卒業アルバムは引き出しの中に

みけねこ

卒業アルバムは引き出しの中に


 俺は母親の葬儀を終えて遺品整理の為に十数年ぶりに実家に帰っていた。  


 急病だった。病院に搬送されるも程なくして病院で息を引き取ったと聞いた。話によると母は独り身だったために発見が遅れたのか致命的だったという。


 それからは慌ただしいものだった。


 父は俺が小学校の時に交通事故で亡くなり、兄弟もいなかったので俺が母の死に関する手続き――葬儀や相続に関わる諸々を全て行わなければならなかった。お陰でクタクタだ。


 結局俺は実家を引き払うことにした。業者も既に手配してある。それまでに整理をして処分できるものは処分して置かなければ。


 嫌に小さく見える家の引き戸を開けて声をかけるが返事はない。


「……ただいま」


 当たり前だ。ついこの前、火葬場で骨になった母を骨壺に入れたばっかりなのだから。だというのに俺はなぜただいまなどと言ってしまったのだろう。


 荷物を玄関に置くと階段から二階に上がって廊下の突き当たりの扉を開け自分の部屋に向かう。

 俺は一人でこの家の荷物を全てまとめなければならない。きっと大変な作業になると思うと気が重い。

 他の場所はひとまず放置してまずは勝手の分かる自分の部屋から始めることにした。


 ギーと音を立てて扉が開く。


 あちこち埃をかぶっているが、俺の部屋は大学進学を期に実家を出ていったあの頃のままだった。


 酷く懐かしい。


 本棚の小説や漫画、高校時代に使った参考書などを段ボール箱に詰めていく。次に勉強机の本を片付けようと引き出しを順番に開けていく。


 勉強机の足下にある引き出しから出てきた物が目を引いた。


 ――中学校の卒業アルバムだった。


 まさかこんな所にあるとは思わなかった。覚悟していなかったために不意をつかれた。


 心臓が止まったかのように胸が苦しい。


 記憶の中に封じ込めていた記憶があれから十数年経っているといのに嫌に鮮明に徐々に蘇ってくる。



――高校の卒業式が終わった。


 担任の薄っぺらい最後の挨拶が終わると、教室はにわかに騒がしくなる。


 俺は卒業アルバムの寄せ書きをし合う同級生達を尻目に一番に教室を出た。


 校舎を出ると昇降口前には、にこやかに卒業式に出席した両親と話す女子生徒や友人達と輪になって談笑する男子生徒達の姿が散見された。


「慎吾」


 俺の名前を呼ぶ声がする。俯きがちだった視線を上に向ければ、そこには母が立っていた。

 母は化粧をして黒の丈の長いスカートを履いている。卒業式に出席するための正装だ。ぴっちりとした装いが逆に母のふくよかな体形を強調していた。俺にとって母のその姿は嫌がおうにも今日が特別な日であることを意識させられるものだった。


「卒業おめでとう」

「……うん」


 俺は母のその言葉にぶっきらぼうに返すことしか出来なかった。


 一つは周りの目だ。他の生徒が友人達と談笑する中で母親と話しているのを見られたくなかった。

 もう一つは後ろめたさだった。俺の中学生活は最悪だった。――有り体に言えば虐められていたのだ。無視もされたし、友達と呼べる人間も出来なかった、嫌なあだ名をつけられたり、汚物みたいな扱いをされたこともあった。灰色の何一つ楽しいこともない高校時代だった。

 それでも俺は親には虐められていることを隠し続けた。プライドが許さなかったからだ。だから俺は卒業を祝ってくれる母にどこか嘘をついているような騙しているような後ろめたさがあった。


「じゃあ、帰ろうか」

「…………」


 母の後ろをわざとらしく間隔を開けてついていく。長い長い下り坂だ。俺の通う中学校は校舎は丘の上にあり、毎朝この坂を登らなければならない。


 ひらひらと淡い桃色が視界に降り注ぐ。

――桜の花びらだ。


 通学路となる長い坂の脇には桜の木が上から下までズラリと植えられている。今年は桜も早咲きでまだ三月だというのに桜は満開だった。


 散った花びらがアスファルトを覆う。


「ほんと……きれいね……」


 母が目を細めてそう言った。真昼の陽の光が母の少したるんだ頬を照らしている。


「…………」


 俺は何も答えられずに黙って後ろをついて行くことしか出来なかった。


 坂の下の駐車場に着くと、俺は母の運転する車に揺られて家に帰った。



 昼食を食べると俺は何もする気もおきず自分の部屋で昼寝をした。目が覚めると既に日は暮れていた。一階に降りると家の外の車庫に車がなかった。母親が出かけたのだと分かった。


 俺は居間の引き出しを漁った。


――取り出したのは油性マジック。


 階段を上がると逃げ込むように自室に入ると扉を閉めた。


「はぁ……はぁ……」


 緊張からか過呼吸気味になり息が上がる。


 そして俺は鞄の中から卒業アルバムを取り出して、開いた。


 表紙からパラパラとめくっていくと、校舎の写真や教員の写真のページを通り過ぎて各クラスで一人一人の顔写真が掲載されているページにたどり着いた。


 俺が目をつけたのは満面の笑みでピースをする男子生徒の写真。


――コイツだけは、絶対に許さない。


 この男こそが俺が三年間悲惨な学生生活を送る羽目になった原因だと確信していたからだ。


 仮にコイツの名前をAとしようか。Aは一年の時に同じクラスで、そのクラスでは唯一の同じ小学校出身の男だった。

 中学校に入学してからゴールデンウィークを迎えるまでの一ヶ月。

 元々、小学校では何とか上手く孤立せずにやってこれた俺は中学校でも四、五人の男子のグループに紛れ込む事ができた。


 そして、その中にAもいたのだ。


 だが、少し話すと奴らとは話題も話のノリも合わなかった。最初は何とか話題を出そうと頑張っていたが、数日経てば俺はただその場にいるだけの空気になっていった。だが、それでもクラスで孤立するよりはマシだと思い、ただ何も話さずにグループの輪の中にいた。


 そんなある日――Aがこんなことを言い出した。


『お前、俺らの話分かってるの?』


 今思えばAにとっては俺が奴らの話を分かっていようといなかろうとどうでも良かったのだ。Aはただ俺を貶すことで自分が優位に立ちたかっただけなのだろう。

 俺は何も言えなかった。実際、奴らの話など何も分からなかったから。別に分かりたくもなかった。


『お前さ、なんか暗くね。なんていうか笑い方もキモいし』


 Aが茶化したようにそう言うと仲間内でドッと笑い声が上がった。何が面白いというのだろう。


 次第にそのグループ内で俺に嫌がらせをする風潮が醸成された。気がつけばそうなっていた。俺が困ると、嫌がると、怒ると奴らは笑う。そしてその中心にいたのはいつもAだった。


 マジックのキャップを外してAの目から鼻にかけてグチャグチャと塗りつぶしてみる。


「ふ……ふ、へっ」


 胸の空く思いだった。自分の受けた傷や痛みが少しは癒えたような気がした。


 もっと。もっと、だ。


 本人には言いたくともぶつけられなかった呪詛をブツブツと吐きながら執拗に塗り重ねる。


「へ、へへっ、し、死ね」


 Aの顔が完全にインクでベッタリと覆われ誰だか判別出来なくなる。


「消えろっ」


 そうして遂には写真全体が四角くベッタリと黒塗りになった。


 頬がじんわりと熱い。心が満足感で満たされる。ああ。俺は今この瞬間の為に我慢して学校に通っていたんだ。


 この男は三年生になると生徒会長になった。奴はあろうことか全校生徒の前で『僕はイジメは絶対許しません』と言った。そして全校生徒四百人が奴に拍手をした。


 本当に死ねばいいのに。


 この卒業アルバムと現実世界がリンクしていて、俺がAの顔を塗りつぶした瞬間にアイツは家で心臓麻痺にでもなってのた打ち回る。そんな想像をするとついまたニヤけてしまうのだ。


「…………」


 ああ。そうだ。


 その時、俺の頭に素晴らしいアイデアが浮かんだ。


 こうなったら俺に嫌なことをしてきた奴らは全員塗りつぶしてやろう。


 これは俺から奴らへの断罪なのだ。

 

 コイツは俺の笑い方が気持ち悪いと拒絶した。コイツは俺の弁当をトイレに流した。コイツは俺がイジメられているのを黙殺していた。コイツは俺のことを見て笑っていた。コイツは俺の家族を馬鹿にした。


 コイツは……コイツは……。


 ああ。駄目だ。どいつもこいつも大嫌いだ。顔を見るだけで虫唾が走る。


 クラスが変わって直接的なイジメはなくなったが、俺はずっと腫れ物扱いで一人ぼっちだった。

 何度か話しかけようとしたことはあった。

 だが、無視されたりそれとなく躱されて、すぐに諦めた。文化祭も体育祭も俺に何の役割も与えてくれなかったくせに、奴らが俺のことを何もクラスに貢献しないゴミだと陰口を叩いていたことを俺は知っている。


 俺が一年の時にイジメられていたことが知れ渡ってしまったのが原因だった。他人はイジメられた人間を問題のある人間だとみなす。そして、問題のある人間に人は寄り付かない。自分まで問題のある人間だとみなされることを恐れるからだ。


 そして俺は学校生活の全てを諦めた。


 気がつけば、ほとんどの生徒の写真を塗りつぶしていた。


 一組から順に、二組、三組そして四組と塗りつぶしていく。


 三年四組。目に入ったのは俺自身の写真だ。


 満面の笑みで中にはふざけたようなポーズをとっている他の生徒達とは対照的に引きつったような笑みを浮かべている。

 まるで俺の空虚な高校生活が、俺の卑屈さがそのまま表情に表れているようで嫌だった。


 ああ。嫌だ。二度と見たくもない。


――自分の顔も油性マジックで塗りつぶそうとしたその時だ。


「慎吾〜」


 心臓が跳ねる。いつの間にか母は帰宅していたようだ。


「夜ご飯出来たよ〜」


 ああ、くそ。こんな時に。なんてタイミングが悪いんだ。


 俺は引き出しの奥底に卒業アルバムをしまい込み、一階へ下りた。


「今日は、ハンバーグ。好きだったでしょ?」


 食卓に現れた母は台所に背を向けたまま語りかける。付け合せの野菜を切っているのかトントンと包丁がまな板を小気味よく叩く音が聞こえる。


「慎吾、そういえば卒業アルバムもらった……?」


 心臓が鼓動を間違えそうになる。今、俺が最も触れられたくない話題だ。どうして。まさか俺が部屋でしていたことを知っているのか? 全て見透かして俺のしたことを咎めようとしているのか?


 やめてくれやめてくれやめてくれやめてくれやめてくれ。


 俺は心の中で懇願する。


「……ない」


 言葉少なに返したのは否定の意。


「え?」


 母が聞き返してくる。


「ないって、また、そんなこと……」

「ないってば」


 語気が強くなる。母は押し黙った。テレビのバラエティ番組の騒がしい音だけが響く。


「……貰ってない、ほんとに」


 言ってから強く言い過ぎてしまった後悔する。


「……そう」


 そして母は少しの沈黙の後――


「いや、なんでもないわ……。卒業おめでとう。冷めちゃうし早く食べましょ!」


 薄く微笑んで明るくそう言うと、アルバムのことをこれ以上は聞かないでくれた。


 母は俺が中学で浮いていたことに気づいていたのだろうか。


 そう思うと俺は心が痛かった。思わず涙で視界が揺らぐのに気づいて、顔を母に見られまいと下を向いたまま箸を手に取った。


「……いただきます」


 俺の声は震えていなかっただろうか。母を悲しませてはいなかっただろうか。


 ハンバーグを口に運ぶと、甘かった。母の味付けはいつも少し甘い。生まれた時から慣れ親しんだ味が俺を無条件に優しく包みこんでくれた気がした。



 ああ。全て思い出した。


 ゆっくりと卒業アルバムを閉じる。真っ黒に塗りつぶしたAの写真や引きつった自分の顔の写真はあの頃のままだった。


 ――これは俺の罪なのだ。決して忘れてはいけない、忘れることの出来ない罪。


 母に卒業アルバムはないと嘘をついた。母はきっと俺が嘘をついている事を分かっていたはずだ。卒業アルバムは貰っていないなんて余りにも稚拙な嘘だから。それなのに母は俺に何も言わなかった。俺は最後まで自分の口から嘘を告白しなかった。母が急に病に倒れるまで実家には帰らずに、自分の罪から逃げて逃げて逃げ続けた。『いつか』は向き合うから。そう思っていたのに。その『いつか』は来なかった。

 

「……ごめん」


 母はもういない。俺は俺の罪を告白して楽になることは出来ない。死ぬまでずっとずっと付きまとうのだろう。


「ごめんなさい……」


 いつの間にか目に溜めていた涙はポタポタと段ボール箱の底に落ちていった。

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