった全てをミウの中にぶち込んでやった。

 躍動を終えても俺のソレは未だ収まらない。


 ミウは俺で初めてだった。

 分かっているのに、俺はセックスに関しては親切になれる気がしない。

 何回も何回も、いつもいつも苛立ちをぶつけるように人形に腰を振る。


 いい加減に俺も果てて、ベッドでくたばるミウを尻目に一人シャワーで汗を流す。


 俺が三分間の水浴びから帰ってくると、薄暗い蛍光灯のままミウはテッシュで後片付けをしていた。

 ベッドに散らばるティッシュの群れ。全部俺のソレだと思うと、笑いが乾く。


「……やりすぎですよ、サロ。いくら私が安全日だからと言っても、これはなんだか」

「だから安全日のときにしかヤってない。その分溜まってるけど」

「私は別にいいですけどね……せめてお互いの為にも、欲望を分散させましょう」

 ミウは珍しくモジモジしだした。

「ピ、ピルとかなら服用しますよ」


「――

 


 俺は自分でも驚くくらい底冷えのする声で言った。

 言ってから、後悔した。


 俺は黙ってベッドに潜り込む。ミウは服を着てなかった。

 まだ何か言おうとするミウの口をキスで塞いだ。

 舌を入れると自分の味がした。


 突き放すようにミウに背を向ける。

 気まずくて、言い訳のように窓の景色を眺めていた。

 とびきりの抑制系ダウナーをぶちこんだ感覚を思い出す。


 終わり無く言葉が巡る

 ――――


 ――ミウが俺を包み込んでいた。

 暖かい柔肌は、経験したことの無い安心感を俺に与えてくれた。


「いつでもいいです。また今度、聞かせてください」

「……すまん」

「いいんですよ。そんなサロが――とても面白いですから」

 俺はミウの温もりに甘えることにした。体を預けると巡る言葉は四散した。


 意識が融解する。

 境界線が曖昧になる。

 ヤるべきことは、分かっていた。

 俺は落ちてゆく、真っ暗な世界に、まるで深海にダイブするように、俺のいるべき夜空の底へ――




 俺とネジは駅ホームから線路に降り立った。

 暗闇の中、着地音が静かに反響して消える。


「ゴール地点は五駅先のホワイトテープ。スタートは二時四五分。俺はネジにワン・オン・ワンの『レールラン』を申し込む」


「了解した。五駅先には誰が居る?」

観測者ゴールマンだけ」

「三ヶ月前と同じだ」

「これで最後にするよ」

「じゃ、スタートまであと五分ある。サロの話を聞かせてくれ。これはギブアンドテイクってやつだ。

 ……サロの儀式に付き合う代わりに、オレには知る権利がある」


 ネジはグラス越しに俺の顔を見つめる。

「お前はなんでそう、いつもなんだ?」


 俺はくだらない仮面を剥がす事にした。

「……俺はさ、〇,三パーセントなんだよ」

「あん? 『エア』の適合率か?」


 言ってしまえば気楽だった。

「お水の母親が飲み込んだピルはタマゴを透き通って突き刺さったんだ。

 

 だから何をヤっても実らない。ちっとも愉快になりやしない。

 ピルが俺の邪魔をする。九九,七パーセントが俺を空虚にする。

 笑えるぐらいに空しいんだよ!」


 俺は夜空に怒鳴った。そして深呼吸する。

「だから俺は、〇,三パーセントの『エア』でもって、俺にぶっ刺さったピルを抜きたい」


「……で、この『レールラン』で、お前はその願いに近づけるのか?」

「そんなもん分からねーよ。

 ――

「オウケイ、オウケイ。サロ、ならば勝負だ。

 ――本気でお前をぶっ潰す」


 壁時計を見るとあと一分。

 俺とネジはポケットから注射器ポンプを取り出した。

 俺のはよくある使い捨て。

 ネジのそれは先端が丸みを帯びている。最小限の注射痕に抑える最高級の無痛注射器ペインレス


「コレ、病院のやつ。あらかじめ言ってくれればお前にも渡せるぜ?」

「どうやら俺の趣味は安物で出来た穴を鑑賞して自嘲することらしい」


 ネジは肩を竦めた。俺は静脈に突き刺した。


 ピストンを押し込んで、液体を血液に交わらせて――――五感が跳ね馬みたいに暴れまわって脳内分泌\神経伝達\血流運搬\筋肉収縮\カラダの全てが急加速して注射器ポンプをヘシ折って後ろに放り投げた。ネジを見ればもう行為を終えている。気だるいまでの停滞の中で何かが地面に落ちる音がした――――




 ――――回転するコインが地面に弾かれた刹那。チャリンと音がする。知覚する世界はスローモション。俺は最大初速で駆け出した。景色が急激に気化する。いきなり現れた風圧の壁。体が持ってかれそうな空気抵抗を無理やり振り切る。駆ける。今の俺は前だけを見ていた。昔を思い出す。ただがむしゃらに月に向かって走っていた夜。心のどこかで無意味さを笑いながら空回りしていたあの頃。? 使。横目を使えばネジは真横に居た。お前マジですげえよ。正直俺には陸上の才能なんて無かった。ただ睡眠以外の夜の全てを走りに費やしただけだ。それでも誰よりも走っていたんだ。そんなナケナシの自負をネジは純粋な才能で打ち砕いてくれる。だからこそお前に勝ちたいんだ。――微かな音が聞こえた。――俺は三ヶ月間一人で走り続けた。ネジの言うとおりそれは無意味な慰めに過ぎないのだろうけど一つだけ得たものがある。という情報。俺は横を走るネジに笑い掛けた。アイツの唇の片端が引き攣っている。。轟音を散らして消灯した列車が迫る。上を見た。泳ぐように揺らぐリュウグウノツカイが月を真っ二つにしていた。高さは五メートル。列車は金属製の菱形パンタグラフをあの送電線に擦り付けて動いている。。それ以前に。つまりだ。。あまりにもバカ過ぎて涙が出そうだった。あともう少しで列車と衝突する。回避手段は二つ。脱線するか。ぶっ飛ぶか。否定ナインなんて飛ぼうぜヤー無理だろヤー一か八かヤー自殺かよヤー臆病なのかヤー? 死が怖いかヤー? 自分が可愛いヤー? そうだろヤー。――瞬間。地面最後のマクラギを踏み締めた。走り幅跳びってのは助走の加速を地面でせき止めて運動エネルギーを空中に解き放つんだ。時速一三〇キロの力で俺の両足がはち切れそうになる。力は上へと。俺は夜空に落ちてゆく。肉体は背泳ぎのフォルムを描いて感電死を避けようとした。リュウグウノツカイと一緒に夜空を泳いでるみたいだった――


 ――夜空を見た。目を凝らせば星空だ。その中に月が浮かんでいる。俺は右手を伸ばした。今なら届きそうな気がした――


 ――肉体が重力に引き摺られる。送電線から滑り落ちた俺が列車と交錯する。月へと伸ばした右手がそのままで。それが金属製の菱形パンタグラフに巻き込まれて。何かが千切れる感触がした。過ぎ去っていく列車。落下寸前の俺が見たものはだった。そういえば指が四本しかない。痛さは感じない。。中指が遠く離れてゆく――俺には中指の形が錠剤ピルに見えた――空中。このままだとレールに擦り下ろされる。考えるよりも先に体を捻っていた。速度を維持して地面に着地しそのまま駆ける。気分は最高だった。最高にハイになっていた。? 何もかもが初体験だった。突然今まで見えていたモノが見えなくなった。姿。「」という言葉がぼんやりと浮かぶ。空虚さは吹き飛んだ。俺は走る。無心で走る。走る。奔る。疾走する。いつの間にか横に伸びた白い線を胴体が通過していた。すると世界が元に戻る。星空も月もゴール地点の駅も後ろを走るネジも全てが姿を現してポワポワの思考が回復する。。足元を見れば右足と左足が絡まって体が斜めに突っ伏していたから。時速一三〇キロの「転んじゃった」とか洒落にならねえ。とか考えてるうちに俺は回転した。全身をハンマーで殴られたような衝撃を意識の続く限り感覚しながら――――




 清潔なベッドの上で俺は笑い転げていた。

 笑うたびに引き攣るほど体のあちこちが軋んで痛む。

 ドアにもたれたネジが呆れ顔を向ける。


「金は気にしなくていいぞ。俺のわがままは家族に効くから。

 医者いわく生きているのは奇跡だそうだ。お前の症状読み上げてやろうか?」

「遠慮しとく」


「んッ!」

 パイプイスに腰掛けたミウが、泣き腫らした瞳で俺を睨み付けている。

 かなりの至近距離。

 ベッドに乗り出すように俺に視線を刺す。


「お嬢さん、安心してくれ。何がなんでも元通りに治すから。

 ――勝ち逃げは許さねえぞ?」

 ネジは後ろ手を振って出ていった。



「……もう、サロ、いっそ死んだほうが良かったですね」

「いや。ごめんな。正直やけっぱちだったよ」

「なぜこんなことをしたんですか?」

「……哲学書に書いてたやつだよ。通過儀礼イニシエーション。そうでもしないと、俺はずっと空虚なままだった。

 ずっといろんなものを否定してきたのも、この空虚さを吹き飛ばしたかったからさ。

 自分を追い込んで、落として、底に背を重ねて、そんなクソッタレな状況にこの身を置けば、俺を変えれる気がしたんだよ。

 誰かが言ってたんだ。ってさ」

「ニーチェの言葉ですね」


「……結局、俺そのものがクソッタレだったんだよ。何かを否定したところで何も変わらない。

 だから俺は否定することをやめた。そしたら変われた。

 ――もう、なにも否定しねえよ」


 俺はコードでぐるぐる巻きにされた右手をむりやり持ち上げた。

 ……欠けた中指を突き立てるなんてできやしない。

 笑えるぐらいに清々しかった。

 俺はまた笑った。


「…………。

 ……サロは、つまらない人になってしまいましたね」

「もっと鬱屈としているほうが面白かったか? 残念、俺はこれからもこのままだ。

 生きる楽しさとかを、知ってしまったからさ」


「――言葉、サロの口から出さないで!」

縛られんな。現代社会のエリート、ミウ。

 。ミウが、ミウを肯定してやれよ。俺でよければ、どんなミウでも肯定するからさ。

 愛してる。大好き。毎日セックスしたい。一緒に過ごそ。だから良いとこ働いて俺をヒモにしてくれよな」

「……もう……、こんどからは、優しくしてくださいね」


 ミウは笑った。

 ミウの笑顔、初めて見たかもしれない。

 すごくよく似合ってる。


「ところでさ」

「なんですか」

「笑いすぎて冗談抜きで体に響く、痛い、すっげえ死にそう、そこのボタン押して、死ぬ」

 ミウはどうしようもないものを見つめる顔つきを浮かべながらボタンを叩いた。


「……もう、サロ、いっそ死んだほうが良かったですね」

「まだ言うかよ」

 俺はまた笑った。


 こうやって、どうでもいいことに幸せを感じながら一生笑い続けるんだろうな。


 馬鹿は死ぬまで治らない。




END

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