黒映え

小狸

短編

 夜、私は家の近くの川を散歩する。


 時折、水流を見る。


 夜の水面というのは、どうしてこう禍々まがまがしいのだろうか。


 浅瀬なので、日中は脇道からでも水底の石たちが見えている。


 今は違う。

 

 まるで全てを飲み込んでしまうかのように、黒く映えている。


 そんな川を見ながら、私は夜の散歩を続ける。


 一日、何もできなかった日というのが、私にはある。


 今日がそうだった。


 何もかも、だ。


 それはやる気とか、頑張りとか、そういう以前の話である。


 もはやそれを行おうとする気概すら、湧いて出てこないのである。


 この場合の何もかもには、生活に必要な事柄も含まれる。


 例えば今朝、洗濯物を洗濯機に入れて洗った。


 しかしまだ干すことができていない。


 文字通り、できないのだ。


 身体が、思うように動かない。


 しかしそれは、何か身体的な病状とは違うものである。


 主治医や看護師も、そう言っている。


 ならば何かと問われると。


 精神的なもの――こころの問題、なのだそうだ。


 昔は、こんな風ではなかった――と思いたいが、周囲の話を聞くに、傾向はあったようである。


 ふとした拍子に、何もできなくなる瞬間というのが、起こるのである。


 その原因というのは、もうこの際はっきり言ってしまえば、周囲にあると思う。


 こういう時他責思考は良くないと言われるが、もうそうでもしなければ、やっていけないのである。


 自責はずっと、やってきた。


 だから今度は、他人を責めたって良いだろう。


 それは小中学校と、私の顔が気に喰わないという理由で、殴る蹴るなどの暴行を加えたいじめの主犯格であり。


 教育に無関心で、受験期で止めてと言っても部屋でギターをかき鳴らしていた父であり。


 子どもに自分を投影し、取った点数を褒めるより落ちた点数を叱る母であり。


 さんざ私のことを見下し、学校内で噂を流して回った妹であり。


 部活動で面倒事を全て私に投げ、どの役職を私に就かせるかで勝手に議論を進めて、挙句私が倒れても一言すらも謝らなかった同級生たちであり。


 帰りの車の中で私にセクハラをしようとして、私を退職させ統合失調症にさせた上司である。


 いや、分かっている。


 自分の人生は、自分で責任を取るものだ。


 自己責任。


 令和の今、より一層、その論調が増しているのをひしひしと感じる日々である。


 でも。


 だからって。


 私から全てを奪ったのは、周囲の人々ではないか。


 私だって。


 私だって、普通に生きたかった。


 私だって、普通になりたかった。


 恵まれた連中はそんなことも分からずに、平気で私の心を、土足で踏み荒らす。

 

 そしてにっこりとした自然な笑顔で、こう言うのだ。


「人生そういう時もあるよ」


「いつか明日が見えるよ」


「大丈夫だよ」


 私の人生を追体験させてやろうか?


 そうすれば理解してくれるか?


 多分ほぼ全員、耐えきれず、十代のうちに自殺するだろう。


 明日なんて見えない。


 この川のように、底の底まで黒い。


 私のこころと、同じだ。


 ふと。


 こんな感情に襲われることがある。


 ここから飛び込めば、死ぬことができるだろうか。


 あの虚無の中に、私の答えは、あるのだろうか。


 もう苦しいことからも、辛いことからも、逃れられるだろうか。


 朝の光が来る前に、夜の闇の中で。


 誰にも見つけられずに、誰にも分かってもらえずに。


 誰にも、助けてもらえずに。


 それは確かに、私らしい最期だ。


 私らしい、終わり方だ。


 私は一瞬立ち止まった。


 ぎゅっと、ガードレールを掴んで。


 離した。


 後ろにいたスーツを着た男性が、私を抜かした。


 私は、横目にその人を見た。


 この時間であるから、家への帰り道だろうか。


 そこには、待っている誰かが、いるのだろうか。


 家族が、いるのだろうか。


 そう思うと、何だかうらやましくなって。


 死ぬことが、面倒臭くなった。


 帰り道というのは、総じて面倒臭い。


 来た時と同じ景色だからである。


 今日は何もできなかった。


 明日も、何もできないだろう。


 それでも私は、生きている。


 何かの間違いで、生きている。


 答えは、誰も教えてくれない。


 その解答欄は。


 この川と同じ色の、黒い油性ペンで。

 

 ぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。


 


(了)

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黒映え 小狸 @segen_gen

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